「オットセイ」の語原説

 今回は2年のブランクがあったが(通常は約1年間)、高島俊男お言葉ですが…別巻(6) 司馬さんの見た中国』(連合出版)が出た。5月末に新聞の近刊予告で見かけてから、刊行されるまで心待ちに待っていた。これまでに出た別巻の目次、ならびに索引も附してある。
 D.l.エヴェレット『ピダハン』について書かれたもの(pp.73-78)、頼惟勤『中国古典を読むために』の書評(pp.196-201)、「語源について」という文章(pp.101-30)などを収めている。『ピダハン』に関する文や、「語源について」は巻末の「初出一覧」に記載がないから、「書き下ろしおよび未掲載の文章」ということになる。
 「語源について」で高島氏は、「語源」を冠する本には「一項独立考察(随筆)方式」のものが圧倒的に多いと述べた上で、それらと一線を劃するものとして、阪倉篤義『日本の語源』(講談社現代新書1978)を挙げる。この新書は、講義で恩師が推薦されていたこともあって、十年くらい前に神戸の古本屋で購った(その時点ですでに、古本でしか入手できなかったのである)。同書についての詳細は、高島著を御参看いただきたい。
 さて高島氏は、「随筆方式」語源書の典型例として、楳垣実『語源随筆・猫も杓子も』(創拓社)を紹介している(p.121)。この創拓社版は、楳垣の歿後に刊行された新版で、わたしの手許には、「関書院」版*1がある(昭和三十五年九月一日初版発行、昭和三十五年十月十日四版発行)。タイトルがすこし違って、『語随筆 猫も杓子も』となっている。だが、内容は、「初めから順に『猫も杓子も』『へそくり』『山の神』『おかみ』『女房』『細君・愚妻』『宿六』『旦那』……とつづく」(高島著p.121)という新版の記述と合い、ページ数もあまり違わないようだから、中身の増補等はないのではないか。もっとも、楳垣実『京言葉』の例もあるから、実物を見ずに決めつけるのはちょっとまずいかもしれない。
 その『猫も杓子も』に、「オットセイ」の語源話が出て来ることを記憶していたので、あらためてじっくり読んでみた。こうある。

(オットセイは)金田一京助先生の説によれば、アイヌ語ではonnepと呼ぶそうだ。だいたい樺太や千島あたりにしか住んでいないから、この海獣の肉や毛皮が利用されて、商品となって他の国々に伝えられても、名前だけは、たいてい原産地のものがそのまま伝わる。中華へもやはりこのアイヌ語が伝わって、そのオンネプを「膃肭」と当て字した。(中略)ところがオットセイの臍が、漢方薬(今いうところのホルモン剤らしい)として利用された。その漢方薬を「海狗腎」とか「膃肭臍」と呼んだ。わが国へはこの漢方薬が伝わった。そこでこの「膃肭臍」を日本流の漢字音でオットセイと読んだ。しかし一方ではその臍を薬用に提供した動物そのものも、秋になると、暖を求めて千葉県犬吠岬の沖合などに姿を現わすため、その動物をもオットセイと呼ぶことになった。(pp.179-80)

 楳垣実には、『舶来語・古典語典』(東峰出版1962)という著書もある*2。装釘は川上澄生
 この『舶来語・古典語典』にも、「オットセイ」が出て来る。上記とは違うことも書いてあるので、これも一部を引いておく。

 オットセイのアイヌ名はオンネプ(onnnep)ウネウ(uneu)である。これが中華あたりへ伝わって膃肭と呼ばれたらしい。この字の現代中華語の発音はウェンネイ(wen-nei)だから、まずアイヌ語の音と同じだと考えてよかろう。
 ところが「膃肭」などと月(ニクヅキ)の偏で書いてあるから、オットセイの肉が交易品として中華に渡ったように考えられるかもしれないが、もちろんその時代には冷凍品などあるはずもなく、オットセイの下腹部(腎臓から陰部)が珍重された。それを乾物にして送ったのだ。(中略)
 それがわが国へ伝わってきた。(略)ところが、その名前は発音が直接伝わらず、文字を日本式に音読したため、オントッセイという発音になり、オットセイとなったというわけだった。(pp.25-26)

