酒井抱一のことなど

 先日、今関天彭著/揖斐高編『江戸詩人評伝集1―詩誌『雅友』抄』(平凡社東洋文庫2015)を読んでいると、次のような記述に行き当った。

 この年(寛政七年―引用者)幕府は(柴野)栗山・(尾藤)二洲の建議を入れ、学者にして程朱を奉ぜぬものは進士を許さぬ事とした。異学の禁が一層厳重となつたのである。そこで冢田大峯(つかだたいほう)は書を(松平)定信に、赤松滄洲は栗山と論じ、議論が紛然として捲き起つたが、その大要、学者の見るところは各々異なるも、均しく孔孟の教へを奉ずるもので、何ぞ程朱のみを事とせんや。異学とは猶ほ可なるも、程朱を指して正学といふは如何。正とは邪に対する語なれば、程朱ならざるものを指して、不正・邪曲の学と決定するのである。当時江戸の儒者に五鬼(伊藤藍田(らんでん)・豊島豊洲・冢田大峯・戸塚淡園・市川鶴鳴)があり、山本北山・亀田鵬斎(ぼうさい)も異学として憚られ、京都には古学の四家(皆川淇園・巌垣龍渓・村瀬栲亭・佐野山陰)があつて、程朱学者と区別せられた。(p.152)*1

 ここに見られる「五鬼」の顔ぶれと、財前謙『日本の金石文』(芸術新聞社2015)に出る「五鬼」の顔ぶれとはやや異なっている。
 財前著には次の如くある。

寛政異学の禁が発令されたのは寛政二年(一七九〇)の五月である。この前後、昌平黌に招かれた柴野栗山、尾藤二洲、古賀精里を寛政の三博士と呼ぶのに対し、これを批判した五人を「異学の五鬼」とよんでいる。山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴、そして亀田鵬斎である。(p.144)

 しかし、いずれにせよ鵬斎が「異学」として憚られたのは間違いなく、後の寛政九年には、「旗本の士千人ともいわれた神田駿河台の私塾楽群堂も(略)閉鎖のやむなきに至り、鵬斎は隠居の身となった」(財前p.145)。
 その鵬斎に「共鳴」したのが、九つ下の酒井抱一(宝暦十一年‐文政十一年)であった。抱一は幕府の統制に対して抵抗の意志を示すため剃髪し、文政十年(一八二七)三月九日の鵬斎一周忌には、鵬斎の墓前で、「いかにせん賢き人もなきあとにことしもおなじ花ぞ散りける」と詠んだという。財前氏は、「儒者亀田鵬斎との交流は、抱一に尽きることのない学問の深淵を教えたに違いない。謙るに素直で、学ぶに貪欲な画人が抱一である」(p.149)と書いている。
 鵬斎と抱一との交流を物語る例として、財前氏は、「抱一の句集『屠龍之枝』(一八一二年)の序文は鵬斎が撰文し、文政五年(一八二二)に刊行された八百善の『料理通』は序文がやはり鵬斎、抱一と(谷)文晁が図を描いた」(p.145)、「この地(西多摩郡奥多摩町)に亀田鵬斎酒井抱一による石碑があり、「武州多摩郡小河内温泉之碑」と題額にある。碑陽が亀田鵬斎撰文書丹の漢文体の碑、その碑陰に酒井抱一自筆の発句が刻されている」(p.149)等といった事実を伝える。
 上引にみえる抱一と八百善との関係については、対談形式の江守奈比古『懐石料理とお茶の話―八代目八百善主人と語る(上)』(中公文庫2014)に詳しく出ている。
 抱一存命当時の八百善主人は「四代目」栗山善四郎であったが*2、八代目(昭和四十三年歿)は伝え聞いた抱一の人物像について、

