『漢文は本当につまらないのか』

 橋本陽介『慶應志木高校ライブ授業 漢文は本当につまらないのか』(祥伝社新書)を面白く読んだ。橋本氏は私と同世代の方。七か国語をマスターされたのだそうで、たとえばアチェベの『崩れゆく絆』(昨年末に邦訳が刊行)を英訳の“Things fall apart”で読んだらしい(p.30)し、現代思想にも通暁しているし、畏るべき人物である。
 第七講の後半、第八講あたりは、著者なりの文化論が開陳されているけれども、慾をいえば、もうすこし「実践的」な漢文の講義を聴いてみたかった。とは云え、第二講〜第六講の内容には色々と教えられるところが多かった。第六講は、まさにこの講義で使っていた中華書局の標点本『三國志』(偶々近所の古本屋に転がっていた)を傍らに置きながら読んだ。以下、私的に認めたメモから、(若干書き改めたうえで)一部を引く。
 p.36、藤堂明保の『学研漢和大典』は『学研漢和大典』の誤り。
 p.55、頼惟勤(らい・つとむ)先生の素読の動画への言及あり。これのこと。私も、約三年前に偶然発見し、あるところで紹介した事が有る。いま久しぶりで開いてみると、伊藤先生がコメントを寄せておられた。
 pp.121-22、「譬如北辰居其所」(『論語』爲政第二)の「北辰」について、新注を引きつつ「北極星」と解するが、実は星ではなくて「北極」の義であることはここに紹介したとおり。もっとも、新注に依拠した宇野哲人なども「北極星」説を採る。
 リンク先で参照した福島久雄『孔子の見た星空―古典詩文の星を読む』(大修館書店1997)も、「諸橋轍次大漢和辞典』(大修館書店)でも、「北辰」の項で、「北辰」は「北極星」という。しかもその根拠として、朱子の『集注』を引くのは不思議なことだ」(p.11)と述べている。ただし、「『佩文韻府』(一七一一年寛政)に〈北極星〉という語は見えない」(p.13)ことは確かにそのとおりだとは云え(「北辰」はもちろん収める)、「いわゆる『北極星』は、日本製の名称かと思える」(p.15)ことの確証は得られない。福島氏は、『東遊記後編』(橘南谿、寛政七年一七九五刊)巻三に、「北極星出地の高下によりて、地球の南北を知る事也」とあるのが「筆者の知る限り初出である」(p.14)と記しているが、上のリンク先に引いたように、「綴鬼谷於北辰」(「遠遊」『楚辭』)に対する注「北辰北極星也」が確かに存する(阮元『經籍籑詁』巻十一)。何時のものか、未だに調べていないが、気になるところではある。
 ちなみに、木村英一訳(講談社文庫)は「北極」説であった。
 p.177、郭店楚簡(一九九三年出土)『老子』には、「大道廢、有仁義」(第十八)の「有」字の前に「安」字が有ることに言及したうえで、「この字を『いずくんぞ』と読むとすると」云々、とある。
 蜂屋邦夫訳注『老子』(岩波文庫2008)によると、帛書甲本(一九七三年出土)には同じ位置に「案」字が、帛書乙本(一九七三年出土)には「安」字が、傅本(傅奕『道徳経古本篇』)には「焉」字がある由(p.83)。該文の後に、「智慧出、大偽。六親不和、孝慈。國家昬亂(=混乱)、忠臣。」とつづくのだが、蜂屋訳注によると、帛書甲・乙本、傅本、楚簡は、その「有」字の前にことごとく「安」「案」字等があり(「有忠臣」の箇所のみ若干の異同が有る。詳細は蜂屋訳注に就かれたい)、それらを「そこで」の義に解し、「安(ここ)に」と訓ずる。但し、楚簡は「智慧出、大偽」の句を脱するといい、「つぎの十九章も三つの対句が並ぶから、ここも三つが正しいとする説と、押韻からみてこの句はあるべきで、楚簡は書きもらしたのだとする説がある」(蜂屋同前)。
 橋本氏のように、楚簡が「安=いづくんぞ」と解していたとするならば、「智慧出、安有大偽。」のみきわめて都合の悪い一文になるため、ここは楚簡が故意に省いたと解釈することができはしまいか。もしくは、元来「智慧出、安有大偽。」がなかったとする立場を採るならば、「安=いづくんぞ」でもこの一連の句は解釈できるようになる。
 p.178-80、郭店楚簡『老子』は、「大器晩成」(第四十一)を「大器成」(大いなる器は完成することがない)に作る旨が述べてあり、これは腰巻にも紹介してあるから、本書の「売り」の一つなのかもしれないが、蜂屋前掲書によれば、帛書乙本が「免成」であって(帛書甲本は缺字)、楚簡は「曼城」となっているという(p.199)。もっとも、「曼」は「無」に通じ、「城」は「成」の通假字とのことだから、「免成」と「曼城」とは同義なのであろう。ちなみに蜂屋氏は、『韓非子』喩老篇の引用が既に「大器晩成」となっているため、あえて「大器晩成」として訳出している。
 細かい点だが、p.230、236、237の「沛」字のフォントが残念。右部の縦画が一画ではなく二画、つまり「市(シ)」になっている。なお、引用されている白文は旧字体表記が基本のようだが、JISにある「爲」字を「為」としていたり、「衆」をわざわざ「眾」に作っていたりするのは何故だろうか。
 p.260、「武帝」とあるのは「武帝」では?

孔子の見た星空―古典詩文の星を読む

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老子 (岩波文庫)

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