『伊沢蘭軒』を読む人々

 先日おもい立って、森鷗外伊沢蘭軒(いさわらんけん)』(ちくま文庫1996)をふたたび頭から読み始めた。今回は、副読本として斉藤繁『森鷗外伊沢蘭軒』を読む』(文藝春秋企画出版部2014)*1を座右に備えて熟読している。山崎一穎(2002)「『伊澤蘭軒』の本文生成過程考」*2も、同時に読みすすめているところである。
 初読は三年前のことであった。
 この三年のあいだに、大阪の古書市改造文庫版『伊澤蘭軒(上中下)』(揃で800円だった)を入手し*3、『蘭軒』に言及した文章にもいくつか触れた。
 そのうち、『蘭軒』そのものはもちろんのことながら、「『蘭軒』を読む人々」に対しても興味を抱くようになってきた。
 しかし『蘭軒』は、評価や好き嫌いが人によってはっきり分れる作品である。
 たとえば、向井敏

 文学上の好き嫌いは人の勝手なのだし、石川淳があくまでも鷗外を持ちあげたこと自体は非難されるべきいわれはない。しかし、じつのところをいえば、鷗外の史伝*4三部作(『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北條霞亭』のこと―引用者)は蒼古にして荘重な文字を連ねて、押し出しこそいかにもありがたげだが、文学的感動からははるかに遠く、ましてこれが鷗外贔屓(びいき)の評家たちの言うように「文学の極北」であるなどとはとても思うことができない。『渋江抽斎』や『北條霞亭』が文学最高の達成というのであれば、文学的努力とはいったい何なのかと思う。さすがに最近では、こうした疑いが素直に口にされるようになってはきているのだが、それに黙殺をもって遇しようとする風潮も依然として強い。(向井敏文章読本』文春文庫1991:104-05)

 向井はこの直前に、『読書有朋』(谷沢永一渡部昇一、大修館書店1981)から谷沢永一の言を引いているのだが、谷沢も同じく否定的である。その発言を孫引きする。

(史伝三部作の)あとの二つ、「北條霞亭」と「伊沢蘭軒」が全然どうしようもないもんだということは、これは確信できると思うんですね。何の筋道もなく、ただ古い手紙から書き写してあるだけで、あの中に人間観とか時代観察とか、どういう角度から見たって、何もないと思いますね。(向井p.103)

 そもそも谷沢は、『紙つぶて』(文藝春秋ほか)などに目を通せば分るとおり、鷗外の作品全般に対して手厳しかった*5
 また三浦雅士氏も、史伝三部作は「結局、江戸に対するシンパシー」だと評していた。こちらは三年前のエントリで紹介したとおりである。
 それらとは逆に、『蘭軒』を好きだと公言する人物としては、はじめに挙げた斉藤繁氏や、富士川英郎がある。以前の記事では英郎の「『伊沢蘭軒』のこと」という文章に触れたが、その息・富士川義之氏が手がけた『ある文人学者の肖像―評伝・富士川英郎』(新書館2014)は、第八章を「『伊沢蘭軒』をめぐって」と題し、英郎が『蘭軒』のどこに惹かれたかという問題に迫っている*6
 富士川氏自身は、「若年の頃に、『渋江抽斎』を興味深く読了した勢いで『伊沢蘭軒』にも手を伸ばしたことがあるが、およそ歯が立たず、早々に読書を放棄するという苦い思い出を持っている」(p.199)と正直に告白したうえで、父親の伝記を書くにあたってようやく通読する機会を得たと述べている。読み通してみて、「むろん難解な部分や退屈な箇所は相変わらずあるものの、そんなことはあまり気になることもな」かった(p.200)という。さらに、

今度『伊沢蘭軒』を通読しているときに気づいたのだが、英郎がこの長大な史伝を愛読した最も重要な理由のひとつとして、(略)鷗外がこの史伝執筆にあたって(英郎の―引用者)父・游から少なからぬ援助を得ているという事実に対して、素朴な誇りの気持を抱き、かねてから注目していたことを挙げることができるのではないかと思う。(pp.202-03)

と書く。もっとも、

意外にも予想以上に興味深い作品ではないかという感想を持ったが、それでもやはり依然として『蘭軒』は父の世界に属するものであって、あくまで父との関係のなかで読まれ、究められるべき書物であることを、わたしは改めて確認せざるを得なかった。(p.218

