三度目の『やちまた』

 このブログでは個人的な事情をいちいち書き連ねることをなるべく控えているので、詳細は縷々述べないが、昨年12月初旬から三週間強、仕事がほとんど手につかず、本を1ページどころか一字も読めない深刻な状況に陥った。
 「本好き」を僭称するようになってから初めての危機的な一大事態であった。一時は、もしかするとこのさき一生本が読めなくなるのではなかろうか、このまま本ぎらいになってしまうのではないか、だとすれば本好きを名乗れなくなるからこのブログを続ける意義もなくなるし、いっそ閉鎖してしまおうか、という気持にさえなり、ますます自己嫌悪をおぼえた。
 しかし、そんな私を救ってくれたのもやはり本(そして映画)なのであった。たとえば森まゆみ氏が、つらい時期に道浦母都子『風の婚』が「私を救ってくれた」と記すように、私も書物のなかに「『自分に似た人』をさがし、生きる力を取り戻」しつつある(『読書休日』晶文社1994:270-74)。
 とはいえ、漸く少しずつ読めるようになってからも、しばらくは、「ウェルテル」とか武者小路実篤『人生論・愛について』とかいった類ばかり読んでいた。ウェルテルなんぞに手をのばしたのは、多感な高校時代以来のことである*1
 そうして、本がふたたび「心の支え」となって戻ってきてくれたばかりでなく、たくさんの人と積極的にお会いして色々な話をすることで、次第に心身が恢復して行ったように思う。これほど「生活者の孤独」を味わわされた時期もかつてなかったが、その一方、かくまで多くの人たちの心の温かさに触れた時期もまたなかった。この間に、あらたに出会った人々は十数人にのぼる。交友関係も一気に広がった。しかし、そういう自分は、他の人たちに対して何事かをなしえたであろうか。我と我が身を振りかえり、大いに反省させられたことであった。
 まだ完全復活とまではいかないけれど、1月も中旬になってから、そろそろと長篇にも手をつけることが出来るようになった。自分自身の勉強も、ほんの少しずつだが再開した。
 さてその長篇で、最初にえらんだのは、『ハリー・クバート事件』と『やちまた』と、小説以外では、『宇宙の統一理論を求めて』と『意識と本質』とである。
 『やちまた』を読むのは、これで三度目である。初読・再読は河出書房新社の単行本(再版)によったが、今回は「中公文庫プレミアム」版で読んでいる(いま下巻の三分の一のあたりを読み進めているところ。以下の引用はこの文庫版に拠った)。
 さすがに三度目ともなると、細かい点にまで目が行く。たとえば並列の「と」。作中では、「文語調と口語調とを」(上巻p.161)、「写真と文とで」(下巻p.149)、「倦怠と不安とを」(同前)等のように、「AとBと」の後者の「と」を省かない。これは、「文法上ノ許容スベキ事項」(文部省告示、明治三十八年十二月)の第十三條で、「語句を列挙する場合に用ゐるテニヲハの「ト」は誤解を生ぜざるときに限り最終の語句の下に之を省くも妨なし」と省略を許容されたものであるが、『やちまた』では唯一箇所、「遮莫とわたしはきれいに飲んでしまっていた」(上巻p.301)とその許容形が出て来る。河出書房の単行本初版からこのようになっており、これは著者か編集サイドかのミスだろうと思う。
 文庫版は、口絵や図版を一切省いているのが残念だが、呉智英氏による巻末エセーを収める。さらに足立巻一『人の世やちまた』から、「吉川幸次郎先生」を再録しているのがありがたい。
 以前、このブログで『やちまた』について書いたのは約2年前のこと(「『やちまた』二度目の文庫化」)で、さらに遡ると、約6年前、春庭の『詞通路』三冊を入手した直後にも書いている(「足立巻一『やちまた』」)。
 この6年のあいだに、足立巻一のほかの著作や、『やちまた』関連書を少しずつ入手している。まずは、伊藤正雄(『やちまた』の拝藤教授のモデル)の『ごまめの歯ぎしり―福澤諭吉とともに歩む―』(初音書房1972)をKの店頭で入手した。同人誌「笹」(神戸)に連載された「不文院漫筆」を主としているが、副題が示すように、福澤について書かれた文章を少なからず収める。
 ちなみに『やちまた』には、昭和二十二年春の伊藤の様子が次のごとく描かれている。

 別れぎわに、拝藤教授はさらに意外なことばをもらした。近ごろは福沢諭吉をおもしろく読んでいる、という。わたしも教科書代わりに『福翁自伝』を使っただけに、この一致には内心驚き、そのことを申しあげた。
「そらいいです。遺憾ながら福沢を過去の世界に葬り去るほど、ぼくたちはまだ進歩しとりません」
 教授は笑い、福沢が一生をつうじて真摯に念願し、努力したのは弱小国日本の独立であり、いまの日本は福沢時代に逆転している、というようなことをボソボソ語った。
 それにしても、学生時代の近世文学の講義が耳についていて、福沢諭吉と拝藤教授とのとりあわせは奇妙であった。(下巻p.134)

 『ごまめの歯ぎしり』には、「本居春庭のこと―足立巻一君に―」(pp.79-80)という文章も収めてあり、これは足立に宛てた葉書の文章(足立が企画したテレビ番組「本居春庭のこと」の感想)をそのまま「笹」に載せたもののようである。『やちまた』第十五章には葉書の文章が引用されており、上記のものとほとんど(「聞」「聴」の表記の違い等を除き)一致する(下巻pp.200-01)。
 そして、Nでは、本居春庭『詞の八衢』の木版を二種購った。
 一つは中本、すなわち美濃半截本で、刊年は不明。見返しに「浪華 前川文榮堂櫻」とある。
 もう一つは(これを『詞の八衢』の異本に数えるのは苦しいが)『増補標註 詞の八衢』で、明治十三年刊。中本よりも若干大きい半紙本。鼇頭に、清水濱臣による増補、岡本保孝による標註が施されている。清水、岡本の名は『やちまた』にも出て来る。

