富岡桃華のこと

 内藤湖南の自選漢文集『寶左盦文(ほうさあんぶん)』(私家版、大正十二年)所収の「富岡氏藏唐鈔王勃集殘卷跋」(大正十年十二月)に、次のような一節が出て来る。

是歳亡友富岡桃華亦得子安集殘本二卷與上野神田二氏本同出一帙並有興福傳法印蓋東京赤星某君盡售其家藏書畫目中有題橘逸勢集者一卷桃華檢其影照樣本已識其爲舊鈔子安集慨然謂余曰希世瓌寳余必獲之矣遂以重價購之…(四十九ウ〜五十オ)
(是の歳、亡友富岡桃華、亦た子安集の残本二巻を得る。上野・神田二氏の本と同じく一帙に出づ。並びに興福伝法印有り。蓋し東京赤星某君尽く其の家蔵を售る。書画目中に橘逸勢集と題する者一巻有り。桃華其の影照・様本を検し、已に其れ旧鈔の子安集たるを識る。慨然として余に謂ひて曰く、「希世の瓌寳なり。余必ず之を獲ん」と。遂に重価を以て之を購ふ。)

 『寶左盦文』*1には、王勃(子安)の唐鈔本関連として、「上野氏藏唐鈔王勃集殘卷跋」(明治四十三年八月)、「正倉院本王勃集殘卷跋」(大正八年十一月)というふたつの文章も収められているのだが、上引の「亡友富岡桃華」という箇所に反応してしまった。その理由に就いては後に述べるとして――
 まず「是歳」とあるのは、「(明治)辛亥」、つまり明治四十四年(1911)をさす。「富岡桃華」は富岡鐵齋の息・富岡謙蔵(1873-1918)、「上野・神田二氏」は、上野有竹すなわち上野理一(1848-1919)と、神田香巖(1853-1918)とである。「赤星某君」は、「国宝『王勃詩巻』続編の発見」で知ったが、赤星鐵馬という人で、斯界ではブラックバスを輸入した人物として著名との由。
 さて、富岡桃華におもわず反応してしまったというのは、つい先日、神田喜一郎敦煌學五十年』(筑摩叢書1970)*2を読みかえしたおり、「支那學者富岡桃華先生」(pp.137-64)を熟読したからである(著者の神田氏*3は、香巖の孫である)。
 それによると桃華は、歿後にたとえば紫影藤井乙男が「亡友桃華居士を憶ふ」という一連の和歌を詠み(pp.140-41)、王國維が「哭富岡君縑」という七言律詩(『觀堂集林』所収)を作ったというほど(p.145)、内外の識者に慕われていたらしい。
 また桃華は、京都帝大の附属図書館長(初代)であった島文次郎*4を通じて東京の学者たちとも交流したといい、黒板勝美に影響をうけて、壽子夫人とともにエスぺランチストとなったそうだ。
 ついでに引くと、「鐵齋逸事」(神田喜一郎『墨林輭話』岩波書店1977)には、次のような一節がみえる。

大阪の老儒として當時名聲の高かった藤澤南岳*5が、何かのおりに、「世間には親の脛かじりということがあるが、お前は腕かじりじゃ」と、桃華先生を面罵したというようなはなしもある。しかし先生は、隱忍自重、一身を犧牲にして、鐵齋翁を俗世間から遮斷する防壁となりながら、翁に先立って、大正七年、その一生を終られたのであった。鐵齋翁が何一つ俗世間のことに煩わされることなく、眞に優遊自適の日日を送り、あれだけの偉大な畫業を完成せられた裏面には、桃華先生のそうした犧牲があったので、それは今日も知る人が少ない。わたくしは、鐵齋翁と桃華先生ほど、美しい親子はないと思っている。(p.218

 ところが、川瀬一馬によると以下のようである(『随筆 蝸牛』中公文庫1991から)。

専門批評家と称する人々の鑑識眼は定かでないという(富岡鉄斎―引用者)翁の意見には私どもも大いに賛成する所がある。批評家が何故「目利かず」であるかという論は色々できるが、現実は何と言ってもその通りである。鉄斎画の鑑定の場合に専門批評家が鉄斎の遺家族の意見を自己の鑑定の裏書にしているとは、愚の骨頂である。鉄斎の家族は、老鉄斎の悠々自適の芸術生活をさまたげ、鉄斎を食い物にして暮していた連中ではないか。彼らの家族の仕事は、金になりそうにもない訪客を遮絶するのが勤めであって、数限りなく描いた鉄斎の作品の制作年時など記憶している筈もなければ、況んや鉄斎の側近にいるというだけの事で、肝心の翁の芸術には盲目な婦女子である。戦後早くも、鉄斎使い古しの禿筆から常用の一枚板の机(平凡な台式のもの)まで売払ったのは当然であろう。(「唐川の里」*6pp.364-65)

 相当手厳しい。
 桃華が生き永らえていたならば、決してそのようなことにはなっていなかった――と、信じたい。
 なお、富岡家蔵の王勃詩巻(残本二巻)は鐵齋によって合装され(「富岡氏藏唐鈔王勃集殘卷跋」による)、現在は神田本(喜一郎氏旧蔵)とともに東京国立博物館に収めてある(上野本は個人蔵)。

墨林間話 (1977年)

墨林間話 (1977年)

随筆 蝸牛 (中公文庫)

随筆 蝸牛 (中公文庫)

*1:「寶左盦」が、湖南が左傳の善本を得たのに由来するということは、吉川幸次郎が書いており、かつて引用したことが有る(http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20070623)。

*2:新版である。ここ(http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20120330)で触れた、角川文庫版『日本文化史研究』の解説も収めてある。

*3:かなりの早熟だったらしく、『寶左盦文』にも「神田鬯盦(ちょうあん)」として出て来る(四十九ウなど)。また「大正癸丑の蘭亭會」(『敦煌學五十年』pp.257-69)によると、わずか十七歳にして、当日の展覧会を参観している。

*4:野口寧斎の実弟である。

*5:藤澤桓夫の祖父である。

*6:初出は「詩と散文」六号(1963.8)。