と述べている。
 鷗外の娘・小堀杏奴も、「三史伝」のうちでは『蘭軒』が一番好きだと云っていた。

 後年、『澀江抽齋』『伊澤蘭軒』の二つを読了し、『北條霞亭』をほんの少し読みかけた頃、或る座談会に出席し、『伊澤蘭軒』を激称したら、私より少しくおわかい、併し勿論老年の某教授が、
「『北條霞亭』をお読みになるともつといいですよ」
 と仰言り、まだ読んでゐなかつた私は、
「さうですか? それはたのしみです」
 と御返事した。その後『北條霞亭』も読了し、改めてこの三作を胸中比較して見ると、勿論、各人、好みの問題だが、私には最初の印象通り、『伊澤蘭軒』が、抜群によかつた。これはまた、その後の話である。例の私の息子くらゐの小堀桂一郎助教授に、亡父関係の会合でお会ひした時、
「三つの史伝の中で、あなたはやはり『伊澤蘭軒』が一番いいとお思ひになりましたか?」
 と質問せられたから、勿論のことだとお返事すると、
「本当に、一番いいとお思ひになりましたか?」
 と念を押される。どうして私ごときチンピラの意見をかく迄重要視せられるのか不思議であつた。(略)
 間もなく小堀桂一郎氏は『伊澤蘭軒』に就いて論文を書かれたそうで、私は「執拗(しつえう)」な迄の氏の御質問の意味がやつと氷解せられた気がしたのである。(『不遇の人 鷗外―日本語のモラルと美』求龍堂1982:330-32)

 この小堀氏の論文、というのは、『鷗外選集 第八巻』(岩波書店1979)の「解説―歴史家としての鷗外(三)――『伊沢蘭軒』(承前)――」のもとになった論文をさすのであろうか*7
 それはともかく、小堀杏奴が、

併し、『伊澤蘭軒』だけは話が違ふ。それは快心(ママ)の作品であるにかかはらず、手ひどい侮辱を受け、云はば新聞社からおろされた作品なのである。(p.333)

と書いているように、あるいは松本清張が、

伊沢蘭軒」に移ると、多くの研究者はにわかに寡黙になる。「蘭軒」は傑作なのかそうでもないのか。後者だから黙殺しているのか。それとも退屈なので、読まないで投げ出したのだろうか。(『両像・森鷗外』文春文庫1997:74-75)

と書いているように、それから最近の斉藤氏や富士川氏も、

鷗外および彼の作品に関する論文は無数に書かれてきたが、『伊沢蘭軒』に言及したものはきわめて少ない。鷗外研究の専門家にしても、この作品を無視するか、『渋江抽斎』を論じる際、これにちょっと触れる程度である。(斉藤前掲「序―究極のヒューマニズム」p.1)

鷗外研究家でも、『渋江抽斎』を取り上げることは少なくないものの、『伊沢蘭軒』に正面から立ち向かうことは極めて稀であるという。(富士川前掲p.199)

などと書いているように、「三史伝」のうち『蘭軒』のみは、向井敏がいうほどには、たかく評価されていない(あるいは、重視されていない)のである。
 向井がやや批判的に言及した石川淳森鷗外』(上引参看)でさえ、「「蘭軒」全篇を領するものは異様な沈静である」「蘭軒という人間像をめぐって整理された素材の粛粛たる行列がある」と評し、「出来上った作品としては「蘭軒」はついに「抽斎」に及ばない」(「鷗外覚書」『森鷗外岩波文庫1978:17-18)と言い切っているのである*8
 『蘭軒』をそれなりに評価するにしても、その評価は微妙な感じを伴うことが多い。たとえば、富士川氏の引く岩波文庫改版の「解説」*9中野三敏氏は、

せいぜい私程度の読者にとっては『渋江抽斎』は抜群に面白いが『小島宝素』は面白くない。『伊沢蘭軒』はまあまあだが『北条霞亭』は勘弁してほしい。(pp.199-200)

と書いているそうだし、また川瀬一馬も、

森鷗外博士は、晩年に歴史小説を志されて江戸末期の学儒等の史伝を著作し、その中で一番最後に長編の『渋江抽斎』を執筆されました*10。私は正直に申して、あれは感心いたしません。鷗外博士の歴史小説を執筆するに際しての考え方は妥当で、そうあるべきと思いますが、抽斎伝の実際はそれに適っておりません。ほかの史伝や伊沢蘭軒まではまずよいと思いますけれども(以下略)(『日本における書籍蒐蔵の歴史』ぺりかん社1999:105)

