辻邦生『嵯峨野明月記』

 「舌」をつかって何かを「見分ける」能力をもった人物といえば、辻邦生『嵯峨野明月記』に出てくる「経師屋の宗二」(紙師宗二)もそうだった。

宗二は何かを見分けようとするとき、紙でも木ぎれでも、かならず舌先でなめてみるのである。まるでその味を吟味してでもいるように、眼をつぶり、しばらくなめてから、これはどこそこの紙だとか、この木ぎれは何の木だとか言いあてるのだった。そしてそれが不思議によくあたった。のちに、宗二が経師の職をついで、備中や伯耆、美作あたりの紙を扱うようになると、紙を舌先にあてただけで、それがどこの、誰の手ですかれたものか、ぴたりと言いあてるようになり、おれの店にくる紙商人などは「宗二殿の舌にかかると、夏にすいたか、冬にすいたかまでわかるんですからね。かないませんな」と言っていたほどだ。(中公文庫1990:224-25)

 文中の「おれ」は俵屋宗達。『嵯峨野明月記』には三人の語り手が登場し、「一の声」が「私」(本阿弥光悦)、「二の声」が「おれ」(宗達)、「三の声」が「わたし」(角倉与一=素庵)、ということになっている。
 この作品は、「嵯峨本(光悦本)」をテーマにした小説であるが(嵯峨本が主題となる作品としては、ほかに梶山季之せどり男爵数奇譚』の第一話「色模様一気通貫」が有る)、作者の辻邦生は、これを書きあげるにあたって相当な苦労をしたようだ。
 辻の日記メモの抜萃である『モンマルトル日記』(集英社文庫1979)には、そのあたりの経緯が生々しく描かれている。一部を引く。

十月十六日(水)*1
…いま『嵯峨野明月記』にあっては共同で仕事を企てながらも、結局は各人は、どうしようもない孤独からのがれられぬことが語られてゆく。このどうしようもない深淵をどうやって耐え、のりこえるのか。しかしのりこえられない。その人間の悲劇が問題なのである。(p.9)

十月十八日(金)
 ここずっと『嵯峨野明月記』の素材を調べている。前によんだものを読みなおし、表に書きいれ、幅の広いひろがりを持たせる Base をつくっている。これも書きだせば一挙にすすむだろう。『嵯峨野明月記』を三百枚の予定ではじめたのは、自分ではまだこうしたドラマ的視点が残っていると思っていたからだが、すでに加筆のあいだに視点が変っていて、さて『嵯峨野明月記』にとりかかると、個々のエピソードをたっぷりとうたわせてゆくため、はじめの予定枚数では全体の三分の一も進まないという結果になったのだと思う。(p.14)

十月二十九日(火)
 今朝おきぬけに堀田(善衛)さんからパリに来ているので連絡してほしいとの手紙。『嵯峨野明月記』のはじめの部分を読みかえし、手を入れ、前編を読みかえしたりしたら、どうもあとが見おとりして、困ったと思った。前のは、たしかに異常な集中力で書いているので全体がおそろしく animer しているが、今かいているところは、いやに気どっていて、この生命感がなくなっているような感じがする。もっとも美的なものに近づいてゆくところだから仕方ないとしても、これでは困る。あとで手を入れようとして前へ進もうとするが、どうも気力がない。今日は少し動揺している。(p.42)

十二月一日(日)曇
 とうとう『嵯峨野明月記』持ちこして十二月になった。こんなに書けないとは夢にも思わなかったので、一向に勉強がすすまないのと相俟って、やや消耗した。しかしなんとしてもここで挑戦しなければならないので、今後は一切の問題を切って専念すること。(p.94)

十二月十一日(水)
…『嵯峨野明月記』いよいよすすまず、困った。(p.99)

十二月二十日(金)曇 異常な暖かさ
 昨日までで『嵯峨野明月記』の細かい覚書をとる。
 論文ではないので、知的に展開するのではない。あくまで「情感」を流出させてゆく。この点で、現代の小説の流れと対立する。しかしそれが本道なのだ。これを守りぬくことだ。「情感」の支えとなる出来事を展開する。そこでは非対象化される。「感じ」だけが主語となる。(pp.108-09)

十二月三十一日(ママ。曜日なし)
 とうとう『嵯峨野明月記』ができあがらないまま一九六八年も終りとなる。(p.122)

一月六日 フェート・デ・ロワ
 ようやく、ようやく、『嵯峨野明月記』がすすみだした。この調子をうしないたくない。あまりにもこの五ヶ月つらかった。…『嵯峨野明月記』は三天才の嵯峨本をめぐるドラマを通して、滅びと永遠という主題を書こうとしている。そしてその主題を支え現前させてくれるのは本能寺の変であり、町々のにぎわいであり、関ケ原の役であり、大坂夏の陣である。(pp.132-35)

