飯間浩明氏の新著

 先日、飯間浩明『小説の言葉尻をとらえてみた』(光文社新書2017、以下『言葉尻』)を読んだ。特におもしろく読んだところを抜書きしてみる。
「愛想を振りまく」

 先回りして言っておくと、この表現(「愛想を振りまく」―引用者)は誤用ではありません。でも、誤りと主張する向きはあります。「振りまくのは『愛敬』であって、『愛想がいい』が本来の言い方なのだ」と。
 この「本来」というのはくせ者でしてね。調べてみると、たいした違いはないことが多いのです。「愛敬を振りまく」は一八八六年の饗庭篁村(あえばこうそん)「当世商人気質(あきゅうどかたぎ)」に例があり、「愛想を振りまく」は一九一一年の徳冨蘆花(とくとみろか)「謀叛(むほん)論(草稿)」に例があります。どちらも百年以上の歴史があり、もはや定着しています。
 「愛想を振りまく」は、ほかに、北原白秋(はくしゅう)・久生十蘭(ひさおじゅうらん)・山口瞳井上ひさし倉橋由美子らの例も拾いました。文学的表現としても、実例に富んでいます。
 ではなぜ「愛想を振りまく」が誤用とされたのか。一言で言えば、印象で断定されたんですね。かつて「愛想を振りまく」は、使用頻度が「愛敬を振りまく」より低かったのは事実です。それで、「そんな言い方はない」と拙速に考えられたのでしょう。(pp.33-34)

 これについては、例えば最近の神永曉『悩ましい国語辞典』(時事通信社2015)も、「雰囲気は振りまくことはできても、実際の動作は振りまくことができない」(p.11)という観点から「愛想を振りまく」を認めていない。一方で、『明鏡国語辞典【第二版】』(大修館書店)などは、「愛嬌(愛敬)」の項で「愛嬌を振りまく」「愛想を振りまく」両形を認めている。
 「愛想を振りまく」「愛敬を振りまく」が同一作品の中に混在する珍しい例を挙げておく。

ヒップ大石は、小倉汀や赤鈴雛子に愛想をふりまきながら宣伝カーの中に姿を消した。(「右腕山上空」泡坂妻夫『亜愛一郎の狼狽』創元推理文庫所収p.51)

ヒップはゴンドラの中でまわりの子供たちに愛敬をふりまいている。(同上p.62)

「足下をすくう」
 「『愛想』は振りまけない」、という言葉とがめに似たものとして、「『足下(あしもと)』はすくえない」、というのがある。これも『言葉尻』p.133-35に出て来る。

 実はこの表現(「足下をすくう」―引用者)、一部では少々評判が悪いのです。
 平成十九(二〇〇七)年度の文化庁国語に関する世論調査」で、「『足下(あしもと)をすくわれる』と言うか、『足をすくわれる』と言うか」が問われました。約七割の人が「足下をすくわれる」を選びました。べつに意外ではない結果です。
 ところが、調査を報告した文書には、「足をすくわれる」が「本来の言い方」と記されました。国語辞典にも「足下」は「本来は誤り」と記すものがあり、それを踏まえてのことだったのでしょう。マスコミはそれを受け、「『足下』は誤り」と報道しました。(略)
 でも、「足下をすくう」は、誤りと断定することはできない表現です。
 ことばの実際の歴史を見ると、「足をすくう」は一九一九年から例が確認されています。対して、「足下をすくう」は三十年ほど遅れ、一九五〇年代から例があります。川端康成(かわばたやすなり)「千羽鶴」(一九五二年)にも出てきます。
〈菊治は足もとをすくわれた驚きで、その驚きをかくすのにも不用意だった〉
 「足下」は、足の下の地面のことなので、すくえるはずがない、という意見があります。でも、「犬が足下にじゃれつく」という表現はよくあり、問題にもされません。この場合の「足下」は足の先の方のことで、この部分は、すくうことができるのです。(略)
 「足下をすくう」を使う作家は、ほかに瀬戸内寂聴(じゃくちょう)・司馬遼太郎(りょうたろう)・城山三郎田辺聖子筒井康隆らがいます。(pp.134-35)

