気になることばや表現を見つけると、その場でなるべくメモをとるようにしている。「用例採集」というほど立派なものではない*1。その方法もまことに地味で、だから、遅々として進まない。もう少しスマートにできればよいのだけれど、それができない。
そういう中途半端な用例拾いであっても、判断に迷う例にしばしばぶつかる。
困るのは、「用例の混在」である。たとえば、「功を奏する」「効を奏する」が同一コンテクスト内に混在することがざらにある*2。これはどちらかが単なる変換ミス(ないし誤記、校正漏れ)なのかもしれないが、そのばあいだと、表現者がふだんどちらを使っているのかわからない。あるいは、微妙なニュアンスの違いで使い分けているのかもしれないが、少ない用例だけからは判断しにくい。
もちろん、たとえ数例しか見つからなくても、容易に判断できる場合もある。
たとえば、石山茂利夫『日本語矯めつ眇めつ―いまどきの辞書14種のことば探検』(徳間書店1990)によると、夏目漱石が『こころ』のなかで、
奥さんの言葉は少し手痛(ひど)かつた。然し其言葉の耳障(みみざはり)からいふと、決して猛烈なものではなかつた。
というふうに、「ミミザワリ」を「聞いた時の感じ」の意味で使用している(p.52)。しかも、「耳触(り)」ではなく、「耳障(り)」という漢字表記によってである。この一例だけなら、誤植ないしは(うっかり)誤記してしまった、という可能性があるかもしれない(もっとも、「誤植」という可能性は漱石作品にかぎってきわめてありにくいだろうが)。
しかし、『吾輩ハ猫デアル』三に、
という例があるのを見つけると、漱石は「障」「触」の違いに頓著していなかった、ということが知れるのである。
むしろこれはいいほうで、大抵は材料不足のため、判断に迷う。
たとえば、アントニイ・バークリー/狩野一郎訳『ジャンピング・ジェニイ』(創元推理文庫2009←国書刊行会2001)に、
途中でデイヴィッドが到着したが、げっそりとやつれ、憮然とした表情の彼の存在は、…(p.230)
とあって、ここでは「憮然」が「落胆した様子」に使われている。ところが、
「ご協力には感謝します」警視は憮然として答えた。何をドクターたちに訊かなくてはならないか、訊く必要がないかは承知していると言わんばかりだった。(p.287)
というのも出て来て、後者では「憮然」が「むっとした様子」の意味で用いられている。これだと、訳者がふつうどちらの意味で「憮然」を使っているのかわからない。
バークリーの訳書というと、次のような例もあった。
それら綺羅(きら)、星の如き傑作群の中から、『ジャンピング・ジェニイ』をオススメするのは、…(川出正樹「ロジャー・シェリンガムのしわざ?!――あるいは、ジョージ・ジョゼフ・スミスにおまかせ!」『ジャンピング・ジェニィ』p.349)
ところで、一九二〇年代から三〇年代にかけてのいわゆる〈黄金時代〉に名作が集中したのは、綺羅星(きらぼし)の如き才能が多く現れたこともあるが、…(杉江松恋「解説」『毒入りチョコレート事件』創元推理文庫2009:342)
解説者は違うが、これらは同年に書かれたものである。
同年の例として、「綺羅、星の如く」「綺羅星(ぼし)の如く」の両方が見られるからといって、過渡期を示している、と簡単に考えることは、もちろんできない。川出氏自身の言語生活において、「綺羅星(ぼし)の如く」を「綺羅、星の如く」に改める機会があったのかもしれない(すなわち、「綺羅、星の如く」と区切って読むのが「正しい」とどこかで知り、それ以降区切るようになった、ということ)し、校正者のさかしらである可能性も捨てきれない。
少し古いものになるが、次の例はどうか。
「朝日温泉は蘭越町の方からも入ってこれますからね。岩幌を通らずに、倶知安町から、狩太へ出て、…」(水上勉『飢餓海峡(上)』新潮文庫2011改版←1963朝日新聞社:74)
「いわないんです。遠縁の者だっていっただけで……東京にいるから、またたずねにこれるといって帰っていきましたが、人相があまりよくないので、あたし気持がわるかったですわ」(同p.257)
