『首塚の上のアドバルーン』と『太平記』と

 後藤明生首塚の上のアドバルーン』(講談社文芸文庫1999)*1は、「ピラミッドトーク」「黄色い箱」「変化する風景」「『瀧口入道』異聞」「『平家』の首」「分身」「首塚の上のアドバルーン」の七つの中短篇から構成される連作小説集である。
 著者が1985年の夏*2、マンションの十四階に転居してくるところから物語は始まる。その「近景がない」(「ピラミッドトーク」)眺めのベランダから見える「こんもり繁った丘のようなもの」(「黄色い箱」)にふと目を留め、それが馬加康胤(まくわりやすたね)の首塚だと知る。
 「変化する風景」以下の五篇は書翰体の形式をとっており、ひたすら首塚や文学作品における首級を巡る考察が続く。
 「変化する風景」には、「祇王寺から首塚までは、せいぜい五十メートルくらいの距離でしょう。『平家物語』の祇王と、『太平記』の義貞との時間差は、約百六十年です。その祇王の墓と義貞の首塚が、五十メートルの距離の中にある。それが京都だ、ということになるのでしょう」(p.80)という一節が有るが、この小説自体、『太平記』『平家物語』はじめ、『瀧口入道』、『日本城郭大系』、『千葉大系図』、『仮名手本忠臣蔵』、ベンヤミンドストエフスキー、ブルワー=リットン、ボルヘス、『楠木正成』(大谷晃一)、『室町小説集』(花田清輝)、「二条河原落書」、謡曲鞍馬天狗」、「鎌倉」(文部省唱歌)、「大楠公」(落合直文・作詞)、「四条畷」(大和田建樹・作詞/小山作之助・作曲)、堀内敬三『定本・日本の軍歌』等から夥しいまでの引用がなされている。つまり、時代や地域、ジャンルを全く異にした作品群が同一のフラットな小説空間に置かれるわけで、上引をもじって言うならば、「それが小説だ」、ということになるのだろう。
 このうち最も頻繁に引用・参照されるのが『太平記』で、「変化する風景」だけで少なくとも八箇所の引用がみられる。
 岩波文庫版の兵藤裕己校注『太平記』(全六巻、2014-16)によってその当該箇所を探ったところ、引用部分によってはかなりの異同があった。二、三の例を見てみる。
 まず後藤による引用から。新田義貞が初登場する場面である。

 上野(かうづけの)国の住人新田(にったの)小太郎義貞と申すは、八幡太郎義家十七代の後胤、源家嫡流(げんけちやくりう)の名家なり。しかれども平氏世を執つて、四海皆その威に服するをりふしなれば、力無く関東の催促に従つて、金剛山の搦手(からめで)にぞ向はれける。
 ここにいかなる所存か出で来にけん、ある時、執事船田入道義昌を近づけてのたまひけるは、「いにしへより源平両家朝家(てうか)に仕へて、平氏世を乱る時は源家これを鎮(しづ)め、源氏上(かみ)を侵(をか)す日は平家これを治む。義貞不肖(ふせう)なりといへども、当家の門楣(もんび)として、譜代弓矢の名を汚(けが)せり。しかるに今、相模入道の行跡を見るに、滅亡遠きにあらず。われ本国に帰つて義兵を挙げ、先朝の宸襟(しんきん)を休めたてまつらんと存ずるが、勅命をかうむらでは叶(かな)ふまじ。いかがして大塔宮の令旨(りやうじ)を賜つて、この素懐(そくわい)を達すべき」と問ひたまひければ、云々(巻第七「新田義貞に綸旨を賜ふ事」―「変化する風景」pp.81-82)

 これが岩波文庫本では次のようになっている。

 上野国の住人新田小太郎義貞と申すは、八幡太郎義家十七代の後胤、源家嫡流の名家なり。しかれども、平氏世を執って、四海皆その威に服する時節(をりふし)なれば、力なく関東の催促に随つて、金剛山の搦手にぞ向かはれける。
 ここに、いかなる所存かありけん、或る時、執事船田入道義昌を近づけて宣ひけるは、「古へより、源平両家朝家に仕へて、平氏世を乱る時は、源氏これを鎮め、源氏上を侵す日は、平家これを治む。義貞、不肖なりと云へども、当家の門楣として譜代弓箭の名を汚せり。しかるに今、相模入道の行迹を見るに、滅亡遠きにあらず。われ本国に帰つて義兵を挙げ、先朝の宸襟を休め奉らんと存ずるが、勅命を蒙らでは叶ふまじ。いかがして大塔宮の令旨を給はつて、この素懐を達すべき」と問ひ給へば、云々(第七巻「義貞綸旨を賜る事」―『太平記(一)』岩波文庫pp.344-45)

