幸田露伴「連環記」

 また中公文庫の話から始める。先月の新刊で、辰野隆『忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎』というのが出ている。中公文庫に辰野の著作が入るのはこれが初めてのことのようだ。弟子・渡辺一夫の著作が二十年以上も前にこの文庫に加わっていることを考えると、少し意外な感じもする。
 辰野の『忘れ得ぬ人々』は、1939年に弘文堂書房から出た。のち角川文庫に入り、講談社文芸文庫にも入っている*1が、今回底本としたのは、改造社版の選集であるという。中条省平氏の解説から引く。

 戦後になって(一九四九年)、改造社から『辰野隆選集』が出たとき、第四巻が『忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎』というタイトルになって、谷崎との交遊を記した「記憶ちがい」以下五篇のエッセー*2が(『忘れ得ぬ人々』に―引用者)増補されました。本書は、この改造社版選集を底本として、一九八三年に出た福武書店版『辰野隆随想全集』第一巻から数篇を補っています。(p.280)

 中公文庫版で「記憶ちがい」の直前に収められている「旧友谷崎潤一郎」は、もとから『忘れ得ぬ人々』に収められていたのだが、実は、改造社の『忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎』が刊行される2年前、すなわち1947年に、辰野隆谷崎潤一郎』(イヴニング・スター社)というのが初山滋の装丁で出ていて、これにはすでに、「旧友谷崎潤一郎」と「記憶ちがい」以下の五篇とが収められている(計六篇)。辰野はその「序文」で次のように述べている。

 十數年來、此の友(谷崎のこと―引用者)に就いて、折にふれて草した隨感隨想を此度E・S社の希望に從つて一卷に纏めることとなつた。その半數は既刊の拙著に收められたもので、今更ら此の集に容れるのは頗るうしろめたい心地ではあるが、一括して、もう一度谷崎文學の愛讀者諸彦の鑑賞と批判に訴へたら、或は筆者の冗言空語も燈前茶後の一興ともならんかと、敢て無くもがなの愚著を提供することとなつたのである。
 人生散策者の閑文字として讀み捨てられんことを。(p.6)

 さて、中公文庫版でこの『忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎』を読んでいたところ、以下の様な一節に行き当った。

数年前露伴先生の『連環記』を読んで、“法縁微妙、玉環の相連なるが如し”という主題から縷々として繰り出される人心世相の因果を観じて、巻を措く能は(ママ)なかったが、今また谷崎の聞書抄を得て、僕の魂は更に和むのである。(「谷崎潤一郎著・聞書抄」p.249)

 先日、これに触発されて、露伴の「連環記」を読んだ。昭和十五年(1940)六月に書かれた作品だ。
 わたしが手に取ったのは、岩波文庫版『連環記 他三篇』(1949年初刷)である。これには表題作「連環記」のほか、「鵞鳥」「雪たたき」「幻談」が収められている(このうち「雪たたき」に就いては、ここに記したことが有る*3し、「幻談」に就いてもここで言及したことが有る)。以下これを「旧版」とする。
 「連環記」は、後に川村二郎氏の解説つきで改版が出ている(1991年初刷)。タイトルは『連環記 他一篇』となって、併録の作品も「プラクリチ」に変わった。以下これを「改版」とする。
 上引で辰野が「連環記」の主題として挙げた「法縁微妙、玉環の相連なるが如し」は、旧版p.19に出て来る。当該箇所を引用してみると、

慶滋保胤がものした―引用者)此の徃生極樂記は其序に見える通り、唐の弘法寺の僧の釋迦才の淨土論中に、安樂往生者二十人を記したのに依つたものであるが、保胤徃生の後、大江匡房は又保胤の徃生傳の先蹤を追うて、續本朝徃生傳を撰してゐる。そして其續傳の中には保胤も採録されてゐるから、法縁微妙、玉環の相連なるが如しである。

