生田耕作編訳『愛書狂』が平凡社ライブラリーに入った。この版で、ようやくギュスターヴ・フローベールの「愛書狂」(フローベールはこの作品を14歳で書いている)をじっくり読むことができた。数か月前には、紀田順一郎編『書物愛[海外篇]』が「日本篇」とともに「創元ライブラリ」に入ったから、こちらでも手軽に読むことができるようになった(生田訳「愛書狂」が劈頭を飾る)。ちなみに紀田編著は、最近出た荒俣宏『喰らう読書術 一番おもしろい本の読み方』(ワニブックスPLUS新書)にも紹介されていて、荒俣氏は、その中でも特にシュテファン・ツヴァイクの「目に見えないコレクション」(辻瑆訳)が傑作だと述べている(pp.29-30)。
さて、生田編訳巻末の「作者紹介」によると、「愛書狂」にはほかにも「佐藤春夫、庄司浅水、桜井成夫三氏の訳」*1があるとのこと(p.180)。そのいずれも未見であったし、生田編訳の普及版(白水社1980年刊)は古本屋でよく見かけるが、時おり手に取って見るくらいで、これもちゃんと読んだことはなかった。
「愛書狂」の主人公ジャコモは、前掲の「作者紹介」にも述べてあるが、19世紀の実在の人物、修道士ドン・ヴィンセンテをモデルにしている。
ヴィンセンテが同業者を殺すきっかけとなった本のタイトルは、『愛書狂』の解説では明示されていないが、たとえば、アリソン・フーヴァー・バートレット/築地誠子訳『本を愛しすぎた男―本泥棒と古書店探偵と愛書狂』(原書房2013)pp.196-97に書いてある。スペイン初の印刷工ランバルト・パルマルトが1482年に印刷刊行した、『バレンシアに関する勅令と法令』という題の本らしい。作中(生田訳)では、『聖ミカエルの秘蹟』というタイトルになっている。
とまれ、ヴィンセンテや、かれをモデルとしたジャコモなどは、およそ「愛書家」の名に値しない。もちろんそれは言うまでもないことで、たとえば鎧淳氏も、「自分が手に入れた『天下の孤本』の価値を守るために、法廷で弁護士が差し出した同書の別本を破壊したジァコモには、愛書家の名も、蒐集家の名も与えることはできない。蒐集は他を損じたり、自らを損ったりするものではない」(「解説」,平澤一『書物航游』中公文庫1996:353)、と書いているとおり。
しかし、「彼(ジャコモ)が愛していたのは学問ではなくて、その体裁、外観だった。彼が書物を愛する理由は、それが書物であるから、つまりその匂いや、体裁や、表題を愛していたのだ」(平凡社ライブラリー版・生田訳「愛書狂」p.11)といった描写は、ややもすれば“玩物喪志”的な「愛書家」のそれを思わせる。このイメージは、一体どこから来るものなのだろうか。
たとえば高宮利行氏も、「『私は愛書家です』という自己紹介も聞いたことがない。口にするのも恥ずかしい感じがするのは私だけだろうか。愛書家は読書家とは違うし、古書収集家とも異なる。もっとも、重なる面は多々あるはずだが」(「愛書家よ、永遠なれ」、『書物學(1)書物学こと始め』勉誠出版:5)、と書いている。だが、その「恥ずかし」さの原因を突き詰めることまではしていない。ただ高宮氏は、十八世紀後半のイギリスにおける「愛書狂」(bibliomania)ブームに言及しており、あるいはそのような〈上流階級の投機的ムーヴメント〉という歴史的事実が、「愛書家」という言葉の与える印象を悪くしているのかもしれない。
そういえば最近、古い新聞記事を色々と調べていて、偶然、佐々弘雄(佐々淳行氏の父)による「ビブリオマニの話」(全三回)という記事を見つけた。機会があれば、いずれ紹介してみたい。