 この箇所については、「所存か出で来にけん」か「所存かありけん」か、そして「問ひたまひければ」か「問ひ給へば」か、という相違を除けば、さほど違いがないように見える。しいていうと、岩波文庫本の方が漢字で表記される語がやや多い点くらいか。しかしそれは校注者の態度によっても違ってくる部分なので、比較してもさほど意味はないことだろう。
 そもそも後藤が参照したのはどんな本だったかというと、作中に「実はわたしは、新潮日本古典集成の『太平記』(山下宏明・校注 全五冊)をずっと愛読しているのですが」(「分身」p.150)とあるので、引用もこれに基づいていると思しい。
 『太平記(四)』(岩波文庫)附載「[解説4]『太平記』の本文(テクスト)」によれば、岩波文庫本の底本は「西源院(せいげんいん)本」(原本は漢字片かな交じり)と呼ばれる古本系の一種で、「応永年間に書写され、現存本の転写が行われたのは、大永・天文年間であるという」(p.469)。一方、新潮日本古典集成本や岩波の古典文学大系本が底本としているのはいわゆる「流布本」で、これは近世(慶長年間以降)に校訂・版行されたもの。「誤写や脱文が少なく、また誤字・当て字も少ないなど(ほかに、係り結びの乱れも少ない)、かなり整備された本文を持つ」という(p.503)。
 さて引用本文に戻ると、上引で表明される「源平交代」史観は、当時の日本では人口に膾炙した歴史観であったようだ。そのゆえにか、宣教師たちも『太平記』を『平家物語』と並ぶ「源平交代」史観の歴史書と見なしていたようで、キリシタン版『太平記抜書』にも「古へより、源平両家朝家に仕へて」云々というくだりはそのまま収録されているという(神田千里『宣教師と『太平記』―シリーズ〈本と日本史〉(4)』集英社新書2017:101-02)。
 では次に、鎌倉幕府滅亡に至る場面を見てみよう。まずは後藤による流布本の引用から。

 新田義貞、逞兵(ていへい)二万余騎を率して、二十一日の夜半ばかりに、片瀬・腰越をうち回り、極楽寺坂へうちのぞみたまふ。明け行く月に敵の陣を見たまへば、北は切通しまで山高く路けはしきに、木戸をかまへかい楯(だて)を掻いて、数万(すまん)の兵陣を並べて並みゐたり。南は稲村崎にて、沙頭(しやとう)路せばきに、波打ちぎはまで逆木(さかもぎ)を繁く引き懸けて、沖四、五町が程に大船どもを並べて、櫓をかきて横矢(よこや)に射させんと構へたり。げにもこの陣の寄手、かなはで引きぬらんも理(ことわり)なりと見給ひければ、義貞馬より下りたまひて、冑(かぶと)を脱いで海上を遥々と伏し拝み、龍神に向つて祈誓(きせい)したまひける。(……)と至信(ししん)に祈念し、みづから佩(は)きたまへる金作(こがねづく)りの太刀を抜いて、海中へ投げたまひけり。まことに龍神納受(なふじゆ)やしたまひけん、その夜の月の入り方に、(……)稲村崎にはかに二十余町干あがつて、平沙渺々(へいしゃべうべう)たり。横矢射んと構へぬる数千(すせん)の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥かの沖に漂へり(巻第十「稲村崎干潟に成る事」―「変化する風景」p.75)

