梁啓超『和文漢読法』のことなど

 顧頡剛/平岡武夫訳『ある歴史家の生い立ち―古史辨自序―』(岩波文庫1987)に、次のような一節がある。

この時は、ちょうど国内に革新運動が勃発した時であって、学校を開け、纏足を止めよ、鉄道を敷け、米国のシナ労働者禁止条例に抗議せよ、政府に憲法を布き国会を開かせよ、梁任公先生〔梁啓超 一八七三−一九二九年〕の言論は一世を風靡した。私も、この潮流に揺り動かされて、自分でも救国の責任を感じ、いつも忼慨激昂して時事を論じた。『中国魂』のなかの「傍観者を叱る文」や、「中国の武士道」の長い序文の類は、私のもっとも愛好する読物であった。(p.26)

 梁啓超のこの「纏足を止めよ」という主張は、たとえば坂元ひろ子『中国近代の思想文化史』(岩波新書2016)も、

一八九七年には梁啓超・汪康年・譚嗣同らによって最大規模の「上海不纏足総会」が組織され、各地に分会が作られた。同年に梁啓超が『時務報』に掲載した「変法通議」でも、女子教育の重要性を論じ、纏足を女性の「廃疾」化とみなし、「国の恥」と意識する。(p.49)

と言及している。
 坂元著の前半部のキーパーソンのひとりが梁啓超だ。坂元氏は同書において、1917年ごろに梁、熊希齢、張君勱らが結成したグループのことを「梁啓超系」と名づけているほどで(p.98)、p.129やp.141ではこの術語を使っている。
 また上掲引用にみえる「時務報」や「変法通議」については、下記を参照のこと。

 梁啓超(広東新会の人)は中国ジャーナリズムの祖とも称せられる。新聞・雑誌編集で最初に精彩を放ったのは、一八九六年上海で創刊した『時務報』である。
 初代駐日公使・何如璋に随行し渡日経験もある強学会員、黄遵憲と汪康年で計画し、封鎖された上海強学会の残金をもとに、梁啓超を編集長、汪康年を代表責任者とし、「変法図存」(変法で生き残りをはかる)を旨として創刊。梁啓超は、国を強めるために科挙改変、学校・学会・新聞設立等の変法を唱え、男女の人材育成をその基本とする「変法通議」十数篇等を自ら執筆し『時務報』に掲載した。自然界は絶えざる変化の過程にあり、その自然法則は組織としての生命をもつ社会においても「公理」、つまり法則である、という梁の議論は多くの知識人に愛読され、『時務報』は最高部数一万七千に上り、これは当時の雑誌発行部数の最高記録となった。(略)
 梁啓超の新聞・雑誌の人気は、新知識の紹介、変法の鼓舞という点だけでなく、その文体にあった。明晰、平明、通俗的かつ情熱的な文体で、従来の古漢語文の形式に囚われずに、東西の古典知識をおりまぜた。これが新鮮な躍動感を生み、アピール力ある独特な「時務文体」を創出したのである。その文章の平明さを浅薄とし、「報館(文屋)の文章」(厳復)、「報館八股文」との批判もあったが、何よりもそれは大衆化の条件であり、新聞文体の趨勢であった。(坂元pp.37-38)

 ちなみに梁と盟友・汪とはその後「訣別」しており(梁は後に師の康有為とも「訣別」してしまうことになる)、これについては『変法派の書簡と『燕山楚水紀遊』―「山本憲関係資料」の世界』(汲古書院2017)が、筆談記録一篇、山本あて書簡七通を公開しつつ明らかにしたところである。
 さて梁は日本に亡命した後、『和文漢読法』という著作を編んでいる。

 梁啓超は日本の漢文訓読法を逆転させた『和文漢読法』(羅晋*1と共著)を駆使し日本で紹介されていた近代西洋思想を吸収、華僑の子弟教育にも尽力した。(坂元p.52)

 『和文漢読法』というのは、大略以下のような本である。

 来日後わずか半年の上掲の文章*2ではすでに『和文漢読法』に言及している。同書は梁啓超と羅普の共著で、漢字が七、八割を占めている日本文は中国人なら数日でいくらか読めるようになり、半年で十分書けるようになるという視角から書かれた入門書なのである。残された文章から見るなら、梁啓超がかなりはやくに日本文の読解能力を身につけたことは確かである。その実践論が上掲の『和文漢読法』である。題を見れば、それが「漢文訓読法」を真似たものであることはだれでもすぐに気付くだろう。しかし、「漢文訓読法」が日本語の文法に即した体系を備えているのにたいし、『和文漢読法』は日本語・中国語いずれの体系をもふまえぬ簡便理解術という点で、まったく異質のものなのである。梁作の増補版がつぎつぎと刊行されたことから、漢字を見るだけですこしは分かる(分かったつもりになる)簡便さが受けたことは確かなのだが、「正則」ならざる「変則」の速成学習法が内包する問題点はその後ながく論議の対象となった。(狹間直樹『梁啓超―東アジア文明史の転換』岩波現代全書2016:87-88)