と書いていて、「まあまあ」とか「まずよい」とかいった中途半端な表現でしか評価されないのである。
 おもうに『蘭軒』が、あまりに長大で、かつ様々の事柄を含んでいるため、「文学」「伝記」といった既成のジャンルには分類しにくく、正面きって論じにくいからではあるまいか*11
 たとえば木下杢太郎(太田正雄)は、「森鷗外」(『藝林間歩』岩波書店1936)で、鷗外の史伝について「一度歴史小説の經驗を閲し來つた著者の手によつて、一人一人の人物も亦立體的に表現せられ、生きた人としての心情、形體を備へないものは無い」(p.42)とたかく評価はするものの、「抽齋以下の儒者の傳記は甚だこちたいものであるが」という但書きをつけているし、『蘭軒』の具体的な内容に言及した箇所では、「本草の學に關しては、伊澤蘭軒傳の第百六十三と百六十四とに唯纔かにその研究の結論のみが録せられている」(同p.50)と、「本草学」に限定して語るのみである。
 『蘭軒』のおそらく初の副読本というべき『森鷗外伊沢蘭軒』を読む』も、その論じるところは多岐に亙っていて興味ふかいし、「元県立高校教諭」の方らしく餘談も交えており、飽きさせない工夫が随処にみられるが、たとえば蘭軒の長崎旅行、「その三十六」で京都の竹苞楼銭屋総四郎を訪うくだり、大般若波羅蜜多経や原本系玉篇(もちろん零本)、類編群書画一元亀等が出て来て(上巻p.102)、わたしはこれらの書物の書誌的な問題に就いてさらに詳しく知りたいと思ったけれども、斉藤氏は「ちんぷんかんぷん」の一語で済ませており(p.43)、一寸残念に感じる箇所があったりもする(たとえばp.103では玄応音義について書かれていることだし、個人的には少し踏みこんだ記述が欲しかった)。
 『蘭軒』を論じる場合は、あらかじめ問題意識を絞っておかなければきっと収拾がつかなくなるであろうし、徹底的に註釈や攷証を施そうとすれば、複数の専門家が必要になって、最終的には『蘭軒』の二倍や三倍の紙幅を要することとなるだろう。
 「『蘭軒』を読む人々」の話をつづけよう。
 富士川義之氏によれば、父・英郎は『蘭軒』を四、五回通読したといい、部分的にであれば「何回とも知れないくらい読ん」だ(p.198)とのことである。その最初の通読は、「岡山の旧制六高にドイツ語教師として赴任した昭和十一、二年頃」で、このときは「まだ二十七、八歳」であった(p.200)という*12
 ところで、改造文庫版(1940刊)の森潤三郎「解説」によると、

(『蘭軒』は)初め東京日日新聞(大正五年六月二十五日至六年九月五日)、大阪毎日新聞(大正五年六月二十五日至六年九月四日)に三百七十一囘に連載せられ、第一次鷗外全集第八卷(大正十二年六月二十五日發行)、第二次普及版鷗外全集第十五卷(昭和五年五月八日發行)、第三次岩波書店版鷗外全集著作篇第七卷(昭和十一年七月二十五日發行)に收められ、單行本では「森林太郎創作集」卷一として大正十二年八月十三日春陽堂から刊行された。(上p.289)

という。
 英郎が最初に『蘭軒』を通読したのは岩波書店版の全集本によってではなく、「第一次鷗外全集」に収録された版だったらしいが、同じく(訂正します。コメント欄ご参看)「第一次全集」版でこれを(刊行直後に)読んだと思しいのが、永井荷風である。清張の『両像・森鷗外』p.78から孫引きすると、次のようである。
《七月十日。伊澤蘭軒傳を熟讀す。/七月十七日。終日伊澤蘭軒の傳を讀む。/七月十八日。今日も終日蘭軒の傳を讀む。/七月廿五日。伊澤蘭軒讀了》(「斷腸亭日乘」大正十二年)
 英郎から遅れること八、九年、敗戦の年(1945年)に夜毎『蘭軒』を読んでいたのは、福原麟太郎である。

六月十二日(火)
この頃寝る前に鷗外全集「伊沢蘭軒」を読む。山陽茶山に関係ありて興味深し。鷗外がいかに伝記文学を考えしかを知らんとす。一種の道楽気ありしことは疑うべからず。(福原麟太郎『かの年月』吾妻書房1970:128-29)

