おとうさん/おかあさん

 原作(深見じゅんのマンガ)は未読ながら、かつてオンタイムで見ていたドラマ『ぽっかぽか』(1〜3,1994-97)が、BS-TBSで再放送されている。「花王・愛の劇場」枠で放送されたいわゆる「昼ドラ」だが、これが何よりも印象的なのは、幼稚園児の田所あすか(上脇結友)が、父親の慶彦(羽場裕一)を「チチ」、母親の麻美(七瀬なつみ)を「ハハ」と呼ぶということであった。
 「チチ」「ハハ」は、現代でこそ改まった場で自分の父親・母親をいう呼称だとされるが、同音連呼だから、「ヂヂ」(爺)「ババ」(婆)「おテテ」(手)「おメメ」(目)などと同じく、元来は幼児語であったと推測される。
 しかし今は、藝能人やスポーツ選手などが、公の場で自分の父母のことを「お父さん」「お母さん」などと言おうものなら、特に中年以上の方々から、ケシカラン、という内容の声や投書が届く。「チチ」「ハハ」と言わせろ、というわけだ。
 ところで「おかあさん」は、すでに江戸期の確例がある。
 再掲になるが、森銑三『讀書日記』(出版科學總合研究所1981)が以下のように記している。

十二日(昭和八年九月―引用者) 從夫(それから)以來記は萬象亭の黄表紙中或は最もよきものなり。稀書複製會本にて讀むに、幼兒が「かゝさんや、とん\/とうがらしをかつてくんねへ、おかアさん」といふところあり。江戸の子供が「おかアさん」といふこと訝かしく、夜圖書館にて原本を借りて見しに、やはり「おかアさん」とあり、ふしぎなり。圖書館本は南畝の舊藏本なり。但し識語はなし。(p.41)

 後年、森は別のところで、この十八世紀末の黄表紙を再び目にすることとなる。

四日(昭和十三年四月―引用者) 某氏を訪ひて黄表氏(ママ)二百餘部を見る。(略)なほ萬象亭の從夫以來記あり。この作先年稀書複製會本にて讀みし時、「かゝさんや、とん\/とうがらしをかつてくんねへ、おかアさん」とある。その「おかアさん」を疑問としたりしが、今原本を見るに、またその如くにして、刻の誤にはあらず。江戸の下町にて「おかアさん」などいふ子のありしにや。(p.290)

 この用例は、『日本国語大辞典【第二版】』(小学館)も採録している。
 以前、渡辺邦男『蛇姫様』(1959)を観ていると、市川雷蔵が「おとうさん」を連呼する場面があって若干違和感をおぼえたことがあるが、ありえない話でもなさそうだ。
 大森洋平『考証要集―秘伝! MHK時代考証資料』(文春文庫2013)は、「おとうさん・おかあさん」の項を収めていて、

 江戸時代に江戸京都大坂の中流以上の商家で使われたが、武家には「品がない」と見られていた。「オトウサン・オカアサン」が明治三七年の国定教科書で全国的になると、士族からは相当の反発があったという(大野敏明『知って合点 江戸ことば』文春新書、八八・二〇一頁)。また、三田村鳶魚は「おとうさま、おかあさまは近頃のことばで昔は使わない」と言っている(三田村鳶魚『江戸生活事典』青蛙房、二五二頁)。時代劇の武家台詞では「父上・母上」とする。(p.62-63)

と書いている。
 時代は下がるが、永井荷風(1879-1959)は、1927(昭和二)年10月の「申訳」(「荷風随筆 抄」『日和下駄 一名 東京散策記』講談社文芸文庫ワイド2017所収←講談社文芸文庫1999)で、「僕が文壇の諸友と平生会談の場所と定めて置いた或カッフェーに」いた「お民」という女性が、自分の父母を「おっかさん、おとっつぁん」と呼んだことに関連して、以下の如く記している。