毎晩(八百善に)お出ましであったらしい。一時、山谷の私どもの家のすぐ後ろに住んでいらしたこともありました。その頃の手紙もございます。とにかく大大名の若殿が坊さんになって、そして風流のしたい放題をなさったのですから、なかなかしゃれたことだったのでしょう。(p.109)

と語る。また、「毎晩吉原のどこかの楼に上がってい」たため、「吉原で「今日は上人はどこにいるのかね」と尋ねるとすぐにわかるらしい。そこへ迎えの者をやると気安くやって来る。そこで席画を描いて何がしかの謝金をもらう。これが遊蕩資金になる。そんなわけで私のところにもたくさん抱一の画がありました」(pp.111-12)という*3
 抱一は風流人で、書画のみならず句作にも長けていた。江守著pp.113-15は俳人としての抱一に言及しているし、また、加藤郁乎『俳諧志(下)』(岩波現代文庫2014)も一章を割いて抱一を論じている。そこに、

岡野知十*4『雨華抱一』はつづけて一花一分と定めたいきさつを伝え、およそ百余個をかぞえたところから二十五両の潤筆料であったと言い、のちにこの屏風(「光琳うつし、杜若に八ツ橋の屏風一双」のこと―引用者)は霊岸島鰻屋大黒屋の望みで一双二百両で引きとられた由を付記された。抱一えがく『燕子花図屏風』は三年(ママ)ほど前にも一般展示されたが、これらカキツバタの絵に見入る折ふし、筆者などは一花一分を思い出してかついつい苦笑する。漱石の『門』だったろう、六円という抱一屏風が八十円で売れる挿話があった。(p.96)

とある。「一花一分」の挿話は、江守著でも紹介されていて、八代目主人は、

例の有名な杜若の屏風ですが、あれは江戸日本橋扇橋の長岡家が依頼したものです。のちにその長岡のご隠居を私どもでお世話したことがあって、その方から直接聞いたのですが、あの金の六曲一双の屏風に光琳の杜若を写して描くときに、「花一輪を一分(一両の四分の一)の割で払ってくれ、つぼみは負けておく」と言われたそうです。面白い話ですね。(p.111)

と明かしている。
 ついでにいうと、加藤著が記す『門』の挿話にも注記が必要だろう。これは――
 主人公の宗助は、「折角親爺の記念(かたみ)だと思って、取って来た」抱一の屏風が「場所塞げ」になるため、横町の道具屋に見てもらうことにする。道具屋の亭主は「否々(いやいや)そうに」これに六円の値を付けるが、結局売らずにおいたら、道具屋が二度、三度とやって来て、「とうとう三十五円に価(ね)を付け」たので、宗助夫婦は相談して売り払った(『門』六)。その屏風を、宗助の友人の坂井が「八十円で買」わされる(『門』九)
 ――という挿話なのである(引用部の表記は新潮文庫改版に拠る)。

江戸詩人評伝集1: 詩誌『雅友』抄 (東洋文庫)

江戸詩人評伝集1: 詩誌『雅友』抄 (東洋文庫)

日本の金石文

日本の金石文

俳諧志(下) (岩波現代文庫)

俳諧志(下) (岩波現代文庫)

門 (新潮文庫)

門 (新潮文庫)

*1:初出は「雅友」第五十号(昭和三十五年十二月二十日刊)。

*2:2015年現在は十代目。

*3:さらに、「私に抱一の鑑定を持っていらっしゃる方もずいぶんあります。私はいかがわしい画にはただ「抱一」とのみ箱書きして「抱一筆」とはしません」(p.112)とあるのも興味深い。ちなみに財前著によれば、「酒井抱一の落款は多く「抱一筆」であり、「写」とするものは稀で、やはり文字通りなにかの写しである可能性が強い」(p.148)という。

*4:知十も俳人で、抱一の百年忌(昭和二年十一月二十九日)に築地(当時は山谷から築地へ移転していた)八百善で開かれた、「百年忌供養会」の筆頭世話人を務めている(江守著pp.122-23)。