(北村太郎が―引用者)入院するちょっと前のこと。朝方血を吐いて病院に行った帰り、材木座の家によってくれた。
前もってわかっていたので、となりの横浜時代からの友人の奥さんが、具だくさんのうどんを鍋一杯につくってくれた。
やっとの思いでたどりついた北村さんは、とっくにお昼を過ぎていたので、「おなかすいた。食べたい」とおっしゃった。
見るからにおいしそうな煮込みうどんであった。
あたためて、三人で食べた。ちょっと高めの椅子で食べにくそうではあったけれども、一口食べるなり、
「絶品!」
そういいながら、どんぶりいっぱいのうどんをお代わりして、もくもくと召し上がった。
その日がうちに来た最後となったが、もういろんな意味で体は弱ってきていた。
しばらくうちの猫たちと遊んで、稲村ヶ崎までお送りした。
それから、まもなくして、虎ノ門病院(ママ)に入院されたのだった。
(橋口幸子『珈琲とエクレアと詩人―スケッチ・北村太郎』港の人2011:101-02)
「たあいへんだったわよ。北村さんの布団カバーが血だらけでさあ、朝早くから病院に駆けつけてね。帰りにゆきちゃんちに降ろしていくから、なんか食べさせてあげて。昨日から何も食べてないからお腹すいてると思うのよね。いま点滴中だから、終わったらつれていくから」という和子さんからの突然の電話。
となりに住む北村さんをよく知る友人に話したら、「わたしがうどんつくるから。ゆきちゃん、悪いけど最後の仕上げして北村さんに食べさせてあげて」といった。
わたしは落ち着かない気持ちでわかった、といい、北村さんの到着を待った。
一時間ほどして、北村さんを乗せた和子さんの車がやってきた。
疲れていただろうに、北村さんは、
「和ちゃんをおどろかしちゃった。悪いことしちゃったよ。ゆきちゃん、世話になります」
といって、疲れた顔でうなだれていた。
どこまでも、気をつかいっぱなしの北村さんだった。和子さんは北村さんを降ろすと、車から出もせず、どこかへいってしまった。
北村さんのお疲れを思うとこころが痛んだ。北村さんは大量の出血を経験し、とても緊張していた。
わたしたちは友人のつくった具沢山のうどんをおいしくいただいて、夫の淹れたコーヒーを飲んでゆっくりした。
夫が北村さんを稲村ヶ崎に送っていった。このときが北村さんがうちにきた最後となった。
「絶品!」といいながらうどんをおかわりして、「コーヒーもまた絶品だなあ」といいながら味わってくださったことが、何よりの思い出だ。
間もなくして、北村さんは虎の門病院に入院した。
(橋口幸子『いちべついらい―田村和子さんのこと』夏葉社2015:91-92)
五年前からガンを患っていた北村さんが、ある朝大出血をし、病院に行き点滴を受け、その帰りに材木座のわたしたちの古い借家にこられた。隣に横浜時代からの北村さんの若い友人が住んでいて、美味しい具だくさんのうどんをつくってくれた。
「絶品!」といいながら北村さんは食べていた。でもわたしはふつうを装うのに必死だったせいか、ただつるつると食べていた。
うどんのあとに、夫がエスプレッソ珈琲にハチミツをいれてだした。「これも絶品だねえ」といって、おかわりをして飲んでいってくれた。もしかしたらあれが外での最後の珈琲だったかもしれない。
そのあとすぐに入院なさったのだった。
(橋口幸子「珈琲は喫茶店で」『作家の珈琲』平凡社コロナ・ブックス2015:41)
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