 岩波文庫本(西源院本)の対応箇所は次のようである。

 新田義貞、二万余騎を率して、二十一日の夜半ばかり、肩瀬、腰越を打ち廻つて、極楽寺坂へ打ち莅(のぞ)み給ふ。明け行く月に、平家の陣を見給へば、北は切通しにて、山高く路嶮(けは)しきに、城戸を結ひ、垣楯(かいだて)を掻き、数万(すまん)騎の兵、陣を並べて並み居たり。南は稲村崎にて、道狭(せば)きに、波打際まで逆木を繁く引つ懸け、澳(おき)四、五町の程に、大船を並べ、矢倉を掻き、横矢を射させんと支度せり。げにもこの陣の合戦に、寄手叶はで引きけるは理(ことわ)りなりとぞ見給ひける。
 義貞、馬より下り、甲(かぶと)を脱いで、海上の方を伏し拝み、龍神に向かつて祈誓し給ひけるは、(……)と、信心を凝らして祈念を致し、自ら佩き給へる金作りの太刀を解いて、海底に沈められける。
 実に龍神八部も納受し給ひけるにや、その日の月の入り方に、(……)稲村崎、二十余町干揚がり、平沙まさに渺々たり。横矢を射させんと支度したりし数千の兵船も、塩に誘はれて遥かの澳に漂へり(第十巻「鎌倉中合戦の事」―『太平記(二)』岩波文庫pp.127-29)

 これを見ると、「木戸をかまへ」(流布本):「城戸を結ひ」(西源院本)、「射させんと構へたり」「射んと構へぬる」(流布本):「射させんと支度せり」「射させんと支度したりし」(西源院本)と、流布本は他動詞「構ふ」を多用していることが知られるし、また、「海中へ投げたまひけり」(流布本):「海底に沈められける」(西源院本)と、西源院本の「係り結びの乱れ」を流布本が解消している箇所も見られる。なお同本に「肩瀬」とあるのは、当て字であろうか。
 ちなみに流布本が、「平家の陣」を「敵の陣」と表現しているのは、近世の南朝正閏論の影響もあったのだろう。
 続いて義貞最期の場面である。

 大将義貞は、燈明寺の前にひかへて手負の実検しておはしけるが、藤島の戦ひ強うして、官軍ややもすれば追つ立てらるる体(てい)に見えけるあひだ、安からぬ事に思はれけるにや、馬に乗り替へ鎧を着かへて、わづかに五十余騎の勢を相従へ、路をかへ畔を伝ひ、藤島の城へぞ向はれける。その時分黒丸(くろまるの)城より、細川出羽守・鹿草(かくさ)彦太郎両大将にて、藤島城を攻めける寄手どもを追ひ払はんとて、三百余騎の勢にて横畷(よこなはて)を回りけるに、義貞覿面(てきめん)に行き合ひたまふ。細川が方には、歩立(かちだ)ちにて楯をついたる射手(いて)ども多かりければ、深田に走り下り、前に持楯(もちだて)を衝き並べて、鏃(やじり)を支へて散々に射る。義貞の方には、射手の一人もなく、楯の一帖をも持たせざれば、前なる兵義貞の矢面に立ち塞がつて、ただ的に成つてぞ射られける。中野藤内左衛門(とうないざゑもん)は、義貞に目くばせして、「千鈞(せんきん)の弩(ど)は、鼷鼠(けいそ)のために機を発せず」と申しけるを、義貞ききもあへず、「士を失してひとり免るるは、我意にあらず」と言ひてなほ敵の中へ懸け入らんと、駿馬に一鞭をすすめらる。この馬名誉の駿足なりければ、一、二丈の堀をも、前々たやすく越えけるが、五筋まで射立てられける矢にやよわりけん、小溝一つをこえかねて、屏風をたふすが如く岸の下にぞころびける。義貞弓手(ゆんで)の足をしかれて、起きあがらんとしたまふところに、白羽の矢一筋、真向(まつかう)のはづれ、眉間の真中にぞ立つたりける。急所の痛手(いたで)なれば、一矢に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶(かな)はじとや思ひけん、抜いたる太刀を左の手に取り渡し、みづから首をかき切つて、深泥(しんでい)の中にかくして、その上に横たはつてぞ臥したまひける(巻第二十「義貞自害の事」―「変化する風景」pp.86-87)