五月十日
 問題は、ぼくが、時代なり、風俗なりを、なんら詩的よろこびを感じないのに、対象化した点にある。そこから、説明的な、愚劣さが生じた。『嵯峨野明月記』後半の誤りと苦しさはそこにある。(p.191)

五月十六日
 『嵯峨野明月記』の中断は、時代風俗をコピーしようというかかる誤りによって生みだされたものだ。(p.195)

 『嵯峨野明月記』の執筆中断や、執筆に至る過程については、夫人の辻佐保子氏も言及している。長くなるが引く。

 三人の登場人物の独白を長短さまざまに繋ぎあわせた『嵯峨野明月記』(新潮社、中公文庫)は、やはり一時中断したのちに、後半を執筆している。しかし、その本質や成立までの状況には、『天草の雅歌』の場合とはまた別の複雑な経験が積み重なっている。戦中、戦後にかけての「日本的なもの」をめぐる忌避感は、この世代の人にしかもはや追想できないだろう。留学中にパリで開かれた日本美術展ではじめて「鳥獣戯画」を見て、ようやくその種の禁忌から解放されたとはいえ、帰国後もなかなか素直には「祖国を愛する」気持になれなかった。そのころのある日、京都での障屏画の調査に同行したおり、水尾比呂志さん(大学での私の同級生)の定宿に一緒に泊めていただいたことがある。(略)そのおりに見た藁葺家屋を描いた宗達の扇面画と、水尾さんの著書『デザイナー誕生』で展開される扇面構図のみごとな分析が引き金となって、しだいに宗達の世界に引き込まれていったのだろう。しばらくのちに宗達展で「蔦の細道」を見て、(略)はじめて魂を震撼されたようである。(略)二人ともまだ暇だったそのころは、年末になるとゴム版の年賀状を彫り、藤枝静男さんにいただいた陶製のハンコを押し、ていねいに墨をすって宛名を書いたりしていた。そんな些細な手仕事の楽しみも、料紙の共同制作にあたった宗達や光悦の気持を想像する手掛かりになったに違いない。
 学問と家業に引き裂かれて悩む角倉素庵を登場させたのは、大学卒業後の進路に迷ったころの重苦しい気分の投影でもあろうが、林屋辰三郎先生の古い著書を東大図書館でみつけてから、「これでやっと全体を支える骨格ができた」と言って喜んでいた。職人気質から創造者へとそれぞれ飛躍してゆく二人の登場人物だけでは、現実世界の苛酷なメカニズム(海外貿易や運河開削)を十分には捉えきれないからである。
 単行本が完成*2してから、まず最初に林屋先生のお宅にご挨拶にうかがい、それから素庵や光悦のお墓にお礼参りしたことを思いだす。(以下略)
 『嵯峨野明月記』は、旧制高校のおりの恩師、狂言の研究家であった古川久先生に捧げられている。それは、先生が岳父から譲られた「嵯峨本」を大切に秘蔵されており、学生時代に一度だけ見せていただいたことがあったからである。このように遠い昔の記憶や映像までが、ふとしたきっかけから呼び覚まされ、他のさまざまな偶然の要素と絡まりあいながら、最終的にひとつの作品へと凝集してゆく不思議さは、書き手の意志を超えた魔術としか言いようがない。(『「たえず書く人」辻邦生と暮らして』*3中公文庫2011:pp.37-39)

 『嵯峨野明月記』は、同時代の三人の思想が「嵯峨本」という藝術に「凝集」されるゆくたてが描かれる。ラストでは藝術の永遠性が称揚される。
 これと同様に、ある一冊の書物をめぐって、「滅びと永遠」(辻邦生)なる主題について描いた作品としては、萩耿介『イモータル』(中公文庫2014)*4が挙げられるだろう。
 もっとも、この作品の語り手たちは、国も時代背景も全く異にはしている。しかし、特に「第四章 信頼」に出てくるシコーの苦悩は、上記の素庵の苦悩とも響き合うものがあるように思う。『イモータル』を面白く読んだ人には、(もし未読なら)『嵯峨野明月記』をすすめたい。

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 今夏の「春の戴冠・嵯峨野明月記」展(ミニ展示。於学習院大史料館)へは、残念ながら行けなかったが、学習院大は定期的に辻のミニ展示を行っているし、生誕百年(だいぶ先だが2025年)には回顧展が予定されている由なので、楽しみにしておこう。

嵯峨野明月記 (中公文庫)

嵯峨野明月記 (中公文庫)

「たえず書く人」辻邦生と暮らして (中公文庫)

「たえず書く人」辻邦生と暮らして (中公文庫)

イモータル (中公文庫)

イモータル (中公文庫)

*1:1968年。

*2:1971年のこと。

*3:辻邦生全集」(新潮社)の月報に書かれた文章をまとめたもの。

*4:『不滅の書』(中央公論新社2012)を改題、改稿したもの。