青木正児、鈴木虎雄、桂湖村

 前回の記事青木正児(1887-1964)に触れたが、その青木は、櫻井正一郎『京都学派 酔故伝』(京都大学学術出版会2017)pp.346-73でも紹介されている。
 櫻井氏は青木を「狷介な隠者」(p.373)と評し、鈴木虎雄(1878-1963)−青木ラインが形づくる系譜を、京都学派の云わば“傍流”的なものと看做している。

 迷陽青木正兒は、師の豹軒鈴木虎雄とともに、作品を味わって楽しんだ。その態度は儒家のものだった中国文学研究を変え、また京都学派の学統に欠かせない葉脈を成した。世間の関心が、『世界史的立場と日本』と『近代の超克』が提起した、世界の大問題に向ったのは当然であった。にもかかわらず、鈴木の青木の学風という、いわば日蔭に咲いていた小さな花にも、小さな花としての値打ちがあった。その値打ちを語ることが、文学における京都学派を語るとき欠かせない。(pp.370-71)

 また青木の『華国風味』を「『名物学』の最初の著作」(p.354)と位置づけ*1、そこに収められた「陶然亭」「花甲寿菜単」を紹介しつつ*2青木の鑑賞主義的立場を強調し、次のようにも評する。

 鑑賞を重んずるのは青木だけの態度ではなく、文学研究における過去の京都学派文学系の態度であった。彼らが尊重した鑑賞とはどういうものか。それは受動的な態度ではなく、作品を豊穣にする能動的な態度である。この態度を身上としたのが青木の師、豹軒鈴木虎雄(一八七八−一九六三)だった。鈴木は学匠詩人で、『豹軒詩鈔一四巻附録一巻』、『豹軒退休集』などがあった。これは鈴木の学問が鑑賞を重んじていたのに通じていた。(p.367)

 櫻井著のキーワードの一つとなっているのが清朝考証学派の重んじた「實事求是」で、湖南内藤虎次郎と君山狩野直喜とをその濫觴における唱導者として挙げている。そして東洋学に端を発するこの思想が、国文学、考古学など学科の別を問わず、京都学派の各学統を貫く理念になった、と結論している。

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 ところで「實事求是」は、櫻井著には「じつじきゅうぜ」とルビが振られているが(p.5)、小川環樹吉川幸次郎博士を悼む」*3(『談往閑語』筑摩書房1987所収)には「実事求是(ぐぜ)」(p.92)、同「経学から文学への道程―私の見た吉川博士の学問―」*4(同前所収)にも「実是求是(ぐぜ)」(p.97)とあり、初期は呉音系で読まれていたらしいことがわかる。あるいは学統によって読みを異にしていたのであろうか。例えば『玉篇』の読みが国語学系「ごくへん」:中国文学系「ぎょくへん」、『古今韻會擧要』のそれが或は「ここんいんねこよう」(「いん」はいわゆる連声である)、他方は「ここんいんかいきょよう」である様に……。
 小川の『談往閑語』には、豹軒についての文章もいくつか収めてある。「鈴木虎雄先生のこと」*5、「豹軒先生の詩学および詩風の一端」*6、「『豹軒退休集』について」*7、「鈴木虎雄先生をしのぶ」*8の四篇がそれである。「鈴木虎雄先生のこと」から一寸引用しておこう。

先生がたんに漢詩人としてだけではなく、和歌の製作に熱情を傾けられた時期があったことをしるしておくのは、たぶんまったくむだなことではないであろう。たいへん恥ずかしいことであるが、実は私は長いあいだ先生の門下に業をうけたにかかわらず、先生の和歌の作品を目にする機会はきわめて少なかった。昨年あけび叢書の一冊として、『葯房(やくぼう)主人歌草』が出版され、私どもも始めてその全貌に接することができたのであった。(pp.46-47)