 当該箇所は、西源院本では次の如くである。

 新田左中将は、東郷寺の前にひかへて、手負の実検しておはしけるが、藤島城強(こは)くして、官軍ややもすれば追つ立てらるる体に見えける間、安からぬ事に思はれけるにや、馬に乗り替へ、鎧を着替へて、わづかに五十余騎の勢を相随へ、路を要(よこぎ)り、田を渡つて、藤島城へぞ向かはれける。
 その時節、黒丸城より、細川出羽守、鹿草彦太郎、両大将にて、藤島城を攻むる寄手を追ひ払はんとて、三百余騎の勢にて、横縄手を廻りけるに、義貞朝臣、覿面に行き合ひ給ふ。細川が方には、徒立にて楯をつきたる射手ども多かりければ、深田に走り下り、前に持楯をつき並べて、鏃を支(そろ)へて散々に射る。左中将の方には、射手は一人もなく、楯の一帖をも持たざりければ、前なる兵、義貞の矢面に塞がつて、ただ的になつてぞ射られける。中野藤左衛門、大将に目加せして、「千鈞の弩は、鼷鼠のために機を発せず」と云ひけるを、義貞、聞きもあへず、「士を失して独り免れんこと、何の面目あつてか人に見えん」とて、なほ敵の中へ懸け入らんと、駿馬に一鞭を進めらる。
 この馬名誉の駿足なりければ、一、二丈の堀をば前々たやすく越えけるが、五筋まで射立てられたる矢にや弱りたりけん、小溝一つ越えかねて、屏風を返すが如く岸の下にぞ倒れたりける。義貞、弓手の足を敷かれて、起き上がらんとし給ふ処に、白羽の矢一筋、真向のはづれ、眉間の真中にぞ立つたりける。義貞、今は叶はじとや思はれけん、腰の刀を抜いて、自ら首を掻き落とし、深泥の中にぞ臥し給ひける(第二十巻「義貞朝臣自殺の事」―『太平記(三)』岩波文庫pp.377-79)

 岩波文庫本の脚注によれば、「東郷寺」は「不詳。梵舜本同じ。神田本・流布本「燈明寺」。玄玖本・簗田本「東門寺」。天正本「東明寺」。足羽にあった平泉寺の末寺か」(p.376)といい、諸本間でかなり異なっているようだ。
 また、「よわりけん」「ころびける」(流布本):「弱りたりけん」「倒れたりける」(西源院本)という違いを見れば、流布本では完了(-た(り)-)と回想・過去・推量(-け(り)-、-け(む)-)を表す動詞接尾辞とが共起しにくいようにも見受けられるが、「立つたりける」という用例も見えるので、簡潔性や音読の際のリズムを重視しているだけのようにも思われる。
 一方最初の引用で、古本系が「問ひ給へば」としていたのを流布本が「問ひたまひければ」としていたのを上で見たように、流布本は時制にも気を配っているように見受けられる。他の引用箇所でも、「泣き倒れ給ふ」(西源院本):「泣き倒れたまひけり」(流布本)、「これを哀れまずと云ふ事なし」(西源院本):「共に涙を流さぬは無かりけり」(流布本)(第二十巻「左中将の首を梟る事」)、「河合庄へ馳せ集まる」(西源院本):「河合の庄へ馳せ集まりけり」(流布本)(第二十巻「水練栗毛付けずまひの事」)となっている*3
 藤井貞和『日本文法体系』(ちくま新書2016)は、「-け(り)-」に「詠嘆」の意を汲み取ることを批判したうえで、

 物語はしつこく「〜けり、〜けり、〜ける、〜ける」と語られる。すべて、語り手が物語内容を伝承として聞き知っている(内容の真偽にはタッチしない)というアピールを「けり」は果たす。(p.51)

 歌物語の文体や物語の文学その他の、「…けり、…けり、…けり」(「…ける、…けれ」を含む〈以下同じ〉)とつづく展開が、口承の文学に負うとは基本の確認としてある。「けり」が“時間の経過”をあらわすとは、伝承であることを最もよく示す、というほかない。(p.75)

などと述べている。その妥当性のほどは分からないが、流布本が口承性に重きを置いた結果、このように「-け(り)-」を多用している可能性はあるかもしれない。もっとも、『太平記』受容の歴史*4を考慮する必要もあるけれど。
 それから、流布本が「強うして」「ついたる」と音便形を用いる傾向にあるのもひとつの特徴であろうか。ただし「[解説4]『太平記』の本文(テクスト)」によると、西源院本の巻二十三には「事悪しとや思ひけん、跡を暗うして、皆己が本国へ逃げ下る」と、「跡を暗うして」という音便形が出て来るのであって、これは、

