『学芸記者 高原四郎遺稿集』

 五年半ほど前のことです。「阿部真之助の本」というエントリを記した際に、書誌学者の森洋介氏が、「阿部部長による東京日日新聞學藝部の黄金時代を偲ぶ」著作の一冊として、非売品の『学芸記者 高原四郎遺稿集』(高原萬里子1988)という本をすすめてくださったことがありました。
 今年に入って、高原氏のご遺族の方がそのコメント欄にたまたまお目を留めて下さり、当該書を譲ってくださったのでした。
 はやいもので、このブログをはじめてから十年以上の時が経ちました。その間、ブログを通じて多くの方々との出会いがありました。そのひとつひとつの御縁に、わたしはたいへん感謝しております。それに対する「恩返し」がいささかなりともできればと、そしてまた、たったひとりの読者でもいい、わたしのこの拙い文章が、どこかのたれかになにがしかの有益な情報を提供できたらいいなと希いながら、このブログを記すことが多くなりました。最近は、なかなか以前のように頻繁に更新することができなくなりましたが、たまに覗いてやって、「あいつまだ生きてるな」と確認していただけるならば、これに過ぎる喜びはありません。
 さて今回は、その『学芸記者 高原四郎遺稿集』についての話――。

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 さる方から、『学芸記者 高原四郎遺稿集』(高原萬里子1988)を頂いた。東京日日新聞毎日新聞)の記者であった故・高原四郎氏の一周忌の際に、ご遺族が編んだものだ。「偲ぶ」「記者の眼」「読む 聞く―書評と落語評―」「随想」の四部構成で、さらに「高原四郎年譜」、萬里子夫人による「感謝をこめて」が附いている。
 「偲ぶ」は、高原氏を知る人々による追悼文からなり、その書き手には、井伏鱒二永井龍男横山隆一、殿木圭一、椎野力、扇谷正造大山康晴小林治雄……等々、錚々たる顔ぶれが並ぶ。
 「記者の眼」以降は、高原氏の文章(それまで未公表だったものを含む)から構成されている。
 その高原氏の文章について、同書を下さった方は、書簡に「小生の好みでは 回想の帝大新聞 河合(教授)事件 脛の傷 古本の海(で) あたり/従軍コント 脛の傷 は故扇谷正造さんのご推奨でした」とお書きになっていたので、まずはそのあたりの文章から読み進めて、さらに興味の赴くまま読んでいる。
 たとえば阿部真之助に関する「阿部さんの思い出」や「死に上手だった恐妻家阿部真之助氏」、わたしの好きな獅子文六も出て来る「挿絵の思い出」、それから、「『良人の貞操』御用心」、「菊池寛先生(上)(下)」、「吉川(英治)さんの思い出」、「ポスト四天王 小三治を推す」等……。
 「脛の傷」は、さすがに扇谷が名品と評しただけあって、エッセイのアンソロジーに採りたくなるほどだし、「古本の海で」はあたかも短篇小説であるかのような味わいがある。
 それにわたしは、故人の人柄を髣髴させるような文章をよむのがすきなので、高原氏の人物描写や人物評をとりわけおもしろく読んでいる。たとえば次のようなくだり――。

 かくいう私も低空すれすれの状態で本郷を出たのだった。竹田復助教授からは何回も一度教室へ出てくるようにという勧告を受けた。卒業の口述試験には、誰でも読めそうな漢文が読めず塩谷温教授が啞然として、君は卒業したらどうするつもりかときいた。それでもお情けでどうにか卒業ときまって、宇野哲人教授にお礼の挨拶を述べ、ちっとも勉強しないですみませんとあやまったら、いや、いや、君は新聞の勉強をしたからそれでよろしい、大学というところは何かひとつ身につけて出ればそれでいいのだと、あたたかくいってくれたのは肝に銘じた。(「回想の帝大新聞」p.113)

 主任教授の塩谷温先生(私は支那文学科に在籍していた)は、口述試験のとき、「卒業なさっても、東洋文学の精神は忘れないように……」と念を押してパスさせてくれた。
 宇野哲人先生にも在学中の不勉強をおわびしたが、先生は「いや、大学へきて何かひとつ身につければいい。まあ君は新聞を身につけたからね」といってくれた。(「トロッコ時代」p.140)

 あるいはまた、次のような文章。

 そんな関係で『集団』同人の原稿がよく掲載された。高見順さんに書いてもらった記憶もある。そのころの高見さんは転向以前で、プロ文学の陣営に属していた。それらのグループのなかのひとりに林熊王という人がいた。でっぷりした感じの、そして同人のなかでも重きをなしているように思われる人間であった。その人の原稿も何度か文芸欄に出た。ところが、その林熊王が転身して、大阪漫才の作者、秋田実になったことを知ったのは、昭和十三年の暮れであった。大阪のカフェーで偶然この人物に出会った。彼は大宅壮一さんといっしょであった。大宅さんは私に「これは秋田実君だよ」と紹介してくれたが、私は思わず「なんだ、林熊王さんじゃないですか」といってしまった。秋田さんは、それを例によって「あっはっはっはー」と豪放に笑いのけた。(「トロッコ時代」p.130)