 こうしてあたかも輪を連ねるがごとく、次から次に人物を繋げて行く、というのがこの文章のひとつの魅力なのであり、鷗外の史伝にも似た面白みが有る。
 丁度いま読んでいる杉山正明露伴の『運命』とその彼方―ユーラシアの視点から[歴史屋のたわごと(2)]』(平凡社2015)は、『運命』を描いた露伴の慧眼を再評価し、その背後にあるものを探り出して、露伴の書き得なかった部分を書くことをこころみた作品であるが、「過去と現在の錯綜のなか、露伴植村清二丸谷才一という、専門やジャンルをこえて多面的な仕事をなした人間たちの「連環」を、時代をこえて実感して頂きたい」(「あえてする蛇足 日本の真のティムール研究者の面影」p.204)と書いているのは、「連環記」を意識しての記述に違いあるまい。
 「連環記」の冒頭に登場するのは慶滋保胤(かものやすたね)。父は安倍晴明の師・賀茂忠行である。保胤は後に落髪して寂心となる。本作の主な登場人物を順に挙げてゆくと、次に寂心の師たる菅原文時、寂心の「菩提の友」源信、そして寂心が摩訶止観を承けた筯賀、話はまた寂心へと戻り、三河守定基(大江齊光の子)、定基の従兄・大江匡衡、匡衡の妻・赤染右衛門、ふたたび定基、寂心の話となる。ここで物語は連環ならぬ「円環」の様相を呈する。それから定基は寂心の弟子「寂照」となる。クライマックスはこの寂照の入宋であろう。そこで寂照は丁謂と相識ることとなる。
 ここでついでに云っておくと、作中で保胤作の「池亭記」に触れたくだりがあって、

記には先づ京都東西の盛衰を叙して、四條以北、乾艮二方の繁榮は到底自分等の居を營むを許さざるを述べ、六條以北、窮僻の地に、十有餘畝を得たのを幸とし、隆きに就きては小山を爲り、窪きに就きては小池を穿ち、…(旧版pp.15-16)

と述べている。ただしこの「京都東西の盛衰」には、幾分か誇張がみられるとの説もある。

一〇世紀後半の平安京の変貌を示す史料として必ずとり上げられるのは、文人慶滋保胤(よししげのやすたね)が書いた『池亭記(ちていき)』である。そこではこの二〇年の間、西京(にしのきょう、右京)には、住人の流出と家屋減少で「幽墟(ゆうきょ)」に近い状態が生じていたという。それを根拠に、右京は卑湿が原因で早く衰微し、農村化したなどの主張がみられる。大勢としてはその通りであるが、『池亭記』の「幽墟」云々(うんぬん)には、文学的誇張が含まれている。考古学者で京都都市史の研究者である山田邦和氏は、平安京全域でおこなわれた膨大な試掘・立ち会い調査の結果をもとに、平安中期の右京には中規模以下の邸宅が各所に点在しており、都市的な景観はまだ失われていなかった、衰退がはっきりしてくるのは平安後期以降であるが、それでも四条大路や七条大路など東西幹線道路沿いでは、「町家」が建ちならぶ地域が新規に出現しており、右京の西北部にも遺構が密集する地区があった、と主張した。(高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』岩波新書2014:49-50)

