本年も宜しくお願い申し上げます。
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昨年末、前野直彬の著作を古本と新本とで一冊ずつ購った。古本は『蒲松齢伝』(秋山叢書1976)、新本は文庫化されたばかりの『漢文入門』(ちくま学芸文庫)である。
『蒲松齢伝』は、相田洋『シナに魅せられた人々―シナ通列伝』(研文出版2014)に、平井雅尾について書かれた数少ない文献のひとつとして引用されている(p.351)*1ので気になっていたところだった。
『漢文入門』は、元本(講談社現代新書、1968年刊)を古書市などで見かけたことはあるが、手に取ってじっくり見た記憶はない。しかし、今回の文庫化に際して附された「解説」(齋藤希史氏)に、「本書は、いま盛んに行われる訓読論の先駆となる著作である」(p.210)とあるのを見て、迷わず購入を決めたのだった。
いかにも、この本の一番の読みどころは第四章の「訓読の歴史」であろう。それだけでも「『漢文』入門」としては異色であるのに、第一章「漢文とは何か」では、「漢文」を「中国の古典的な文を、中国語を使わずに、直接日本語として読んだ場合、その文に対してつけられた名称である」(p.18)と定義し、「韻文・散文の双方を含めた」広義のものと「散文だけをいう」狭義のものとがある(p.19)、と話を進めていくあたりに独自性や慎重さを感じた。もっとも、たとえば「馬」の字音についての説明(p.58)など、若干怪しい記述もあるにはあるけれど、小さな本ながら色々と示唆に富んでおり、今まで読んでいなかったことを後悔したくらいだった。
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ところで、その『漢文入門』p.33-34に、
「勉強」という漢語がある。日本語としての意味はいうまでもないし、たしかに中国から渡来した語で、中国でもこの言葉を使う。ただし中国での意味は「努力する」、とくに「いやいやながら、むりに努力する」「不本意ながらつとめる」といった意味である。努力する内容はなんでもよいのであって、学問に努力する場合にも使われることは使われるが、それはほんの一部分である。しかも「いやいやながら」という意味が加わらずに使われることは、まずないといっていい。だから日本での使い方としては、このごろはすくなくなったが、商店の主人が「千円の品ですが勉強して八百円にしておきます」というときの「勉強」が、この漢語の原義にかなっている。「勉強が好きだ」などというのは、原義から見れば完全に矛盾した表現となるわけである。
とある。
ここでたとえば、愛知大学中日大辞典編纂処編『中日大辭典【第三版】』(大修館書店2010)の「勉強」項を引くと、
【勉強】mian(3)・qiang(3) 〈1〉間に合わせに*2.どうにか.やっと.まあまあ:心から満足できる状況*3にない場合に用いる.(略)〈2〉強いる.無理にさせる.*4(略)〈3〉不十分である.むりである.(略)
とあって、たしかに現代普通話としては、「無理に」というニュアンスが加わることが多いことが知られる。
一海知義『漢語の知識』(岩波ジュニア新書1981)は、白居易(楽天)の「東城に春を尋ぬ」詩中の「勉強一來尋」を引き、「勉強」の原義について述べている(pp.2‐8)。
当該詩句は、「無理をしてちょっと尋ねて来た」というような意味になるが、一海氏は、「無理をする」という義は「つとめはげむこと」でもあるから、日本語の「勉強」の義(「学習する」)はこれと通底している、とも書いている。すなわち、「勉強」≒「学習」となるのは、まったく根拠のない話ではない、ということである。また、『中庸』の「或いは勉強して之を行ふ」を引きつつ「勉強」を解釈しているのが、興膳宏『平成漢字語往来―世相を映すコトバたち』(日本経済新聞社2007)pp.16‐17 である(初出:2004.1.25付「日本経済新聞」)。
さて日本語における「勉強」のもう一方の意味――「勉強しまっせ」「勉強しときます」の「勉強」だが、一海氏、興膳氏ともにこの義に言及していて、特に興膳氏は、「勉強しときます」の「勉強」のほうが原義に近いのではないかと述べている。
高島俊男『お言葉ですが…(7)漢字語源の筋ちがい』(文春文庫2006)pp.211-15 の「勉強しまっせ」(初出:2002.3.7号『週刊文春』)にも、商売人の「勉強しまっせ」がむしろ「勉強」の原義に近い用法だとある。
ちなみに高島氏は、そこで以下のような回想を語っている。
「勉強」ということばは、まずかんたんな「強」のほうからかたづけるならば、これは無論「しいる」ということである。「強要」の「強」だ。人にしいるのも自分で自分にしいるのも「強」である。
さてそこで「勉」だが、これは「免」と「娩」と「勉」とが元来は一つのことばである。字も、もともとは「免」だけだ。――日本では、「免」はメン、「娩」と「勉」とはベンで音がちがうようだが、これは「免」はもっぱら呉音が、「娩」と「勉」とは漢音がおこなわれているからで、本来はおなじ音である。
で、「免」は何かというと、せまいところを抜ける、狭義には「赤ちゃん誕生」だ。
学生のころ、藤堂明保先生が授業でこれをやって見せてくれた。
生れてくる赤ん坊が、両手をぴたりと脇につけ、ミミズのように身をくねらせつつ、頭を突きあげ突きあげして、せまい産道を苦闘前進する。そのさまをやりながら、ひとくねりごとに「ミエン、ミエン、ミエン」と叫ぶのである。学生は大笑いだ。
先生はそうやって、ミエン(免)ということばは、この「ミエン」という音自体がまさしくせまいところを無理に通ってゆく感じをあらわしているのだ、とわれわれに教えたのである。(pp.212-13)
藤堂の「学説」は「単語家族」ともよばれるが、それにもとづいてハルペン・ジャック氏は『漢字の再発見―外人の目が拓いた この驚くべき世界』(祥伝社ノン・ブック1987)という本を著した。この本の pp.13-14にも「免」「勉」字の字原解釈が説かれている。
以上はいずれも、「勉強」の原義として「無理に」というニュアンスを認める説であった。
これに疑義を呈しているのが、荒川清秀『中国語を歩く―辞書と街角の考現学パート2』(東方選書2014)である。荒川氏は、前野著(元本の講談社現代新書版)から「勉強」について書かれた一節を引用して、それを批判的に検討している。
荒川氏曰く、「『勉強』の本来の意味は『一生懸命やる、励む』意味」である(p.110)。
古橋ふみ子氏(愛知大学)がこの問題を調査して修士論文にまとめたのだそうだ。それによると――、『中庸』にみえる「勉強」の初出例(興膳氏が引用したもの)は単に「一生懸命する」という意味で解すべきで、「この『励む』の意味は宋ぐらいまで使われている」というのである(同p.111)。そして「励む」義は、「朱子の著作や二程遺書」には「まだ残っているが、『無理やり』義もかなり出てきている。この『むりやり義』は魏あたりから出てくる」(同前)――のだという。
また荒川氏は、
「勉強」の「勉」は「勤める」の意味だが、「強」の方は元「勤める」という意味であったが、後に「しいる」の意味になった。こうした構成要素の意味変化も全体の漢語の意味に影響を与えているのではないか。これはわたしの考えである。(p.111)
とも書いている。
なお岸田知子『漢語百題』(大修館書店2015)は、やはり『中庸』の当該箇所を引きつつ、「『勉強』はもともと、はげみつとめるの意味で用いられてきた」(p.221)と述べているが、「自分に足りないところを無理に励まして身につけるというところから」ともあるので、原義として「無理に」を認めているのであろう*5。
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