「跡を暗む」をへて、南北朝期あたりを境に、しだいに「跡を暗ます」へ交替した語と思われるが(なお、『日葡辞書』に、「Atouo curamacasu(跡を暗まかす)」とある)、南都本(同系統の簗田本、相承院本)や今川家本は、(略)「跡を暗まして」と改めており、流布本や梵舜本(および米沢本、天正本等)は、

 頼遠も行春も、かくては事悪しかりなんと思ひければ、皆己(おの)が本国へぞ逃げ下りける。

とあり、あまり使われなくなった『跡を暗うして』という語そのものを削除している。(pp.511-12)

というわけなので、音便形といっても、その先後関係は語によりけりである。
 また音便といえば、後藤著に、

 そこに、康胤に滅ぼされた千葉胤直の弟の息子・実胤も加わり、総勢一万余騎となって、康生二(一四五六)年四月十一日、千葉城に押し寄せ「稲麻竹葦(とうまちくい)」(これは『太平記』巻第三「赤坂の城軍の事」で、楠木正成の赤坂城を二十万の東国軍が取り囲む有様を形容した言葉)に取り囲み、揉みに揉んで攻め動かした。(「首塚の上のアドバルーン」pp.199-200)

という一節がある。実は引用文中の「揉みに揉んで」もまた、『太平記』由来の表現で、西源院本では第三巻「赤坂軍の事、同(おなじく)城落つる事」に「ただ揉みに揉み落とさんと」(『太平記(一)』岩波文庫p.167)とある(ちなみに西源院本では、「稲麻竹葦」なる表現が第四巻「呉越闘ひの事」に出ている。p.211)のだが、第六巻「六波羅勢討たるる事」にも、「六波羅勢、勝(かつ)に乗つて、人馬の息をも継がせず、天王寺の在家のはづれまで、揉みに揉うでぞ追うたりける」(『太平記(一)』岩波文庫p.283)という形で出て来る。
 先日、『保元物語』を読んでいた際にも、「河原を下りに二町ばかり、鞭・鐙をそろへて、もみにもうでぞ逃げたりける」(日下力訳注『保元物語角川ソフィア文庫2015:中巻p.99)という表現に逢著したから、これは一種の定型表現として軍記物語によく使われていたのかも知れない。
 ところで後藤の「分身」には、次の様なくだりがある。

 この本(『難太平記』)は、足利一族で九州探題もつとめた今川了俊が書いたもので、『難太平記』という書名は『太平記』を批判するという意味を持つのだそうですが、それによると『太平記』は約三十巻が出来上ったあたりで、足利直義(尊氏の弟)の検閲を受けたり、削除あるいは加筆されたりしていたらしいということです。その一例として山下(宏明)氏は、足利尊氏の北条方から後醍醐天皇への寝返り、を挙げています。つまり直義が検閲した『太平記』では、その尊氏の「寝返り」が、「降参せられけり」と書かれていたらしい。それを削除させたと『難太平記』には書かれているそうです。そして、いまわたしたちが読んでいる『太平記』には、なるほど「降参」の字はどこにも見当りません。事実としての「寝返り」が繰り返されるだけです。(p.151)

 そもそも『太平記』における「室町幕府の諸将の描かれ方はあまりよくな」く、「(高)師直が悪人として描写されているのは有名だが、直義も目的のためには手段を選ばない狡猾な人物と辛辣な評価を下されている」し、「尊氏の影も薄い」。室町期の「正史」としてこれを見るならば、確かに客観的だとはいえるだろうが、「史実としては再検討すべき論点も当然多い」。こういった記述態度による『太平記』史観に基づいて、「近年、如意王(直義の男児)誕生を契機として直義が野心を抱いたのが、観応の擾乱の大きな原因であったとする説が提起されている」という(以上、亀田俊和観応の擾乱中公新書2017:31より*5)ほどで、何らかのバイアスがかかっている可能性も否めない。
 それを批判する『難太平記』もこれまた然りで、了俊が足利家時の置文を尊氏の「反後醍醐」挙兵に結びつけることには「了俊の創作にすぎぬ疑いがきわめて濃」いという(笠松宏至「一通の文書の『歴史』」;『法と言葉の中世史』平凡社ライブラリー1993所収:243)。すなわち、了俊自身もやはり政治的バイアスからは逃れられなかったということだ*6