 『和文漢読法』そのもの、また諸本に関しては、古田島洋介(2008)「梁啓超和文漢読法』(盧本)簡注」(明星大学学術機関リポジトリで読める)に詳しい。これによれば、同書は長らく稀覯書であったという(もっとも、現在でも容易に参照できる代物ではない)。この「盧本」とされた一本は必ずしも善本ではないようだが、京大文学研究科図書館蔵本で、豹軒鈴木虎雄の旧蔵にかかるらしい。古田島氏によると、「日本語を学ぼうとする者たちが、たぶん梁に無断で出版した」と思われ、1899年前半に編まれて、刊行されたのは1900年頃と推定されるという。初版本は未だに発見されていないようだ。
 古田島氏は当該論考を書くにあたって参照していないようだが、これが書かれる以前、齋藤希史『漢文脈の近代―清末=明治の文学圏』(名古屋大学出版会2005)の第5章「官話と和文梁啓超の言語意識―」*3が、『和文漢読法』に言及している(pp.115-17)。
 齋藤氏はその品詞区分に特に着目し、上掲の古田島論文が省略した第三十八節の和製漢語一覧の一部を紹介している(pp.116-17)。
 齋藤著から一節を引いておく。

 さて、中国人が日本語を学ぶときの一つの難所が用言の活用であるが、梁啓超はこれについては大胆に切り捨てる。「我輩於其変化之法、皆可置之不理。但熟認之知其為此字足矣(我々は活用については無視する。よくよく見てどの字なのかわかればよい)」(第十六節)、見てそれと分かれば、つまり、活用する部分がすべてラ行なりカ行なりの同一の行であることが分かればよいのである。他にも、長文の断句に窮したときは、「而」にあたる「テ」、「的」にあたる「ル」を目印にすればよい(第三十一節)などの虎の巻風の指示、日本の印刷では濁音を省くことが多い(第三十七節)などの細かい注意まで、この『和文漢読法』は、なかなか周到な実用書と言える。(齋藤p.116)

 不思議なことに、齋藤氏がこれを書くうえで参照した『和文漢読法』の書誌が、註釈にも明示されていない。
 「盧本」すなわち京大蔵本に拠った、と考えるのが自然だろう。

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 なお、齋藤著の第2部(第3〜5章)は梁啓超関連の論文によって構成されているのだが、該書の編集にあたった橘宗吾氏が興味深い「裏話」を明かしている。以下に引く。

 この本は四部構成になっていまして、その第2部は「梁啓超近代文学」と題して、明治の日本に亡命した清末の知識人・梁啓超という人が日本の政治小説を手がかりに新しい文学概念をつくりあげていった様を扱っていますが、実はこの部分は最初、この本に収めるつもりではありませんでした。それは、私の方が、ゆるやかに考えるようになったとはいいましても、まだまだ「アジアからの衝撃」つまり「アジアから日本への衝撃」という図式に囚われていたからだと思います。
 齋藤さんの方はこの本のテーマに関わる論文を少しずつ書いていってくれていたのですが、本全体の骨組みがいまひとつ定まらずにいました。訪ねていっては「ぼちぼち」「そろそろ」といった話はするものの、具体的にはなかなか刊行のめどが立ちませんでした。そこで私はだんだん、それは梁啓超についての論文を外そうとしていることに原因があるのではないかと思いはじめ、論文をもう一度読み返したりしているうちに、自分が無意識のうちに日本を主体においてこの本を考えようとしていたことに気づきました。日本が衝撃を受けるという形で、いわば受動態の主語だったので気がつきにくかったのですが、よく考えてみるとやはりそうでした。そしていったんそう気がついてみると、それにこだわる必要がないこともわかり、むしろウェスタン・インパクト=西洋の衝撃のもとでの日本と中国の相互作用をこそ主題にすべきだと思うようになりました。そして齋藤さんの論文の強みの一つはそこにあったのです。
 そこで、梁啓超の論文を含めた形で目次を考えまして、駒場の研究室を訪ねていって、齋藤さんに提案してみました。齋藤さんも梁啓超の論文を本に入れたいと、たぶんずっと思っていたのだと思います。その場で今の目次がほぼ固まりまして、一気に刊行に向けて動き出しました。(橘宗吾『学術書の編集者』慶應義塾大学出版会2016:75-76)

 また、「副題は最初、『清末=明治のエクリチュール』だったものを、私が『エクリチュール』の部分に反対しまして、結局いまの『文学圏』に落ち着いたのだったと思います」(p.81)、というエピソードも面白い。

ある歴史家の生い立ち―古史弁自序 (岩波文庫)

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中国近代の思想文化史 (岩波新書)

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変法派の書簡と『燕山楚水紀遊』―「山本憲関係資料」の世界

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梁啓超――東アジア文明史の転換 (岩波現代全書)

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漢文脈の近代―清末=明治の文学圏―

漢文脈の近代―清末=明治の文学圏―

学術書の編集者

学術書の編集者

*1:本文ママ。これは誤記で、「羅普」が正しい。字は孝高。『佳人之奇遇』の翻訳作業にも協力したらしい。

*2:「論学日本文之益(日本文を学ぶの益を論ず)」(「清議」一〇号,1899.4)。

*3:もとになったのは、1998年にカリフォルニア大学サンタバーバラ校で行われたシンポジウムにおける発表原稿で、初出は、"Liang Qichao’s Consciouness of Languages" , Joshua A. Fogel ed. ,The Role of Japan in Liang Qichao’s Introduction of Modern Western Civilization in China , The Institute of East Asian Studies, University of California, Berkeley, 2004.