 さて物語は、寂心歿して筯賀も歿し、丁謂、寂照と入寂するところで幕を閉じる。中篇ながら読み応えがあり、恰も大河小説を読み了えたかのような余韻が有る。とはいえ、味気ない事実の羅列のみに終るわけでは決してないし、語り口もくだけていて親しみ易い。その様な意味においては、右衛門の機転や、あるいは俗界にあったときの定基と力壽との挿話などが読みどころとなるだろう。後者の、定基が力壽を葬る場面では、「葬といふ字は、死屍を、上も草なら下も草、草むらの中に捨てゝ了ふことであり、はうむるといふ言葉は、抛り放つことで、野か山へ抛り出して終ふのである」(旧版p.62)などという註釈を差挟むのが、いかにも露伴らしい。
 また、定基が後に寂照となることをしばらく伏せたまま露伴が物語を展開させるのは意図的な行為でないかとおもわれる。
 すなわち寂照のことは、はじめ「たゞ(寂心が―引用者)出家して後わづかに三年目には、自分に身を投げかけて來た者を濟度して寂照といふ名を與へた」(旧版p.21)とのみいっていて、次には「寂心の弟子の寂照が後に源信の弟子同樣の態度を取つて支那に渡るに及んでゐる」(同p.23)とかれの入宋が予告されるものの、ここでも俗名は示されない。ようやく終盤に至って、「定基は遂に剃髪して得度を受け、寂照といふ青道心になつたのである」(p.68)と記されるのである。
 ところで、わたしが手に取ったこの旧版には誤植も少くない。
 たとえば大江以言の名のルビが「もちとき」(p.9)、「もちこと」(p.42)とばらばらだし(改版はp.44,p.85など「もちとき」に統一*4)、「力壽に捐てらて、力壽を捐てた後の定基は何樣なつたか」(p.62)というのもあったから(改版はp.111「力寿に捐てられ」)、注意を要する。
 この「連環記」は、全集のほか、石川淳編『露伴随筆 第五册』(岩波書店1983)にも収められている(上で言及した誤植はむろん直っている)。「幸田露伴の最後の小説」(改版「解説」p.141)などと云われるように、この作品は一般的には「小説」として受容されているが、今春の「リクエスト復刊」に入った『天(そら)うつ浪』(未完)などとは明らかに別の結構を有しているわけで、「『幽情記』『望樹記』『幻談』『連環記』といった、露伴文学を代表する第一級の作品群も、従来は小説の名目の下に区分されていたけれども、よくよく思い直せば、随筆の中に包含する方が、ずっとわりがよいようである」(篠田一士「解説」、『露伴随筆 第一册』岩波書店1983:427)という見方も有る。篠田は「第五册」の解説でも、これと同様のことを述べている。
 最後に一寸、そこから引用して置こう。

 さて、いよいよ、「連環記」である。(略)この作品は、露伴晩年の、いわゆる小説最後の成果で、質量ともに、もっとも充実し、その内蔵される意味合いも、また、重くて、深い。(略)「幻談」「連環記」を小説として、その骨法、内実を説明するのは、ほとんど不可能にちかい。ヨーロッパ小説との類比は、もともと無縁だとしても、日本、あるいは中国の稗史小説の類を、あれこれ思いうかべ、そこに、なにがしかの機縁を見出すことは、無理ではないにしても、作品解明のうえで、さしたる実りがあるとは思えない。小説との類縁よりは、いっそのこと、随筆と言い切ってしまうほうが、なにかと作品の内外を手広くとらえることができるし、それだけに、一層分りもよくなる。(p.415)

谷崎潤一郎 (1947年)

谷崎潤一郎 (1947年)

連環記 他一篇 (岩波文庫)

連環記 他一篇 (岩波文庫)

京都〈千年の都〉の歴史 (岩波新書)

京都〈千年の都〉の歴史 (岩波新書)

*1:この正篇は露伴漱石、寅彦、如是閑など日本人が対象となっているが、『続 忘れ得ぬ人々』という著作もあって、こちらはフランス人文学者が対象となっている。角川文庫には入ったが、文芸文庫には入っていない。また辰野には、『忘れ得ぬことども』という対談集もあり、ここ(http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20060820)で引用したことが有る。

*2:「記憶ちがい」、「谷崎潤一郎の『文章読本』」、「谷崎潤一郎著・聞書抄―豊臣家没落の序曲―」、「旧友谷崎―細雪蘆刈春琴抄など―」、「追憶」の五篇。

*3:当該記事では、辰野の『忘れ得ぬ人々』が「雪たたき」に触れていることも述べた。中公文庫版ではpp.40-41。

*4:ちなみに小島憲之編『王朝漢詩選』(岩波文庫1987)は、本文(p.391)、作者小伝(左p.7)とも「おおえのゆきとき」となっている。