 お民は父母のことを呼ぶに、当世の娘のように、「おとうさん、おかあさん」とは言わず「おっかさん、おとッつァん」と言う。僕の見る所では、これは東京在来の町言葉で、「おとうさん」と云い、「おかアさん」と云い、或は略して、「とうさん、かアさん」と云うのは田舎言葉から転化して今は一般の通用語となったものである。薗八節の鳥辺山に「ととさんやかかさんのあるはお前も同じこと」という詞がある。されば「とうさん、かアさん」の語は関西地方のものであろうか。近年に至って都下花柳の巷には芸者が茶屋待合の亭主或は客人のことを呼んで「とうさん」となし、茶屋の内儀又は妓家の主婦を「かアさん」というのを耳にする。良家に在っては児輩が厳父を呼んで「のんきなとうさん」と言っている。人倫の廃頽も亦極れりと謂うべきである。因にしるす。僕は小石川の家に育てられた頃には「おととさま、おかかさま」と言うように教えられていた。これは僕の家が尾張藩士分であった故でもあろうか。其の由来を審にしない。(pp.167-68)

 また、荷風の四半世紀後に生れた佐多稲子(1904-1998)は、『素足の娘』(1940年3月刊)で、

私たちも父母を呼ぶのに、父ちゃん、母ちゃん、と言わせられ、小学校の一年生の時、先生に父母の呼び方を一人々々たずねられたが、みんな、おとつっあん(ママ)、おっかさん、で、私のように父ちゃん、母ちゃん、と言うものは、ただ私ひとりであった。その時は恥ずかしかったけれど、その方がハイカラなのだ、ということは小さい私も知っていた。(新潮文庫版1961:34)

と回想している。
 さらに山田俊雄(1922-2005)は、『忘れかけてゐた言葉』(三省堂2003)で、荷風と同世代にあたる父親の話し言葉について、次のように述べている。

 オトッツァンだの、オッカサンだのといふと、今の若い人は聞いただけで、笑ひ出したり、不謹慎にも、トニー某の發明發見した、ふざけた言葉の一つだと思つたりする。(略)
 私の少年の頃、父はすでに、その頃の世間竝みにいふと老年に近かつた。父は一八七五年の生れで、私は一九二二年の出生だから四十七歳の時の子である。私が小學校に上る頃、父はとうに五十歳を過ぎてゐた。
 父の口から出るオトッツァンは、主として彼の父、つまり私から云ふと、祖父をさしてゐた。毎月二十五日には、
「今日はオトッツァンの日だ、オッカサンは何をこしらへるのかな?」
といふ工合に、祖父の命日の朝など、母と同席してゐる子供達にも聞えるやうに、祖父の位牌の前に供へる御馳走の話になることがあつた。オッカサンの日も、ほぼ同様であつた。(略)
 オッカサンも、オトッツァンも、別にいやしいことばではないし、田舎詞でもなかつた。木山捷平の件の短篇にも、「お父ッつぁん」は幼な言葉の類であるやうに書いてある。(略)
 また、ヘボンの「和英・英和語林集成」に、

OTOTTSAN オトッサン 阿爺 n. (cont. of o-toto-san, com. coll,) Father. Syn.CHICHI, TETEGO.

とあつて、ヘボンの横文字と、片假名との對照によると、オトッサンの片假名は、發音式に書くとオトッツァンに当ること明白である。これは明治前期のことに属する*1
(「『お父ッさん』の話」平成九年十月,pp.220-24)

 この前年にも山田氏は「おとつさん」という文章を書いており、『詞苑間歩―移る時代・移ることば(下)』(三省堂1999)などに収めてある(pp.344-47)。両者で取り上げているのが、式亭三馬浮世風呂』前編巻上に出る「おとつさん」で、「さ」に「しろきにごり」が附されている。ゆえに発音上は「おとっ『つぁ』ん」だろうと見られていて、山田氏は「おとつさん」で、「標題はオトッツァンと發音して貰ひたい」(p.344)と書いている。
 なお山田氏は、

「オトッツァン」「オッカサン」は国定教科書の「おとうさん」「おかあさん」によつて、今ではすつかり片隅の者になつたのだが、山の手中流の教養ある人々のことばには、どうもいまだに造り物らしい匂のするものがある。(『詞苑間歩(下)』p.347)

とも書いている。こうして見てくると、少くとも十九世紀末から二十世紀初頭にかけて生れた人々の多くは、自分の両親のことを、「おとうさん」「おかあさん」ではなく、「おとっつぁん」「おっかさん」と呼んでいたらしいことが知られるのである。
 教科書に現れる親族呼称を批判的に捉えたものとしては、大岡信氏(1931-2017)による文章もある。こちらは「チチ」「ハハ」に対する見解である。