 上引の「この字の現代中華語の発音はウェンネイ(wen-nei)だから」という記述は、正確ではない。「膃肭」のいわゆる普通話(北京音)は「wa4na4」(数字は声調)であるから、「ウェン」は「温」「榲」「瘟」などの諧声系列からの類推(これらの北京音はwen1)で、「ネイ」もやはり「内」(nei4)からの類推であろう。ちなみに「内」は、古く「納」に通じ、「na4」とも発音された(『新華字典』)。
 中野美代子氏は、「海獣論」(初出:「遊」一〇〇八号1979)という文章で、楳垣が述べたような説――つまり、中国人がアイヌ語onnepに中国語音にもとづいて「膃肭」と当てた、という説――(中野氏は『日本国語大辞典』初版の記述を参照している)は「中国語の側からすると、いくぶん説明不足」だと述べ、中国人が類推音にもとづいて音訳したのだ、と解している。
 当該文の「オットセイの語源」という一節が、中野美代子『中国の青い鳥―シノロジー雑草譜』(平凡社ライブラリー1994)の註釈に引いてあるので、一部紹介しておく。

 漢字「膃」の現代中国語音はwa4またはwu4で、これは中古漢語(だいたい六朝末〜唐代の中国語に対する学問的呼称)音のiwɐtまたはwat(ベルンハルト・カールグレンによる再構音)の韻尾-tが宋元のころに脱落した結果である*3。また漢字「肭」の現代中国語はna4で、これも中古漢語音niwɐtの韻尾-tが脱落した形である。むかし、アイヌ語のonnepを聴いた中国人は、これをon-nepという二音節に分けて聴き取り、それぞれの音節にふさわしい漢字をあてはめようとしたであろう。とすれば、「膃」iwɐt/wat「肭」niwɐtは、on-nepの対音としては、いかにもふさわしくない。しかし、めったに使われることのないこの「膃」と「肭」を見れば、その「つくり」からの類推で、常音字「温」や「納」あたりとほぼ同音だと思うであろう。「温」の現代中国語音はwen1、中古漢語音はuənであり、「納」の現代中国語音はna4、中古漢語音はnəpであるから、uən- nəpならon-nepの対音としてぴったりである。nəpの韻尾の-pは、さきにあげたiwɐt/watの韻尾とともに、宋元以降は脱落してしまうので、アイヌ語onnepを、「膃」「肭」二字を誤読したうえで、この二字で音訳した中国人は、おそくとも唐代の人であった、ということになる。なお、「膃肭」という熟語は古くからあり、「肥えてやわらかい」の意であるが、その音訳者は、「膃肭」の意を知りつつ、その音は知らぬまま、これをonnepの対音にえらんだということになる。さて、「膃肭」に新しい意味が生じ、本草書にしばしば登場するようになると、この海獣の臍の薬学的効果もあって、「膃肭臍」という熟語が生じ、それはそのまま日本にも伝わってきたのだが、今度はその正しい日本漢字音「膃」ヲツ、「肭」ドツ、「臍」セイで読まれて「ヲツドツセイ」→「オットセイ」となった次第である。(pp.162-63)

猫も杓子も―語原随筆 (1960年)

猫も杓子も―語原随筆 (1960年)

舶来語・古典語典 (1962年)

舶来語・古典語典 (1962年)

*1:続篇の『語原随筆 江戸の敵を長崎で』も関書院版を持っていたはず…。

*2:ちなみにこれ以前、渡辺紳一郎の「古典語典」シリーズ、金田一春彦の『日本古典語典(正続)』が同じ出版社から出ており、一連の著作はかなり売れたようだ。古本屋や古書展でしょっちゅう見かける。

*3:これは、平上去入の四声(普通話の四声とは違うことに注意)のうちの入声(音節末に内破音-p –t –k を有するもの)が消失した、という音韻変化をさす。「大都」の言葉をベースとした、元代の周徳清『中原音韻』(泰定元年1324成立)などからこの現象を窺い知ることができる。ちなみに平声は、ほぼ同じ時期に「平声陰(陰平)」「平声陽(陽平)」の二つに分裂した。