 豹軒が和歌の詠み手としてもすぐれた才覚を示したというのは、村山吉廣氏も言及するところであった。

 ちなみに豹軒鈴木虎雄にも漢詩集のほか、短歌の詠草があるが、豹軒は長善館では湖村に兄事して学んだのち、上京後は湖村に就いて和歌を習い、やがて根岸短歌会に入り、子規に愛され、湖村とともに日本新聞で和歌の選に当った一時期がある。
 湖村が『日本』に拠って漢詩の選評をしていたころの明治の漢詩壇は森春濤・槐南父子らの「清詩派」が圧倒的な勢力を持っていた。これに対し、湖村は副島蒼海・国分青突・石田東陵らと結んで別派の旗幟を立てて漢魏六朝の詩を高唱した。(村山吉廣『漢学者はいかに生きたか〈近代日本と漢学〉』大修館書店あじあブックス1999:138)

 文中の湖村は桂湖村(1868-1938)。今春、村山氏は『湖村詩存』(明徳出版社)を翻刻刊行しており、巻末に「桂湖村伝―桂湖村の生涯と学績―」(pp.79-140)を附している。そこには次の如くある。

 鈴木虎雄は先にも記したように、湖村が若くして新潟にいたころ籍を置いた長善館時代に、近くの小学校で教えた一人であり、成人して上京後は湖村と共に新聞「日本」にも入ったが、のち湖村に誘われて早稲田の教壇に立ったこともあった。後、京都大学教授として中国文学を講じ、漢詩人豹軒先生の名も高いが、最後まで湖村の愛弟子であり湖村への「悼詩」も残している。(p.122)

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 前回の記事でうっかり忘れていたが、「実在」の陶然亭もある(料亭ではないけれど)。これは芥川龍之介「北京日記抄」にも出る。

 陶然亭。古刹慈悲浄林の額なども仰ぎ見たれど、そんなものはどうでもよし。陶然亭は天井を竹にて組み、窓を緑紗にて張りたる上、蔀(しとみ)めきたる卍字の障子を上げたる趣、簡素にして愛すべし。名物の精進料理を食いおれば、鳥声頻に天上より来る。ボイにあれは何だと聞けば、――実はちょっと聞いて貰えば、郭公(ほととぎす)の声と答えたよし。(山田俊治編『芥川竜之介紀行文集』岩波文庫2017:269)

 注解に、

陶然亭 元代創建の仏教寺院「慈悲庵」(または「黒窑廠観音庵」)内に、清代に造られた亭。(p.368)

とある。

京都学派 酔故伝 (学術選書)

京都学派 酔故伝 (学術選書)

漢学者はいかに生きたか―近代日本と漢学 (あじあブックス)

漢学者はいかに生きたか―近代日本と漢学 (あじあブックス)

湖村詩存

湖村詩存

芥川竜之介紀行文集 (岩波文庫)

芥川竜之介紀行文集 (岩波文庫)

*1:なお後にも述べる小川環樹の見方によると、「博士(青木)の名物の学は、あるいは京都大学において師事した幸田露伴の教えに導かれたのかもしれぬ。宋詩などに見える「釣車」が英国人のリールとほぼ同一の品であることを最初に語ったのは露伴だった。その追憶はやはり『琴棋書画』に見えている」(「青木正児先生『江南春』解説)という。

*2:前回推測したとおり、やはり1949年刊の単行本版からこの二篇は附録としてついていたようだ。

*3:初出:「京都新聞」昭和五十五(1980)年四月九日付。

*4:初出:昭和五十五年七月「ちくま」。櫻井著にも引用されているが(p.20)、なぜか若干の字句の異同がある。

*5:初出:昭和三十二年八月「新潮」。

*6:初出:昭和二十九年十二月・翌年四月「雅友」第二十一・二十二号。のち昭和三十九年十二月吉田町教育委員会『豹軒鈴木虎雄先生』。ちなみに今関天彭著/揖斐高編『江戸詩人評伝集2―詩誌『雅友』抄』(平凡社東洋文庫2015)附載の「『雅友』総目次」を見ると、当該題は「鈴木豹軒先生の詩学および詩風の一端」となっている。

*7:初出:昭和三十一年七月「雅友」第二十九号。のち昭和三十九年十二月吉田町教育委員会『豹軒鈴木虎雄先生』。同前「『雅友』総目次」を見ると、これも「豹軒退間集について」と異なっている。「雅友」の誤植ないしは東洋文庫の誤記か。

*8:初出:「朝日新聞」昭和三十八年一月二十一日付。