 今中学に通っている私の息子が、六年生のときの出来事だが、ある日彼が私のところへ国語の教科書をもってきていうには、「この教科書はおかしいよ。本物とちがうよ」。
 宮沢賢治作「けんじゅう公園林」として、賢治の「虔十公園林」がのっていた。(略)
 私の息子は小学校時代、長いあいだ宮沢賢治の童話に熱中していたので、教科書で方言がすべていわゆる標準語に書きかえられているところまでくると、「これは本物とちがう」と気づいたのである。(略)「なぜ方言のままで出さないの?」ときかれて、あらためて教科書を眺めれば、そこに出ている会話は、今日の都会のサラリーマン一家が、日曜菜園か何かでかわしている会話以外の何ものでもないではないか。(略)
 「おっかさん」を「母」、「にいさん」を「兄」、「お父さん」を「父」と呼びかえている偽善性も、まったく気に入らない。国語教科書が率先して家族の親しい呼び名に水をぶっかけるようつとめているのではないか。言葉の問題で何が悪いといって、偽善的な言葉を使うほど悪いことはない。なんで「おっかさん」ではいけないのか、私はこの改変をつまらないことだと思う。正当な根拠がない改変だと思う。戦後のいちじるしい現象だと思うが、「おとうさん」「おかあさん」の類を何が何でも「父」「母」というふうに子どもに教えこむ教育上の悪慣習が生じたように私は感じている。まさか、かの悪名高い当用漢字音訓表に「父(とう)」「母(かあ)」の訓みが許容されていなかったから、などということではなかろうが、あるいはそんなことも関係があるかと、つい勘ぐりたくなる。
 たしかに、自分の父母兄弟について言う場合なら、チチ、ハハと言えと教えるべきである。ときどき「ぼくのおとうさんが」などという青年に出会っておどろくことがある。けれども、これがつねにチチ、ハハでなければならないという掟はどこにもない。「虔十公園林」の場合、「おっかさん」「にいさん」「お父さん」と言っているのは、虔十自身ではない。作者の宮沢賢治である。賢治はこれらを「母」「兄」「父」と書くこともできたのに、そうは書かなかったのである。この生きた感情の生理を無視するのはまちがっている。
(「仙人が碁をうつところ―子どもの言語経験について―」1973.7,『青き麦萌ゆ』中公文庫1982所収←毎日新聞社1975:70-75)

 文中の「私の息子」とは、大岡玲氏(1958-)である。
 後年、大岡玲氏は自著で次のように書いている。

僕も子供の頃から宮沢賢治が大好きで、岩波書店が1963(昭和38)年に出した単行本『風の又三郎』(1931〜33)と『銀河鉄道の夜』2冊を毎晩枕元に置いて寝たほど愛着があった。そんな風だったから、教科書の掲載方法に不審を抱いたというか、ほとんど激怒したのだ。(略)
 もちろん、採用したこと自体は悪くない。あ、「虔十公園林」だ、と小学生だった僕も、一瞬喜んだ。その喜びが腹立ちに変わったのは、収録に際して原文を改悪していたからなのだ。
 どういうことかというと、賢治はこの物語の中で交わされる会話(とてもイキイキした会話だ!)を、生まれ故郷・岩手の方言で書いている。それなのに、教科書ではそれを標準語に直してしまっていたのだ。雰囲気台なしである。しかも、そこには潜在的差別意識が透けて見える。方言はわかりにくいし、子供には正しい標準語を教える必要があるという判断。まるで、方言は「少し足りない」から、正しい日本語に改良してやると暗に主張しているみたいに感じられてしまう。それじゃあ、虔十をバカにした人々の行為と同じではないか。
 小学生だった僕が、そんな風に明確に差別を読み取ったとは思わないけれど、なにかすごくカチンときたことははっきり覚えている。
大岡玲『不屈に生きるための名作文学講義―本と深い仲になってみよう』ベスト新書2016:183-86)

読書日記 (1981年)

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素足の娘 (新潮文庫 さ 4-2)

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忘れかけてゐた言葉

忘れかけてゐた言葉

詞苑間歩―移る時代・変ることば〈下〉

詞苑間歩―移る時代・変ることば〈下〉

*1:「明治前期」とあるから、再版か。手許には講談社学術文庫版(第三版の縮刷影印)しかないので分らない。むろんその三版は採録している(p.493)。ちなみに初版は慶應年間に刊行された。