 飯間浩明三省堂国語辞典のひみつ』(三省堂2014→新潮文庫2017)pp.45-47(文庫版だとpp.63-66)もこの問題に言及していて、そこでは「千羽鶴」が「1949〜51年」の作品(つまり雑誌媒体への連載期間)となっている。また、河野多恵子見坊豪紀の使用例も拾っている(それぞれ1962、1977年の用例である)。
 以下、わたしが拾った1950年代の「足下をすくう」の例。

チャーリー桜田笈田敏夫)「いいですよ。足もとからすくってやりますよ」
ボス・持永(安部徹)「そのうち足もとをすくわれねえようにしろよ」
井上梅次嵐を呼ぶ男』1957日活)

その足許を、見事にすくわれたようで、いまいましかった。(源氏鶏太『最高殊勲夫人』ちくま文庫2017:24←1958〜1959連載)

 やや新しい例(といっても二十年以上前)。

古畑任三郎田村正和)「本来なら証人発言を残しておくための裁判記録に足もとをすくわれましたね」(「警部補古畑任三郎2nd第1話『しゃべりすぎた男』」1996.1.10)

 先日放送された「相棒」season16の第1話(10月18日放送)には、浅利陽介の科白に「足をすくわれる」が出て来たけれど、あるいは、このような例が後世に至って、「この時代は『足をすくわれる』の方がよく使われていた」という「証左」になりはしないだろうか、とも思う。
 これはいわば言葉の「規範意識」が強く反映されたもの、と見なすべきではないか。
 『言葉尻』は、朝井リョウ桐島、部活やめるってよ』に、ただの一度も「ら抜き(ar抜き)言葉」が使われていないことについて、「物語の作者の意図が強く感じられる」「いわば文学的加工を施した」(p.27)と評しているが、このように「規範意識」が強く表れた部分(鑑)と、実態がそのまま表れた部分(鏡)とを、後世の観点から区別するのはむつかしい。だからこそ、ある特定の時期の一例や二例でことばの使用実態を判断してはいけない、ということにもなる。
「準備(は)万端だ」
 前述の「相棒」第1話には、確か反町隆史の科白だったかに、「準備万端です」「苦肉の策」も出て来た。後者は漢籍にみえる「苦肉計」などとは違う使われ方をしている、というもので、言葉とがめの本などでよく論われている。前者の「準備万端」は『言葉尻』にも出て来る。これは、「万端」には「あらゆる事柄」という義しかないはずなのに、「準備万端」単独で「準備万端整った」を意味する、ということであって、

 似た言い方の例は、他にもあります。たとえば、「しあわせ」ということば。もともとは「巡り合わせ」ということで、「仕合わせがよい」は「巡り合わせがよい。幸運だ」の意味でした。ところが、「ああ、仕合わせがよい」が省略されて「ああ、仕合わせ」となり、「しあわせ(幸せ)」だけで「幸運」を表すようになりました。
 あるいは、「天気」もそうですね。「天候」という意味で「今日は天気がいい」と言っていたのが省略され、「今日は天気だ」「お天気だ」などと言うようになりました。「天気」だけで「晴天」の意味を表しています。
 現在、「準備万端」は誤用だという批判もあります。でも、(略)これもまた省略の一種、つまり、「準備万端」だけで「準備万端整った」の意味を表すようになったと考えれば説明はつきます。(pp.231-32)

 「天気」をめぐる話で思い出すのが、(再掲だが)吉田戦車氏と川崎ぶら氏の共著『たのもしき日本語』(角川文庫2001)。

戦車●(略)「男前」にもいろいろあるからな。
ぶら■その男前だが、元々単語自体には「良い容貌」という意味はないようなのさ。男前が上がる、男前がいいね、などと遣うのが本来で、それで初めて褒めている意味になるものでな。言ってみれば「天気」のようなものさ。「いい天気」と言えば、普通は晴れのことだが、「お天気でよかったね」と言っても晴天を意味する。
戦車●「明日天気になあれ」と歌っても、初めから天気は天気だからな。(p.225)