 この全集が、どの全集をさすのかは分らない。
 分らないといえば、清張が『両像・森鷗外』を書くにあたって読んでいた『蘭軒』*13もどの版なのか分からない。
 『両像・森鷗外』は、単行本としては1994年(清張歿後二年)に刊行されているが、明治三十三年(1900)三月二日の鷗外の土山常明寺参詣を「八十五年前」(p.9)と書いているから、取材時は昭和六十年(1985)であったろう。この当時は、『蘭軒』の新しい全集本や新書版(選集本)もすでに出ている。
 その第21章では、「最近出た」(p.219)本として、小島憲之『ことばの重み―鷗外の謎を解く漢語―』に言及している(小島著はふたたびp.246にも出て来る)。
 この『ことばの重み』は、1984年1月刊(新潮選書)で、のち講談社学術文庫に入った(2011年2月9日刊)。わたしは学術文庫版でこれを読んだ。ちなみにいうと、p.184に清張『鷗外の婢』から引用がなされている。
 しかし『ことばの重み』には、『蘭軒』が出て来ない。
 小島氏の著作で『蘭軒』中の漢語に話が及ぶのは、約四年後に出た小島憲之『日本文学における漢語表現』(岩波書店1988)が初めてであり、そこには、

最近かなり叮嚀にメモを作りながら漸く読了し得た新聞小説伊沢蘭軒』(大正五年六月〜六年九月)の文章はその一例である。たとえば、
 指を摟(かがな)ふ(その百七) 羹(あつもの)に懲(こ)る(その百九) 方(まさ)に纔(わづか)に(その百二十) 安(あん)を問ふ(その百二十八) 酒を被(かうぶ)る(その二百七十三) 嘲(あざけり)を解く(その三百七十)
などは、それぞれ「摟指(るし)」「懲羹(ちようかう)」「方纔(はうざん*14)」「問安(もんあん)」「被酒(ひしゆ)」「解嘲(かいたう)」の翻読のことばである。(p.225)

とあって、特に、「方纔」の例についてくわしく述べる。初出は岩波書店刊「文学」(1984.12〜1987.10)や「諸雑誌」の原稿であるらしいが、上引の「最近」というのは、『ことばの重み』上梓後のこととみて間違いあるまい。
 さらにその十年後に出た、小島憲之『漢語逍遥』(岩波書店1998)*15も、p.6、p.132、またp.249-50で『蘭軒』に言及している(「方纔」「問安」等の用例を掲げる)。

    • -

 最後に述べておくと、『漢語逍遥』は、『ことばの重み』が高橋義孝に批判されたこと(「波」誌上)に言及している(pp.254-55)。小島氏は『ことばの重み』を「拙著のうちで特に恥かしい作の一つ」と謙遜しているが、その文章からはいささかの自負も窺える。
 東野治之「小島憲之先生の思い出」*16(『史料学探訪』岩波書店2015所収)も、この「批判」に触れている。

新潮選書として刊行された『ことばの重み』は、この方面の成果の一端を一般向けにまとめられたものであった。編集者の鵜飼久市氏との連携のもと、先生としては珍しい一般書となっているが、先生は少しも妥協されておらず、そこに上代文学研究の場合と同じ、出典や語性という視角が貫かれているのを読みとるのは容易であろう。こうした先生の研究を「何と瑣末な」と評したのは高橋義孝氏であったが、この書はそのような批判への反論でもある。先生が明治物の研究に割かれた精力と、これが近代文学研究者に与えた影響の大きさを考えれば、決して余技ではなかったというべきであろう。(pp.231-32)

 「何と瑣末な」という評言が、高橋の『ことばの重み』評にそのままの形で出ていたかどうかは、小島氏の引用に見えないし、そもそも「波」を確認していないので知らない。東野氏が云いたかったのは、この本の存在や果たした役割が、「結果的に」高橋への反論となった、ということであろうか。小島氏は「論争など論外であり、論争する「柄」でもない」(『漢語逍遥』p.255)と書いており、高橋に対して再反論したと述べていないからだ。
 小島氏は、『ことばの重み』で以下のように述べている。この言にも強く共感する。

いかにも微視的な、いかにも瑣末な、という印象を持たれる読者もあろう。それならば問おう、「どの程度までが瑣末で、どの程度なら瑣末でないのか」と。完璧を目指すのが校訂であり、瑣末な誤りをも見逃すまいとするのが学問の基本である。(p.65)

森鴎外全集〈7〉伊沢蘭軒 上 (ちくま文庫)

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森鷗外『伊沢蘭軒』を読む (文藝春秋企画出版)

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文章読本 (文春文庫)