 そのなか(「集団」同人―引用者)に、高見順さんがいたわけである。細面のやさ男で、ヒゲづらの、林熊王などと対照的な感じであった。
 (略)その当時既に中堅作家となっていた大阪の藤沢桓夫さんに手紙を出して寄稿をお願いした。
 運よく承諾の返事があって、約束の期日に原稿が届いてきた。ところが、その原稿が長すぎたのである。
 五枚くらいと頼んだのが、六枚半もある。これではとても掲載しきれないので、蛮勇をふるって、その原稿を適当な長さにまで削りまくってしまった。
 さらに表題のサブタイトルに「清玄君へ」とあったのだが、それではいかに字面が淋しいと感じて「獄中の清玄君へ」と「獄中の」の三字を加えた。この「清玄君」は田中清玄氏であることはいうまでもない。
 その掲載誌が作家に届くと、すぐ折り返し藤沢さんから速達のはがきがきた。
 いま新聞をみたが、題を勝手に直してある、まことにけしからんから訂正しろというのであった。
 それから二時間もすると、また速達がきた。題だけかと思ったら、内容を削っている。こんなことでは我慢ができない、この件は文芸家協会へ提訴して適当に処分してもらうと書いてあった。
 えらいことになってしまったと、私は途方にくれた。
 そこで考えたのは、藤沢さんと「大学左派」時代に面識ある高見さんたちに、このとりなしを頼もうということであった。赤門前の喫茶店に林さんや高見さんに集まってもらって、事情を話した。
 ところが、高見さんは意外に戦闘的であった。題名に手を加えたぐらいでおこるなんて、思いあがっているというのである。
 田中清玄が獄中にあるのは事実なのだから、そのことを題名に書き加えて何が悪いか、それに多少削られたからといって文句いうほど、彼の文章に価値があるかなど、とりなしてもらうどころか、かえって挑発的であった。
 それほど彼は闘争的であり、既に藤沢さんとは思想的立場をはっきり区別していたようであった。
 結局、林熊王さんが手紙を書いて諒解を求めてやろうということで、この喫茶店の会合は終わったが、あのおとなしそうな高見さんが、たいへん強い立場をとったことに、私は彼のシンの強さを感じとった。(「レビューガールにふられた高見順」pp.277-79)

 ちなみに秋田実の東京帝大在学時、「一年上には、中島健蔵今日出海中野好夫林房雄、同年には、武田麟太郎藤沢桓夫舟橋聖一堀辰雄らの仲間がいて、ほぼ同じ世代では、大宅壮一水野成夫小林秀雄らもいた」(戸田学『上方漫才黄金時代』岩波書店2016:8)という*1
 それから菊池寛については、次のようなくだりなどが印象に残った。

 その底知れない知識のなかから、菊池さんは文芸春秋の入社問題をつくった。あるとき、その問題を私に示して、「うちの試験はむずかしいだろう」と得意そうであった。その難問題のなかに「橘曙覧」というのがあって、私はなにげなく「タチバナショウラン」*2と読んだ。それは「ショウラン」でなく「アケミ」であることは承知していたが、人物さえわかればいいと思ってそう読んだのであるが、先生はそれをききとがめた。「だめだね。近ごろの大学出なんてちっとも勉強していないんだね」ときめつけた。とんだテストを受けたことであったが、もしそれを正しく読んで「江戸後期の歌人」くらいの簡単な答えをしたら、どうであったろうか。あるいは眼を細めて「君も案外知っているんだね」くらいの言葉があったかもしれない。軽率な読みかたをして、とんだ失敗をした。「酒は灘、醤油は野田だね。それじゃあ酢はどこだい」と先生は私にきく。「さあ酢はね」「すわ鎌倉さ」といって、嬉しそうに笑う。そんなナンセンス問答をよくやったものである。若い芸妓を相手に「ネズミが蔵の穴から出てきて、右を向いて、左を向いたんだって、どうしてだかわかる」と質問する。女たちはガヤガヤさわいで、いろいろな答を出す。それが静まると、おもむろに「両方いっしょに向けないからだよ」といって女たちを啞然とさせて喜んでいた。二・二六事件の直後、私は大まじめな顔で先生にいった。「斎藤(実)さんや高橋(是清)さんが殺されたことをきいて、天皇はふらふらっとよろめかれたそうですね」「ふうん、そうかね」「朕は重心(重臣)を失ったって」。まんまとひっかけて、私はいい気持であった。阿部定事件についてもそういう問答の新作がたくさんできた。先生はその新作で芸妓たちをかついでは喜んでいた。酒ものまず、歌も歌わない先生にすれば、そこいらが精いっぱいの遊びであったろう。(「菊池寛先生(上)」pp.246-47)

