ふたつの『明解漢和辞典』

 谷沢永一『紙つぶて―自作自注最終版』(文藝春秋2005)に、「長沢規矩也漢籍書誌学の権威で、また引きやすさの工夫を重ねた『明解漢和辞典』(三省堂)等の編者」(p.444,初出は1976.2.25)云々、とある*1
 また、見坊豪紀『ことば さまざまな出会い』(三省堂1983)の「明解に」項(「ことばのアルバム」)の「追記」欄には、次のようにある*2

 『明解国語辞典』(一九四三(昭和18)年刊、金田一京助監修)の名称は、『明解漢和字典』〔三省堂刊〕(原文ママ)にならったもので、提唱者は、『明解国語辞典』の共著者・山田忠雄君だった。しかし、そのころ、“明解な答弁”などという言い方はまったくなかった。『明解国語辞典』とは、「明解を与えた国語辞典」ぐらいの意味に理解していた。(p.189)

 
 文中の『明解漢和典』は、『明解漢和典』の誤記であろうが、谷沢氏が紹介した『明解漢和辞典』(三省堂)と、見坊氏が触れた『明解漢和辞典』(三省堂)とは、別のものである。
 それについて述べる前に、山田忠雄氏の証言を引こう。

山田(忠雄―引用者,以下同) 彼(見坊豪紀)は早くも語彙の採集を始めて、新しい語を差し挟み始めたということです。『ポケット国語』という名前で始めて、出来上がる間際に名前を何としようかというので、私が『明解』がよかろうと言うのできまった。
武藤(康史) その時『明解』という言葉を発案なさったきっかけは何ですか。
山田 いや、『明解漢和』(昭和二年初版)というのがあったから、それに倣って。
武藤 当時「ポケット」なんて、ずいぶん斬新な言葉が予定されていたんですね。
山田 うん。ただ安っぽい感じがするね。国語辞典にはまだ向かないと思ったね。(「あとがき」,柴田武監修/武藤康史編『明解物語』三省堂2001:381)

 ここでは、くだんの『明解漢和(辞典)』について、「昭和二年初版」と明記している。
 この“昭和二年初版『明解漢和』”というのは、さきに述べたように長澤規矩也の編著ではなく、宇野哲人編『明解漢和辭典』(三省堂)をさす。先日、この増訂版(昭和十六年五月十五日増訂百三十一版)を入手した(円満字二郎氏は昭和十九年三月五日増訂百四十三版のリプリントをお持ちだそうである)。
 ポケット版だが、「序」を読むと、編者の並々ならぬ思いがひしひしと伝わって来る。
 いわく、「囘顧すれば、三省堂が斬新の創意と耐久の刻苦とによりて編纂したる漢和大字典を刊行して、漢和字典界(ママ)に一新紀元を劃せしより、業已に三十年に垂なんとす。三十年の日月短きにあらず、然れども爾來漢和辭典の刊行せらるるもの、多くは之に依倣して編纂せられ、所謂樣に依りて葫蘆を畫き、未だ嘗て一新機軸を案出せしものにあらず」。ではどうすべきか、というと、「惟ふに漢和辭典は文字檢索の利便を主腦となさざるべからず」。「故に著者は説文(許慎『説文解字』―引用者)・玉篇以下一千有餘年因襲し來れる舊套を排脱し、專ら字音によりて文字を檢索することを主とせり」。
 今でこそ、白川静『字通』(平凡社1996)*3など、五十音にもとづく「字音」排列の漢和辞典はあまり珍しくはないが、当時は劃期的なことであったろうとおもわれる。

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 一方、長澤版『明解漢和』は、宇野版『明解漢和』と直接の繋がりはなく、昭和十二(1937)年刊『新撰漢和辞典』(この辞書は、宇野哲人・長澤の共編ということになっている)の改訂版だという。以下に原田種成氏の記述を引く。

 昭和三十年ごろ、長沢先生から昭和十二年刊の『新撰漢和辞典』(三省堂)の語彙を整理し、当用漢字・新かなづかいによって改訂することになったので、君にも手伝って貰うよ、と言われていたので、いつ声がかかるかと心待ちにしていた。(略)
 三十三年八月二日、長沢先生から呼び出しがあり辞典の原稿作成に協力を頼まれ、箱根の旅館に泊り込んで執筆した。すでに私は当用漢字の新字体と新表記・新かなづかいを一通りマスターしていたから、すぐにとりかかることができた。先生の手で、すでに半分ほど書きあげられて組版になっていたこともあって、仕事は大いにはかどった。(略)執筆の旅館は別々であった。それは、一緒だとたがいに話をしてしまい原稿がおろそかになるからであった。先生が親字、私が熟語を書いた。先生は朝が早いので、私も負けずに五時に起き、朝食を抜いていたときだったから、午前中に七時間ほど原稿を書き、夜は九時まで頑張り、ノルマ課長の異名のあった桜井氏(三省堂の担当者―引用者)が仰天するほどのスピード、つまりほぼ一カ月で予定通り残りの半分を完成した。これが昭和三十四年三月刊の『明解漢和辞典』である。(原田種成『漢文のすゝめ』新潮選書1992:190-91)

 さすがに、「わたくしの辞書づくりは、(略)約五十年の歴史を持つ。(略)今度の辞書でも、みずからも印刷所に出張して、直接に工員と接して、校正をしたのである。この点では、他の名義ばかり貸される諸先生とは全く違うと自負している」(「祖父に教えられた書物の世界」『三代の辞書―国語辞書百年小史』三省堂1967,p.5)と書いた長澤ならではの逸話である。
 ところで『新明解漢和辞典』の長澤による序文に、「宇野博士の名で出版された三省堂の旧版の漢和辞典」とあるのだが、これは『明解漢和』のことなのか、それとも、その五年後に出た『新漢和大字典』(円満字二郎氏の文章に出て来る)か、あるいは『新撰漢和』なのか。これだけではよく解らない。

紙つぶて―自作自注最終版

紙つぶて―自作自注最終版

ことば さまざまな出会い

ことば さまざまな出会い

明解物語

明解物語

漢文のすすめ (新潮選書)

漢文のすすめ (新潮選書)

*1:「引きやすさの工夫」というのは、主に独自の「部首」を立てたことを言うのだろう。

*2:この記述は、柴田武監修/武藤康史編『明解物語』(三省堂2001)pp.27-28や、佐々木健一『辞書になった男―ケンボー先生と山田先生』(文藝春秋2014)p.81にも引かれている。

*3:「普及版」が間もなく出る由。