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 さて後藤明生は、「首塚の上のアドバルーン」で、

 こんもりした丘の上で偶然に見つけた首塚からはじまったわたしの『平家物語』『太平記』めぐりが、めぐりめぐって、『仮名手本忠臣蔵』にたどり着いたということです。馬加康胤の首塚新田義貞首塚→『太平記』→瀧口寺→『平家物語』→『瀧口入道』→『平家』→『太平記』→『徒然草』→『太平記』とアミダクジ式遍歴を重ねるうちに、『仮名手本忠臣蔵』にたどり着いたという不思議なのです。(p.208)

と書いているが、この「アミダクジ」という表現は、「『平家』の首」にも三箇所出てきており、

 実際、体じゅう管だらけでした。まず点滴の音。これは血管につながっているのは一本ですが、その一本めがけて、アミダクジ式に何本もの管が群がっています。(p.125)

 まずはじめに、十四階のベランダから見えるこんもりした丘のてっぺんに、見知らぬ首塚があったわけです。それが『平家』『太平記』めぐりのはじまりでした。そして二つの本と首塚と十四階のベランダの間をアミダクジ式に行きつ戻りつするうち、ある日、入院手術ということに相成った次第であります。(p.129)

 しかし、その偶然は、わたしの『平家』『太平記』めぐりに割り込んで来て、そのアミダクジの回路を変化させたわけです。(p.130)

とある。「アミダクジ」とはすなわち、テキストとの出会いが、ひいては物語の展開が偶然の作用の結果であることを意味する。
 最近出た後藤明生『アミダクジ式ゴトウメイセイ【対談篇】』(つかだま書房2017)には、後藤と富岡幸一郎氏の対談「後藤明生と『首塚の上のアドバルーン』」が収録されていて(pp.247-64)*7、後藤はそのなかで次のように語っている。

 意識の変化は、当然のことながら文体にあらわれますね。例えば、はじめは街との対話です。また風景とか首塚との対話です。それは割合いにゆったりしていますが、それがテキストとの対話になると、スピードが出て来た。/そして、読んでごらんになるとわかるんだけれども、三つ目からとつぜん手紙になっちゃっている。なんで、いつの間に手紙になったんだと言う人がいるかもしれない。もちろん、これは僕が書いたことなので、意図的にやったわけなんだけれども……。(略)あらかじめ予定された古典文学散歩ではないですからね。(略)どのテキストとの出会いも、すべて、とつぜんであり偶然であるわけですね。そういう驚き興奮が、文体になる。そういうテキストとの対話が激しくなるにつれて、いつの間にか書簡体になってしまったのかもしれない。(略)アミダクジ式と書いたけれど『仮名手本忠臣蔵』が出てくるあたりは我ながらちょっと興奮した。全然予期してなかったですね。(pp.263-64)

 したがって、読み手たる我々も次にどこへ連れて行かれるのか全く見当がつかないので、いわば小説が生成する現場に立ち会えるというわけである。

首塚の上のアドバルーン (講談社文芸文庫)

首塚の上のアドバルーン (講談社文芸文庫)

太平記(一) (岩波文庫)

太平記(一) (岩波文庫)

太平記(二) (岩波文庫)

太平記(二) (岩波文庫)

太平記(三) (岩波文庫)

太平記(三) (岩波文庫)

太平記(四) (岩波文庫)

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法と言葉の中世史 (平凡社ライブラリー)

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アミダクジ式ゴトウメイセイ【対談篇】

アミダクジ式ゴトウメイセイ【対談篇】

*1:2015年11月に復刊。

*2:「ピラミッドトーク」に、「転居して間もなく、日航ジャンボ機の墜落事故が発生した。新聞もテレビも連日、大々的にその大事故の模様を報道していた」(P.10)とある。

*3:二つめの引用では、「納受し給ひけるにや」(西源院本):「納受やしたまひけん」(流布本)と、流布本で「-け(り)-」が「-け(む)-」になっているところがある。ここは「龍神(八部)」が動作主であるため、流布本が意図的に過去推量の接尾辞に改めている可能性もあるだろう。

*4:江戸期に盛んに読まれたことについては、後藤も「江戸時代の『太平記』ブームは知っておりましたが」(「分身」pp.174-75)などと少しだけ言及している。

*5:なお亀田氏は、如意王誕生を擾乱の原因と見なすことには与しない。

*6:難太平記』の記述態度については、先引神田著pp.32-38も参考になる。

*7:初出:「すばる」1989年4月号