 「橘曙覧」のやり取りでおもい出したが、平野岑一『文字は踊る』(大阪毎日新聞社東京日日新聞社、1931)に次のような記述があった。

 原敬氏の名は、「タカシ」といふのが、ほんとう(ママ)の讀み方であるが、世間では、「ケイ」といふ音讀みでとほつてゐた。濱口雄幸氏は、「ヲサチ」であるが、「ユウコウ」(ママ)でとほつてゐた。どちらも、何と呼ばれても、平氣なやうであつた。犬養毅氏は、「ツヨシ」であるが、これも「キ」で聞えてゐる。本人は、別段苦にもしないやうである。しかし、名前を讀みちがへられると、憤慨する人もある。
 法學博士末弘嚴太郎氏は、スポーツ仲間では、「ガンチヤン」でとほつてゐたが、これは、「嚴」を「巖」と取りちがへたものらしい。氏は、ある學生が、「末弘ゲンタロウ先生」(ママ)といつたので、叱りとばしたといふ話がある。ほんとうは、「ゲンタロウ」でもなく、「イヅタロウ」といふのである。(p.210)

 また平野といえば、『学芸記者』に、大阪毎日新聞社校正部編『校正の研究』(春陽堂1929)の「事実上の著者は校正部長、平野岑一」(「校正恐るべし」p.403)とあった。ちなみに平野は、同書の序文を書いている*3
 最後に、獅子文六については次のようにある。

 ある日、例によって随筆を頼みに文六さんの家を訪れたとき、私の顔を見るなり「おい、とうとう朝日から小説の注文がきたよ。おれはニチ(東京日日新聞―現毎日新聞)の方が先にくると思ってたんだがね」といった。その当時、新聞小説の舞台に出るのはごく選ばれた作家に限られていた。文六さんはそれ以前に、報知新聞に『悦ちゃん』を連載して好評を博した経験者であり、当然注目される作家ではあったが、自分自身でも必ず大新聞から依頼があるものと、心のなかでは自信を持っていたらしい。そしてついにその機会を得たというわけであったが、できれば東日の方が自分の気風にあっていると思っていたように思われた。私は競争紙に先手をとられてくやしかったが、それはそれとして「よかったですね。御成功を祈りますよ」といった。朝日の夕刊一面に出たその小説は『達磨町七番地』であった。調べてみると、昭和十二年の作品とあるが、その話をきいたのは、その前年の暮ごろではなかったかと思う。文六さんが毎日新聞にはじめて登場したのは、昭和十三年の『沙羅乙女』であるが、そのとき私は社会部に転勤していた。
 獅子文六さんは古くからの野球ファンでもあった。戦後、都市対抗野球をみてもらって、その観戦記をお願いしたことがあった。後楽園球場のスタンドにならんで観戦中、しきりに文六さんは戦前のプロ野球をなつかしがっていた。巨人の沢村投手はなやかな時代のことであろう。阪神の強打者景浦がバックスクリーンに打ち込んだホームランがいかにめざましいものであったかを話してくれた。その当時の後楽園はいまみたいに満員ということはなく、食堂でビールを飲みながらのんびりとゲームがみられたという話もしていた。学生野球では出身校とあって慶応のファン、したがってアンチ早稲田であった。プロ野球アンチ巨人。「いったい、早稲田や巨人のファンなんて」と痛烈にこきおろす。(「挿絵の思い出」pp.198-99)

 『沙羅乙女』連載終了前後の文六先生については、「こんなところに獅子文六」をご参照いただきたい。
 獅子文六について書かれた文章は、気がつくかぎりチェックしているが、最近では、大佛次郎『「ちいさい隅」の四季―大佛次郎のエッセー』(神奈川新聞社2016)にも「獅子文六」というエッセーが収められていた(pp.214-17)。1963年4月16日付「神奈川新聞」に掲載されたもの。
 大佛曰く、「文六さんの小説は、実は社会批評なのである。日本と日本人に対する観察なのである。人間の面白さ、自分は賢いと信じている愚かさに対する批評である。また文六さんにおそらく恵まれなかったであろう底抜けで快活な人生に対する讃歌、大ぼら吹きに対する礼讃なのである」(p.216)。

上方漫才黄金時代

上方漫才黄金時代

*1:同書には、「文筆に親しみ、高見順や新田潤などと同人雑誌も出した」(p.8)ともある。その「同人雑誌」が、「集団」をさすと思われる。

*2:ママ、「ショラン」ではなく。

*3:わたしはこの『校正の研究』を持っていないが、改訂版の大阪毎日新聞社『文字と鬪ふ』(1940)を所有している。