 国広哲弥日本語誤用・慣用小辞典〈続〉』(講談社現代新書1995)も類例を挙げている。

 「実力」という語がある。「抜き打ちテストをやって学生の実力をためす」と言うときの「実力」は〈見かけではなく実際の力〉という意味であり、実力の程度はゼロから満点の範囲にまたがる。つまり中立的な意味の「実力」である。ところが、「彼は実力がある」と言うときは〈平均以上の、かなり高い実力〉を指している。「私は実力がないから駄目だ」というときも、実力がゼロだというのではなくて、〈高い実力がない〉と言っているのである。つまりプラス値の実力を指している。一般化して言うならば、ある種の語は「プラスマイナス値」と「プラス値」の両義を持っている。
 類例を続けよう。「あの人は人格者だ」と言うとき、〈普通以上に立派な人格を持っている〉ということであり、「あの人は人物です」というときも〈偉い人物〉ということである。(p.229)

 「結果を出す(=よい結果を出す)」「評価する(=たかく評価する)」もこの例に当たろうか。古いところでは「分限(者)(=金持ち)」などもそうだと言えるかも知れない。
 このように、ニュートラルな表現が「プラス値」を持つことになる理由について、国広氏は別の本で次の様に述べている。

 プラス方向に変っている理由を断定的に説明するのは難しいが、恐らく、プラス方向の方が「目立ち度が高い」(salientである)ということではないかと考えられる。(『理想の国語辞典』大修館書店1997:69)

 これとは逆の例――すなわち「プラス値」だったのが、ニュートラルな意味になったものとして、「相性(合性)」がある。
 神永曉『さらに悩ましい国語辞典』(時事通信社2017)には次の如くある。

 なお、『大辞泉』(小学館)には補説として、「『相性が合う(合わない)』とは言わない」という説明がある。これは、「相性」にはお互いの性格が合う意味もあり(かつては「合性」という表記もあった)、「相性が合う(合わない)」では重言(同じ意味の語を重ねた言い方)になってしまうからである。やはり「相性」は「相性がいい(悪い)」と言うべきであろう。

 「相性」が本来「お互いの性格が合う」という意味であったとすれば、もともとは単独で「プラス値」だったということで、そうすると、「相性が悪い」という言い方はありにくい、ということになりはしないか。以下、「相性」が「プラス値」の義で使われた例――。

「二人はアイショウかどうか(易者に)見てもらったりしたのです」
(松林宗惠『青い山脈 新子の巻』1957東宝

「二人がアイショウであるかどうかを見てもらった」
(松林宗惠『続青い山脈 雪子の巻』1957東宝

 『言葉尻』に戻ると、マイクテストで「メーデーメーデー」と言うの(p.42)は初耳であったが、わたしと同世代の人(特に男性)ならば、あるいは、東映メタルヒーロー特警ウインスペクター」のOP曲、「Mayday, Mayday, S.O.S」という歌詞を思い出されるかもしれない。救難信号の一種だということは、そこで「学んだ」のである。
「いさめる」
 これを書いていて、ふと思い出したこと。「いさめる」について、飯間氏は「ことばをめぐる」の「子を『いさめる』」(1998.8.15)で、辞書にはおおむね「目上の人に対して忠告する意味で使われる」と説明されるが、と前置きした上で、親が息子を「いさめる」という用例が鎌倉期の『平家物語』『徒然草』に見える、と述べているが、江戸期(十八世紀)に至っても同様の例がみえる。

母なる人の、「いざ寝よや。鐘はとく鳴りたり。(略)好みたる事には、みづからは思したらぬぞ」と諫められて、…(上田秋成「二世の縁」)

(親が子を―引用者)「此の頃は文明、享禄の乱につきて、ゆきかひぢをきられ、たよりあししと云ふ」など、一度は諫めつれど、…(上田秋成「目ひとつの神」)

 「目上の人に対して」と説明されるようになったのは、一体いつの頃からなのだろうか。

小説の言葉尻をとらえてみた (光文社新書)

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