 『詞の八衢』に疑問をおこして徹底的な補正をはかったのは若狭の僧義門であったが、江戸の林圀雄ははじめて「下一段活用」を立てたし、富樫広蔭は分類を大成し、桑名の黒沢翁満は「上二段」の名称を最初に用いた。中島広足、清水浜臣、岡本保孝、八木立札、黒川春村、山田直温らも春庭説を修正したという。(上巻p.167)

 『やちまた』は、『詞の八衢』の木版本について次の如く述べる。

 春庭の主著三種については『本居春庭全集』の活字版で一応読了を果たせたが、それだけでは物足らず、あらためて木版本を買い集めた。
『詞の八衢』は文化五年が初刊であり、そののち同十三年、文政元年、弘化三年、慶応二年と四回も版を重ねており、わたしはそのうち二種を買ったが、奥づけに刊行年が刻んでないので、どのものともわかりかねる。
 その一つは大阪心斎橋安土町南入ル東側の河内屋和助から出されたもので、美濃版の大きさで、「千種園文庫蔵」の蔵書印が押してある。もう一つはその半截の体裁になっていて浪華の八重堂桜という書物所の刊行であり、これには「滋賀県師範学校」の蔵書印にかぶせて同校の消し印がななめに押されてある。(上巻pp.145-46)

 「浪華 八重堂桜」は、「浪華 前川文榮堂櫻」に似ているが、両者は何か関係が有るのだろうか。くわしいことは分からない。
 さらにNでは東秀三『足立巻一』(編集工房ノア1995)も買い、Yの店頭では、随分前に加藤秀俊氏がメールで御教示くださった足立巻一『忍術』(平凡社1957)を見つけて入手した。これらの本については、いずれ述べる機会があろうかと思う。
 またこの間、『やちまた』を取り上げていた本としては、大竹たかし『裁判官の書架』(白水社2015)、荒川洋治『過去をもつ人』(みすず書房2016)が印象に残った。
 大竹著は、次の如く述べている。

 引っ越しでは、そのたびに愛着のある本が見つからなくなることがありますが、八回の引越し(ママ)に耐え、本棚の取り出しやすい場所を占め続けている本が、足立巻一『やちまた』(河出書房新社)です。(略)
 著者(足立巻一)は白江教授の授業から、春庭が、「この書を八衢と名づけたについては、おなじことばでもその働きざまによってどちらへもいくものであるから道にたとえたのだと述べている」と紹介します。この作品を読むたびに、時の流れの中で交錯する道を進んでいく人びとの生きる姿を怖いほどに目をこらして見つめる著者の視線に圧倒される思いがします。(pp.78-89)

 また荒川著は、次の如く書いている。

 長編評伝『やちまた』は一九七四年の刊行。足立巻一(一九一三−一九八五)が残した内容の深い、特別な名作だ。多くの人に深い感動をもたらした。この日本に、このような著作が存在すること。それを知るしあわせを読む人は感じることだろう。(略)
 春庭に少しおくれて生まれ、『詞の八衢』を要約して、初学のために、とてもいい案内書を書いた人、春庭のことばを人知れず大切にした人など、それぞれにひとつの道を歩き通した人たちの姿は、影となり光となって、読む人の心に残ることだろう。足立巻一『やちまた』は、さまざまな一筋を描く。ことばが果てるまで描いていく。(「雨の中の道」pp.216-18)

 『やちまた』の文字を追っている間、たしかに私は読書の「しあわせ」を感じることができる。そして上記のような評にも心を動かされる。
 文庫で容易に入手がかなう今のうちに、出来るだけ多くの人がこの本に触れてほしい、と思う。

    • -

 『裁判官の書架』は、著者大竹氏の誠実さが行間からにじみ出て来るような好著で、これに触発されて読んだ本もある。
 たとえば、アーザル・ナフィーシー/市川恵里訳『テヘランでロリータを読む』(白水社2006)。最近新装版が出たので、読むことがかなった。さらに大竹氏の文章中で、同じ訳者によるアラン・ベネット『やんごとなき読者』(白水社)が紹介されており、これも巧い具合に、できたばかりの古書/新刊書店A*2の棚で見つけて購った。
 ちなみに大竹著は、原田國男『裁判の非情と人情』(岩波新書2017)の「裁判官が書いた本」冒頭で、

 最近、後輩の大竹たかしさんが『裁判官の書架』という素晴らしい本を書かれた。彼は、大竹しのぶさんの兄のような名前のおかげで皆にすぐ名前を覚えてもらえたと自己紹介で言っていた。第一章でふれた兄弟間の相続事件*3を見事に解決した裁判官その人でもある。(p.135)

と紹介されている。

裁判官の書架

裁判官の書架

過去をもつ人

過去をもつ人

裁判の非情と人情 (岩波新書)

裁判の非情と人情 (岩波新書)

*1:そのほか、エーリヒ・ケストナー/小松太郎訳『人生処方詩集』(岩波文庫2014)にも助けられた。ついでにいうと、同書巻末には富士川英郎「小松太郎訳『人生処方詩集』」(『黒い風琴』小沢書店1984からの転載)が附いていて、これが解説の役目を果している。

*2:リブロで棚を作っていた方が始められたお店、といえば、わかる人はわかるだろう。

*3:詳細は同書を繙かれたい。