これだけを見ると、著者はいわゆる「ら抜きことば」*3の使用者か、とおもってしまうだろう。しかし、同じ小説の地の文で、「東京へゆけば、もう湯野川へは二どとこられないかもしれない」(同p.159)となっている箇所があるし、発話文でも、「岩場で火を焚いておれば、連絡船から双眼鏡でみられるよ。…」(同p.201)というのが見つかる。
そうすると、著者が発話内では意図的に「こられる」のみ「これる」にした、という可能性もあるし、両方とも使っていて、それが文章に反映されただけ、ということも考えられる。いずれにせよ、このようなばあいは、できるだけ多くの作品を見ていかないと判断できないのである。
それに、漫然と読んでいると、誤った用例を拾ってしまうこともあるので注意を要する。
「あんな熱心だった人が……不倫かしら」
「真逆。言っちゃ悪いけど、あんなに肥っていて?」
(泡坂妻夫『しあわせの書 迷探偵ヨギ ガンジーの心霊術』新潮文庫1987:68)
これなどは、ルビが振られていないので、「真逆。言っちゃ悪いけど、…」の台詞だけ抜き出してみると、「真逆(まギャク)」の例かと勘違いしてしまうことがありうる*4。ためしに、この台詞だけを見せてまわりの人に読んでもらうと、十中八九、「まギャク」と誤読した。しかし、ちゃんと文脈を追えば、ここは「まさか」と読むべきであることが理解できるし、ずっと読んで行くと、泡坂氏は同小説において、「真逆、持っているのか?」(p.84)、「警備員達は真逆と思うものの、…」(p.122)等、「まさか」を好んで漢字表記としていることがわかるのだ。
ついでに、もう二、三例、挙げてみよう。
たとえば、幸田露伴「幻談」(幸田露伴『幻談 観画談 他三篇』岩波文庫1990改版所収、1938年発表)に「心中では気乗薄であったことも争えませんでした」(p.25)、森銑三・柴田宵曲『書物』(岩波文庫1997←白揚社1944)に「それで即売会にも、私は今気乗薄になっている」(p.90)などと見える「気乗薄」だが、竹内洋『革新幻想の戦後史』(中央公論新社2011)には、
というふうに、「のりきうす」、の形で出て来る。これは、著者(竹内氏)がうっかりそう記してしまっただけなのか。あるいは、いつもそのように言っておられるのか。
ほかにも、こんな例がある。『小公女セーラ』#16「ロッティの冒険」(フジ系,1985.4.21放送)に、「ほらロッティ、(鳥にエサを)やってごらんなさい」(セーラ)、「今度はあたしの(エサ)を(ネズミに)やる」(ロッティ)という台詞が出て来る。しかし、#17「小さな友メルの家族」(同4.28放送)には、「ネズミに…ネズミに(パンを)あげようと思ったんです」(セーラ)という台詞が出て来る。これは、後者がミンチン先生に対しての発言であるということで、意図的に「やる」を「あげる」と言い換えているのか。それとも、脚本に別の人の手が加わったことなどが原因で、そうなっているのかどうか。
それでは、次の例はどうだろう。フローベール(フロベール)/鈴木健郎訳『ブヴァールとペキュシェ(上)』(岩波文庫1954)から。
ある星は群をなして輝き、あるものは絲のように連り、またあるものは遥な間隔をおいて、一つびとつに輝いている。(p.109)
「ひとりびとり」「ひとつびとつ」などのような連濁も、見かけるたびに拾っているのだが、しかしこの場合、同じ本のなかに、「一つひとつばらばらに、…」(p.160)と連濁を生じないものも出て来るのである……。後者は、誤植なのか、それとも態となのか。
用例拾いは、愉しいけれど、かくも難しい。
*1:「用例採集」というと、有名なのは見坊豪紀の「ワードハンティング」であろう。また近年では、飯間浩明『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか?―ワードハンティングの現場から』(ディスカバー携書2013)といったものがあり、本格的な調査というのは、このような例をさすのである。
*2:この表現については、石山茂利夫『今様こくご辞書』(読売新聞社1998)pp.77-82参照。
*3:「ら抜きことば」に関しては、ここ(http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20121231)に書いたことがある。
*4:「まギャク」については、確か猪川まこと氏が、1990年頃の用例を紹介されていたと記憶する。