葉山嘉樹ほか『教科書で読む名作 セメント樽の中の手紙ほか―プロレタリア文学』(ちくま文庫2017)という昨年12月から刊行され始めたシリーズのうちの一冊に、佐多稲子の処女作「キャラメル工場から」が収められている(pp.33-58)。
この作品は、青木文庫や角川文庫に表題作として収録されたこともあったようだが、文庫という形では長らく入手困難になっており、その後、久しぶりで紅野敏郎ほか編『日本近代短篇小説選 昭和篇1』(岩波文庫2012)に収められた。したがって、今回の文庫入りは約4年半ぶりということになろう。
佐多の自伝『年譜の行間』(中公文庫1986)によると、
『キャラメル工場から』も初めは八枚ぐらいの随筆のようなものでした。それを中野重治がもっと長く、小説に書くようにと言って、それで小説にしたのです。(p.163)
という。この、元になった随筆も、中野のすすめで書いたようだ。佐多の『夏の栞―中野重治をおくる―』(講談社文芸文庫2010)には、
帰り際に中野が、窪川(佐多の夫。後に離婚―引用者)に、と封書をおいて行ったのが、私のたびたび云う「キヤラメル工場から」を私に書かせるきっかけになるものだったのである。私は少し前に、これも中野から云われてだったとおもうが、「プロ芸」(「プロレタリア芸術」―引用者)編集部に、随筆を書いて渡していた。その随筆を、小説に書き直すようにとすすめた中野の手紙がその封書であった。(p.88)
とある。
わたしは、昨春頃から佐多の文章をよく読むようになって、佐多と田村俊子や宮本百合子らとの関係を描いた『灰色の午後』(講談社文芸文庫1999)を特におもしろく読んだのだが、古本屋で以前はよく見かけていたはずの『素足の娘』(新潮文庫)をなかなか見つけられず、また読書の中断期間を挟んだこともあり、少し遠ざかっていたところが、最近古書肆Sの店頭にその『素足の娘』を見出し(100円)、直後にA店頭でも見つけた(50円)ことを切っ掛けとして、再び佐多作品をちびちび読み始めている。読みながら、佐多研究者でもあるK先生に蕎麦を奢っていただいて一緒に食べた日のことを懐かしく思い起すなどしていた(「私」と父親とが蕎麦を食う場面がある)。
ところで、『灰色の午後』に次のような印象的なくだりがある。
この前九月半ばに行われた防空演習の夜、茶の間の電燈に遮蔽して、その下だけ光りの射す卓の上に岩波文庫の里見八犬伝をおき、惣吉が音読をした。それを囲むようにして、折江と子ども二人の頭が揃っていた。そのときから半月すぎたばかりであった。あのとき惣吉は、燈火管制の下で馬琴を讀むというおもいつきに、表情まで改めたように自信深げであった。亮吉は卓の上に肩をのり出していた。節子は折江のそばに身体を寄せていた。惣吉は先ず、里見八犬伝の作者が、この書物を書く間に目が見えなくなって息子の嫁に口述をして筆記させたことなどから話しはじめた。表も暗かった。表の暗さに背を向けて馬琴を読むというわが家の籠もった空気は、心より密度を保っているかにおもわれた。(p.185)
ここを読んでふと思い出したのが、前田愛「音読から黙読へ―近代読者の成立」*1(『近代読者の成立』岩波現代文庫2001所収)である。そこにも、(時代こそ違うものの)山川均が少年の頃に、八犬伝を借りてきた父親が家じゅうの者にその読み聞かせをしていた、という証言が引かれている(p.168)。
前田というと、前掲ちくま文庫の佐多のプロフィル欄に、「昭和六〇年に樋口一葉『たけくらべ』の美登利をめぐって日本近代文学研究者前田愛を相手に論争するなど終生活動的であった」(p.245)と記されている。
この「論争」については、佐多稲子『月の宴』(講談社文芸文庫1991)所収の「『たけくらべ』解釈へのひとつの疑問」*2「『たけくらべ』解釈のその後」*3を参照されたい。もっとも佐多自身は、後者の文章で、「私はこれを書きながら、前田愛さんに対して論争のつもりなどをしているのではない。それは前田さんの書かれた『美登利のために』が、優しく書かれているせいである。優しく、という云い方は単純になるけれど」(p.164)と書いてはいるが。
佐多の短篇作品としては、「キャラメル工場から」のほか、「水」もよく知られるところだろう。教科書に採用されたこともあるそうだ。文庫版だと、現在は品切になっているが、佐多稲子『女の宿』(講談社文芸文庫1990)に収録されている(pp.47-56)。
この「水」について、立野幸雄『越中文学の情景―富山の近・現代文学作品―』(桂書房2013)は、
本を読んでいると、その本に巡り会った喜びで何かに感謝したくなることがある。その作品が長くても短かくても問題ではない。「水」はそのような作品である。文芸評論家の奥野健男氏はこの作品を「一行一行に無限の人間のかなしみ、生活の重さがこめられて、何百枚かの長編を読んだと同じ感銘を受ける」と激賞した。(pp.54-55)
と述べているし、また最近出た福田和也『鏡花、水上、万太郎』(キノブックス2017)も「私小説の路、主義者の道、みち、――佐多稲子」*4の末尾で、「水」を「佐多の短篇作家としての腕前を存分に示し」た作品(p.183)であるとして、その内容を紹介している。
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佐多稲子には『私の東京地図』(講談社文芸文庫)という愛すべき短篇集があり、わたしは「挽歌」の章が特に好きなのだが、オリジナル選集の小沢信男『ぼくの東京全集』(ちくま文庫)に、この作品について述べた「佐多稲子の東京地図」が収められている(pp.414-43)*5。小沢氏はこれを角川文庫版で読んでいるようだ。
『私の東京地図』も、角川文庫(1955刊)、講談社文庫(1972刊)、講談社文芸文庫(1989刊)、と装いをかえて何度も世に出ている。手許にあるのは、2011年刊の「講談社文芸文庫スタンダード」版。4度目の文庫版ということになる。(3.25追記)
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中川成美『戦争をよむ―70冊の小説案内』(岩波新書2017)で、「キャラメル工場から」が紹介されている(pp.94-96)。(7.23追記)

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