岩本素白/久保天随

 素白の随筆については、「岩本素白の随筆」や、「岩本素白の随筆ふたたび」「文庫本玉手箱・『閑話休題』覚書」で触れたことがある。
 素白と云えば、数年前にある場所で、砂子屋(まなごや)書房版*1の『山居俗情』(函入)を見かけた。自由に持ち帰ってもいいということで、状態も良いからかなり迷ったのだが、平凡社ライブラリー版を持っているし、直前に八雲書林版の山頭火『草木塔』を頂いていたしで、結局遠慮して頂かずにしまった。今はきっと、収まるべきところに収まっているものと信じたい。
 この一月、素白の作品はついにちくま文庫に入った。早川茉莉編『素湯のような話―お菓子に散歩に骨董屋』、である。随筆のみならず小説「消えた火」を収め、素白に師事した伴悦氏の解説(「素白随筆文学の風容」)なども附いている。
 さらに今春、来嶋靖生岩本素白 人と作品』(河出書房新社)が出た。来嶋氏は、ウェッジ文庫版『東海道品川宿』を編まれた方。「岩本素白と私―あとがきにかえて」には、「『東海道品川宿』がウェッジ文庫として上梓されたのはひとえに岩本禾夫人の寛大なお心と、編集担当者の服部滋さんの熱意の賜である。本ができたのは二〇〇七年の暮れ、吉祥寺の書店の店頭に『東海道品川宿』が平積みにされているのを見て、またしても私の心は震えた。(略)この覚書は『東海道品川宿』刊行後、わが師窪田空穂、都筑省吾両先生への報告のつもりで書き始めた」(p.179)云々、と書かれている。榛地和*2の装本もまことに良い。
 この本は、「岩本素白の生涯」「岩本素白をめぐる人々―素白はどう読まれてきたか」の二部構成となっており、第二部「岩本素白をめぐる人々」には、山崎剛平砂子屋書房の開業者)、稲垣達郎、野尻抱影森銑三、伊藤正雄、保正昌夫、徳永康元鶴ヶ谷真一種村季弘などなど、錚々たる顔ぶれがそろっている。そこに「平澤一」とあって、眼が吸い寄せられた。
 平澤氏の『書物航游』(中公文庫1996)は、拙ブログ上でも触れたことがある。「武玉川ほか」「露伴と正木旲」で紹介・引用した。大好きな本で、何べんか読み返している。
 来嶋氏によると、その平澤氏に、『人と本』(アルマス・バイオコスモス研究所1999)という著作があるのだそうだ。寡聞にして知らなかったが(先月、「qfwfqの水に流して」で「物の見えたる――素白雑感」という記事が書かれていたことも、これを記す過程ではじめて知った次第。藤田三男氏の興味ふかい発言もそちらで紹介されている)、来嶋氏は「平澤さんと親しい金沢市内の書肆龜鳴屋さんを知り、貴重な本書を手にすることができた」(p.142)といい、なんとも羨ましい限りだ。「龜鳴屋(かめなくや)」と云うと、高橋輝次氏の『ぼくの創元社覚え書』を昨年に出されたところ*3でもある。

    • -

 来嶋氏の文章に触発され、また『書物航游』を読み返しているのだが、いつか引用する積りで忘れていたくだりをおもい出したので、ここで紹介することにしたい。
 平澤氏が、神田喜一郎から聞かれたという話である。

 昭和三十六年一月二十五日に、神田さんの御宅でうかがった話である。その頃、神田さんは、病気で京都博物館の館長をやめて、門をとじ、客を謝絶されていた。訪問した後、忘れぬように一問一答の手控えを作ったので、そこから、原文のまま、引くことにする。
 平澤 最後に一つ、お伺いしたいのは、『続国訳漢文大成』の『蘇東坡詩集』の訳註のことです。あれは、内容見本では、先生が訳註者になっており、また、東坡の詩「夜泊牛口」の解釈が二頁だけ印刷してあります。ところが、出版された本では、岩垂憲徳・釈清潭・久保天随の三氏の共著になっておりますが。
 神田 いや大変なことを御存じですな。あれは、少し書きかけたのですが、その儘になってしまったのです。私が図書寮におりました時、久保さんも一緒でした。その久保さんにすすめられて、その頃は若くもあり、やってみようという気持でお引き受けしました。
 平澤 久保さんは吃ったので、文筆に専念し、非常に筆が速かった。博文館の四書の註釈の大学を三日で書いた時には、さすがに大橋新太郎が驚いたと登張竹風は書いておりますが、そんなに筆が速かったのでしょうか。
 神田 それは本当です。私がこの目で見たのですから、間違いはありません。私は台北で、昭和四年から七年まで、久保さんが教授のもとに助教授をしておりました。赴任した当座は、暫く同じ部屋におりましたので、知っておりますが、先生は朝早く大学にこられて、講義前に、毎日三十枚を限って、『漢文大成』の『李太白詩集』の訳註を書かれました。大部の『分類補註李太白詩』と『李太白文集輯註』を左に置き、右に紙を置いて、毛筆で書く。註を読みながら、そのまま右手でスラスラと書いていかれる。普通の人なら、まず註を段落の所まで読み、それから筆をとるが、先生は読みながら書くのです。人が写本するのと全く変らぬような速さでした。先生は吃られたので、講義や講演には成る程むいておられなかった。それで早くから、文筆を以て立とうという気持があったのでしょう。
 平澤 そういうように速く書いたものの、出来具合はどうでしたでしょうか。
 神田 それが、どれも割によい出来でした。ああいうのを、本当に「朝飯前」というのでしょう。毎朝三十枚、書かれたのですから。(以下略、「叢書札記」pp.89-91)

