一鴟/鴟鵂

 王楙の『野客叢書』巻第十一「借書一鴟」に、面白いことが書かれている*1
 それによれば、李正文『資暇集』が次のごとく述べているという。
 書物の貸借について、俗に「謂借一癡。與二癡。索三癡。還四癡(借るは一癡、與ふるは二癡、索むるは三癡、還すは四癡と謂ふ)」(まず借りるのがバカ、与えるのもバカ、返してくれと頼むのもバカ、返すのはさらにバカと云う)が*2、杜元凱(杜預)がその息に送った書に「借書一嗤。還書一嗤(書を借るは一嗤、書を還すは一嗤)」*3という「古諺」がみえることなどから、「與二癡。索三癡」というのは後人がつけ加えたものであり、また本来「一瓻(いっち)」とあるべきところを譌って「一癡(いっち)」としたのではないか――。
 王楙は、その傍証として、僕觀『廣韻』注や張孟『押韻』の「瓻」字項に「借書盛酒器也」とあるのを引き、蘇養直の詩に「休言貧病惟三篋。已辦借書無一鴟(言ふを休めよ貧病惟れ三篋なるを、已にして借書に辦ふるに一鴟無し)」とあるのを引く。
 「一鴟」の「鴟」は「鴟夷」のこと。「鴟夷」は、「馬の革で作つたふくろ、酒を入れるもの」で、「形鴟の腹の如く、鴺(ガランテウ)の胡(アゴ)の如くふくれてゐるからいふ、夷は鴺」だという(小柳司気太『新修漢和大字典 増補版』博友社)。拝借した書物を返すときに一瓻の酒を返したという故事に基づいて、「一瓻」は「書物の貸借」を意味する語となったようだ。
 これが正しいとすると、「本を貸すバカ、借りるバカ」論の嚆矢として「借一癡。與二癡」云々の句を引くならば注意を要することにもなろう。とまれ、えてして愛書家は自らの蔵書を容易に貸し出さないものであるが(極端な例だと、フローベール「愛書狂」のジャコモがある)、その点、本邦の本居宣長などは、実にあっさりしたものである。

めづらしき書をえたらむには、したしきもうときも、同じこゝろざしならむ人には、かたみにやすく借して、見せもし寫させもして、世にひろくせまほしきわざなるを、人には見せず、おのれひとり見て、ほこらむとするは、いと\/心ぎたなく、物まなぶ人のあるまじきこと也。
(『玉勝間』一の巻*4

 しかし、つづけて「あるは道のほどにてはふれうせ、あるは其人にはかになくなりなどもして、つひにその書かへらずなる事あるは、いと心うきわざ也」(同)とも書く。もしかすると、宣長もその経験者だったのかもしれない。
 書物の貸借をめぐっては、チャールズ・ラムの『エリア随筆』(完訳が国書刊行会から刊行中で、まもなく一年半ぶりに三冊めが出るようだ)にも記述があったと記憶しているが、いま直ちには確かめられない。

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 ところで、「鴟」字そのものは「ふくろう」を指す。「鴟鵂(しきゅう)」では「みみずく」。
 室鳩巣『駿臺雜話』には、次のような挿話がみえて可笑しい。

ある人鴟鵂を畜(かひ)て、それを囮(をとり)にして鳥を捕(とらへ)けるに、同じく殺生する友達のもとより、みゝづくをかりに越けるが、其ふみに、みゝづくを略し「づく」とかきて、其末に「づくとはみゝづくの事にて候。みゝづくとかき候へば、文字かず多くこと長に成候故に、づくとかき候」となが\/とことわりけり。それならば始よりみゝづくとかけかしと片腹いたし。文字をつゞめんとて、多くの文字をそへ、詞を短くせんとて、かへりてながくなる事をしらず(森銑三校訂)。

 また、富士川英郎*5は、鎌倉にあった書斎を「鴟鵂庵」と名づけた。その名を冠したのが、麦書房が出していた雑誌「本」に連載されたエッセイ「鴟鵂庵詩話」である。これは、「その後半部を増補して、『江戸後期の詩人たち』という表題の単行本として麦書房から出版され、さらにその後「筑摩叢書」のうちに収められて今日に至っている」(「江戸漢詩文とわたし」、高橋英夫編『読書清遊―富士川英郎随筆選』講談社文芸文庫2011*6)。書名は連載時から変わったものの、麦書房版の表紙には副題「鴟鵂庵詩話」が刻まれている。なお、富士川の歿後(約9年後の2012年)には、平凡社東洋文庫にも入った。
 「鴟鵂庵詩話」と対をなすものが、富士川の『鴟鵂庵閑話』(筑摩書房1977)である。わたしはこの函入本を最近、神保町のNで入手し、横浜へと向かう車中じっくり読んでいた。これが実に面白く(p.127「頼山陽の病志」以降は未読)、あらためて内容を紹介してみたいのだが(daily-sumusに心躍る紹介記事あり)、いまは控えるとして、その「あとがき」をみると、以下のようにある。

 本書の表題の「鴟鵂庵」ということについて、この閑話が「ちくま」に連載されていた頃にも、よくひとから訊ねられたが、「鴟鵂」とは「ミミヅク」のことである。鎌倉市山ノ内にある拙宅の近くの山でよく「ミミヅク」が鳴く。いな、残念ながら、近頃はそれが稀れになってしまったが、十年前までは、「ミミヅク」が夜半は言うに及ばず、時としては早くも夕方から鳴いていたのであった。そんなわけで、私は自分のみすぼらしい書斎を鴟鵂庵と名づけたのであるが、しかし、同時にまた、私自身が夜型の人間で、毎日、ひとが寝しずまる夜半から妙に元気が出て、読書や執筆をして、時刻の移るのも知らず、従って大へんな朝寝坊だということも、この命名の一つのきっかけになっていたのである。
 この閑話が「ちくま」に連載されていた間に、筆者の記載の誤りについて指摘して下さった方は少なくないが、とりわけ今治市の石丸和雄氏と前橋市の原田種成氏とからは、さまざまの懇切な御教示を得た。(pp.197-98)

 この、「原田種成(たねしげ)」という名に、おもわず反応してしまったのだった。

玉勝間〈上〉 (岩波文庫)

玉勝間〈上〉 (岩波文庫)

駿台雑話 (岩波文庫)

駿台雑話 (岩波文庫)

*1:中華書局「學術筆記叢刊」版参照。2007年第3刷。

*2:『資暇集』の原文であるが、『叢殘小語』の引用(http://bbs.guoxue.com/viewthread.php?tid=3320)には「借」が二度出て来る。これは、「借」二字でもって「貸借」の両義を表しているのだろう。ところで、人口に膾炙しているのは、「與」が「惜」=「貸したのを後悔する」となっているものだろう。この場合、「借」字は「貸す」と解釈するのが妥当である。さきの「謂借一癡、借二癡」がもとの形であったとすれば、二字めの「借」はあるいは字形の類似によって「惜」に誤られたという見方もできよう。

*3:http://bbs.guoxue.com/viewthread.php?tid=3320の引用は多少異なる。なお『叢殘小語』は、本来の字句がどうであったかという判断を保留している。

*4:岩波文庫版を参照。

*5:いま、神奈川近代文学館で企画展・収蔵コレクション展の「文人学者・富士川英郎展」が開催されている。

*6:初出は「玉川学園学術教育研究所所報」1985.12、のち『読書好日』(小沢書店1987)に収める。