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ある文人学者の肖像 評伝・富士川英郎

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漢語逍遥

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史料学探訪

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*1:引用文の底本がちくま文庫版なのである。

*2:跡見学園女子大学紀要」第三十五号http://ci.nii.ac.jp/naid/110004645616

*3:解説は鷗外の実弟森潤三郎。下巻に「小嶋寶素」を収む。宝素のことは、『蘭軒』の「その二十三」「その九十一」等に出ている。

*4:「史伝」という名称自体に疑義を呈しているのは松本清張である。以下に引用して置く。「いわゆる「史伝」の名を私は不適当だと思っている。「史伝」とは、歴史上で普遍的に名を知られている人物の伝記のことを云うのが普通である。「津軽藩医官澀江氏を知らぬか」「道純を知らぬか」と鷗外が尋ねまわっている澀江抽齋がどうして歴史上の人物であろうか。伊澤蘭軒、小島寶素みな然りである。彼らは鷗外の紹介ではじめて世に知られた」(『両像・森鷗外』文春文庫1997:151)。

*5:後段で再び引く『不遇の人 鷗外―日本語のモラルと美』(求龍堂1982)に、小堀杏奴は以下のように書いている。「特に亡父(鷗外のこと―引用者)などは、岩波書店による全集の売行きがよく、少しく陽の目を見たかと思ふと、忽ち冒頭に記載した谷澤永一氏と云つた輩をはじめ、反(アンチ)鷗外派の追随者である学者、批評家、作家の諸先生がたが、マスコミと一躰となり、寄つてたかつて鷗外再埋没作業に狂奔なさる有様である」(p.356)。

*6:「『伊沢蘭軒』のこと」からの引用もみえる。p.224

*7:小堀氏はその解説の最後に、「今回の解説文の後半に筆者は旧稿「『伊沢蘭軒』の方法」(昭和五十三年六月明治書院刊、長谷川泉氏還暦記念論文集『森鷗外――歴史と文学』所収)を加筆補訂して再録した」(p.354)と書いている。

*8:清張は、「いずれにしても「伊澤蘭軒」を正面から評するものは、渋川驍氏を除いて、文学者以外の人々ばかりである。石川淳氏は、伊澤蘭軒の名を出しただけで、ついにこれにふれずじまいである(『森鷗外』)」(『両像・森鷗外』p.218)、と記している。

*9:わたしは、岩波文庫の『抽斎』を旧版(1940刊)でしか所有していない。旧版の解説担当は斎藤茂吉である。

*10:「最後」というのは誤認であろう。

*11:斉藤繁氏は、「『伊沢蘭軒』は小説とも伝記ともつかない、醇乎たる、芸術作品なのである」(『森鷗外伊沢蘭軒』を読む』p.296)と結論している。斉藤氏がこの本を書いたのは、石川の見解に不満をおぼえ、「『伊沢蘭軒』が『渋江抽斎』を凌ぐ傑作であることを(略)証明し」たかった(p.63)ことも動機のひとつとしてあるようだ。

*12:井村君江日夏耿之介の世界』(国書刊行会2015)に、井村氏が青山学院大学在学中(英文科)に英郎から『蘭軒』を教わった(p.277)と記しており、羨ましくおもったことだった。

*13:たとえばp.80に、「あくる朝は四時すぎに眼がさめた。家に居る時の習慣である。そこが温泉だったので湯に入り、上がってから「伊澤蘭軒」をまたとり出した。雨の音を聞いた。/栞を入れた頁を披く」云々とある。

*14:「ハウサイ」とも。ちなみに、陽韻三等「方」字は、特に呉音系資料で「ホウ」「ハウ」の二形に揺れており、「四角」「医方」の義は前者、それ以外の義は後者で読まれたという説がある。これは日本独自の読み分けとされたこともあったが、呉音の母胎音の中心母音が[a]〜[o]に揺れており、中国本土でもそのような用法が存した可能性もあることを、かつて佐々木勇氏が論じている(http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB0QFjAA&url=http%3A%2F%2Fir.lib.hiroshima-u.ac.jp%2Ffiles%2Fpublic%2F14720%2F20141016121959781927%2F09107509_706_20_sasaki.pdf&ei=HlcFVZqHMuO6mAXmh4D4CA&usg=AFQjCNF3t4HN1T-kAdLUHPMwkehAAOvBdw&sig2=IXQIyt-tHfo6CndNeXBknQ)。

*15:これが小島氏の遺著となった。小堀杏奴も同年に歿しているが、彼女は小島氏の一連の文章を眼にしたであろうか。

*16:初出は「古代文化」五二巻二号、2000年。