 ここに出て来る久保天随は、本名を得二という。今年で歿後八十年となる。漢学者でありまた詩人でもあり、著作は数多く、『新體實用書翰文』(文王閣1909)という書簡文作法の実用書まで書いている。小柳司氣太(おやなぎしげた)*4、峰間信吉の両名が学監を務めた「帝國漢學普及學會」の講師陣にも名を連ねていた。
 古書好きの方であれば、『読書偶筆』(丸善)の著者のひとりとしても記憶されているかもしれない。この冊子の存在は「その筋」ではよく知られているが、容易には入手できなかった。しかし、「近代デジタルライブラリー」に入ってからは、簡単に読めるようになった。
 「英譯大陸文學の栞」という広告文を除くと、六篇の文章が収めてある。著者名およびタイトルを挙げれば、坪井正五郎「古代文字の復活」、上田敏「沙翁書史」、幸田露伴「机辺閑話」、久保天随「支那文字の起源及其構成法」、内田魯庵「コローの作畫」、森鷗外"Zusammenstellung wichtigsler erscheinungen im gebiete der modernen Novellistik und Dramatik"、とまあ、豪華な執筆陣である。天随は、今でこそ坪井や魯庵知名度ではひけをとるかも知れないが、こうして彼らと肩を並べるくらいであったのだから、当時は大知識人としてもてはやされたろうと察せられる(天随の文章は、「近デジ」の78コマ〜92コマに見える)。
 ちなみに高橋龍雄『世界文字学』(同文館1908)は、天随のこの文章を参照したらしいのだが、銅牛樋口勇夫は『漢字雜話』(郁文舎ほか1910)で両者をバッサリ斬って捨てている。

上來辯じたる漢字説明の誤謬は高橋(龍雄―引用者)氏一人の責任ではない。氏は「世界文字學」の意字の發達の章中に明らかに「以上教育學術界雜誌桑原隲藏氏の六書、學燈雜誌久保天隨氏の支那文字の起原と其構成の方法に據る」と記して居る。左れば上來の漢字説明の誤謬に對する責任は桑原隲藏氏も分たねばならぬ。久保天隨氏も分たねばならぬ。扠も氣の毒な事ぢや。一人ならず三人までも攻擊の槍玉にあげては雜話子も餘りに罪を作り過ぎた。(pp.128-29)

 さて『読書偶筆』は、正確には『汽車博覽會紀念 讀書偶筆』といい、明治三十九(1906)年六月に出ている。
 これについてはたとえば、斎藤昌三「図書関係雑誌解題」(斎藤昌三著/紅野敏郎解説『閑板 書国巡礼記平凡社東洋文庫1998所収)に、

明治三十九年六月の(「学燈」*5の―引用者)臨時増刊「読書偶筆」は上田敏博士の『沙翁書史』以下五名家の執筆を満載して、一の単行本の観があり、今日でも古書展などでは相当の声価を呼んでいる。(p.142)

とある。
 ただし、山下武『書物万華鏡』(実業之日本社1980)によると、

この『読書偶筆』の目次と全く同じ内容のものが明治三十六年四月一日発行の『学燈』雑報欄に学燈臨時増刊の予告として出ていることから、たぶん、同一紙型によるものが三年後の明治三十九年六月に『汽車博覧会記念・読書偶筆』と銘打って少部数印刷されたのではあるまいか。(「『読書偶筆』の豪華」p.240,原文ママ。初出は「図書新聞」1977.11.19)

という。この明治三十六年の増刊号は、確かにちゃんと刊行されているようだ。たとえば、川村伸秀坪井正五郎―日本で最初の人類学者』(弘文堂2013)が参照しているのは、「学燈」第七年第六号、明治三十六年五月臨時増刊号に載った、坪井の「古代文字の復活」なのである(p.201,p.354)。

岩本素白 人と作品

岩本素白 人と作品

書物航游 (中公文庫)

書物航游 (中公文庫)

閑板書国巡礼記 (東洋文庫 (639))

閑板書国巡礼記 (東洋文庫 (639))

坪井正五郎―日本で最初の人類学者

坪井正五郎―日本で最初の人類学者

*1:私はこの出版社名を、近現代文学研究者のS氏から伺うまで知らずにいたのだが、その後、三上延『ビブリア古書堂』シリーズが一躍有名にした。

*2:榛地和=藤田三男氏の著作は河出やウェッジから出ている。

*3:「BOOK5」第10号(トマソン社)で栗山新氏が、「龜鳴屋は金沢の版元で、書店に卸さないことで有名だ(しかし恵文社一乗寺店のnomazon棚には置いてあった。あれはどういう仕組みになっているのだろうか)」(p.4)とお書きになっている。

*4:最近の「汲古」で、姓の読みを「こやなぎ」とする確例があるのを知らされた。

*5:「学燈」は前身が明治三十年三月刊「学の燈」で、これが「学燈」と改まり、後には(『説文』に従ったようで)「学鐙」に作るようになったという。これも斎藤の文章に詳しい。