ちくま文庫の「ベスト・エッセイ」

 ちくま文庫が、昨年12月から4カ月連続で「ベスト・エッセイ」と冠したエッセイ選集を刊行している。大庭萱朗編『田中小実昌ベスト・エッセイ』(12月刊)、大庭萱朗編『色川武大阿佐田哲也ベスト・エッセイ』(1月刊)、荻原魚雷編『吉行淳之介ベスト・エッセイ』(2月刊)、小玉武編『山口瞳ベスト・エッセイ』(3月刊)の4冊である。
 かつてちくま文庫は、「田中小実昌エッセイ・コレクション」(全6冊)、「色川武大阿佐田哲也エッセイズ」(全3冊)、「吉行淳之介エッセイ・コレクション」(全4冊)などといったシリーズを出していたが、軒並み版元品切となってしまったので*1、今回それらの“よりぬき本”(むろんそれらに収められていなかったのも含まれるが)といった趣のある一冊本を改めて刊行してくれたのはまことにありがたい。
 まことにありがたいといえば、結城昌治*2や、獅子文六の相次ぐちくま文庫入りなども特筆すべきことなのだろうが、それについて書くのはまたの機会にしたい(ここに『可否道』=『コーヒーと恋愛』が再文庫化された話を書いたが、まさかその後オリジナル選集を含めて文六作品が11冊も文庫化されることになる〈3月現在〉とは思ってもみなかった。文六ファンとしては嬉しいかぎりである)。
 さて上記の「ベスト・エッセイ」、偶然なのかどうかは分からないけれど、『色川武大阿佐田哲也』以外の3冊が3冊とも、色川武大阿佐田哲也)の登場するエッセイを収めているのがおもしろい。以下、その一部を紹介してみる。

 色川武大とは『まえだ』でもあったし、『あり』や甲州街道のむこうのもとの旭町の、ドヤ街の裏壁と裏壁のあいだの裂け目の奥の、ドヤの住人でもいかない、ひどい飲屋の『姫』でもあった。ここは夜の女やオカマなどがあつまる店で、ぼくはモノが言えないサチという若い女となかがよかった。こんなところでも色川武大はにこにこおだやかな態度だった。『姫』も『姫』をとりかこんだドヤの建物もとっくになくなった。色川武大も死んじまった。(「路地に潜む陽気な人びと」『田中小実昌ベスト・エッセイ』所収p.42)

 元号が改って、その二月十八日に色川武大の予告なしの訪問を受けた。スケジュール表のその日に、「色川来ル」とメモがある。二十年ほど前から、私は訪問することもされることもあまり好まなくなり、彼が訪れてくるのも初めてだった。
 色川武大は大きな紙袋を提げていて、大国主神(おおくにぬしのみこと)のようだった。その袋から、三鞭丸のアンプルやロイヤルゼリーやそのほか漢方系の元気の出る薬を一山、テーブルの上に積み上げた。そして、これから結城(昌治)さんの家に行く、と言った。袋の中身は半分残っていて、それを届けるのだという。
 こういうことは偶然に過ぎない筈だが、いまにしておもうと、袋を提げて歩き出した色川武大は、ちょっと立止った。そして、「ま、これでいいか」と呟いて、巨体を揺らして立去ったような気になってくる。
 それが、色川武大を見た最後である。(「色川武大追悼」『吉行淳之介ベスト・エッセイ』所収pp.318-19)

 向田邦子の爆死のとき、小さな酒場で色川武大に会った。彼は血走った目で私に「こんなにツキまくってるときにオンボロ飛行機に乗る莫迦がいるかよ」と、憤るように言った。人生九勝六敗説もしくは八勝七敗説を唱える彼は、幸と不幸は綯交ぜになっていると信じていた。彼は昭和六十三年、生涯の最高傑作である『狂人日記』(読売文学賞)を書き終り、翌年、まだ寒さの厳しい東北の一都市に移住しようとして急死する。『狂人日記』を書いて、もうこれでいいやと思ったかどうか私は知らない。色川武大も昭和四年十月の生まれであって私より三歳若い。私の定義から少しずれるが、二人とも怖しい位に早熟であったので、心情は戦中派であったに違いないと思っている。(「ある戦中派」『山口瞳ベスト・エッセイ』所収pp.65-66)

 ちなみに色川のエッセイ選集には、「九勝六敗を狙え――の章」が収めてあって、そこに、「名前を出してわるいんだけれども、向田邦子さん、仕事に油(ママ)が乗りきって書く物皆大当たり、人気絶頂、全勝街道を突っ走る勢いだった。それで、飛行機事故。/向田さんはばくち打ちじゃないんだから、悲運の事故ということだ。/けれども、もしばくち打ちが飛行機事故にあったら、不運ではなくて、やっぱり、エラーなんだな」(p.49)、とある。
 共通して登場するのは色川だけではない。例えば山口が「十返肇さんが、亡くなる二年前ごろ、一ト月に一冊は古典文学を読むことにしていると語ったことがある。そういう思いも、よく理解できた」(「活字中毒者の一日」『山口瞳ベスト・エッセイ』p.237)と言及する十返肇については、吉行が「実感的十返肇論」(『吉行淳之介ベスト・エッセイ』pp.324-41)で論じているし*3、山口が「これも友人の一人である村島健一さんが「作家との一時間」という企画で、藤原審爾さんにインタビューを試みたときに、藤原さんが、好きな人間として「バカ人間」というのをあげておられた。「ダメ人間」であったかもしれない。/その後、藤原さんにお目にかかったときに、あれは小説の題になりますねと申しあげた記憶がある」(「元祖『マジメ人間』大いに怒る」『山口瞳ベスト・エッセイ』p.53)と記した藤原審爾に関しては、色川が「藤原審爾さん」(『色川武大阿佐田哲也ベスト・エッセイ』pp.280-88)という追悼文をものしているし、また田中が、「川上宗薫も、なにしろ、国電の吊革にぶらさがって、となりにきたガキみたいな女のコを口説くという見さかいのない実戦派だから、こんなのといっしょにいたら、失神遺恨のある男性に、いつ、どんなインネンをふっかけられ、そのとばっちりをうけるかわからない」(『田中小実昌ベスト・エッセイ』「優雅な仲間たち」p.33)とおもしろおかしく評する川上宗薫については、色川が「川上宗薫さん」(『色川武大阿佐田哲也ベスト・エッセイ』pp.297-306)という追悼的回想文を書いている。
――と、このように互いに同じ人物の出てくる記述がみられるのは、この著者たちが同年代で交流もあったから当然といえば当然なのかもしれないが、編者が挙って人物回想記や交遊録を択んで採っているというのは興味深いことである。
 酒や食味、趣味や遊びに関するエッセイ、ときには「怒り」や「毒」を含んだ批評的な随筆も、もちろんそれぞれにおもしろいのだが、この世代のエッセイは人物に関するものこそが最もおもしろい、と云ったら、それは言い過ぎになるだろうか。
 なお吉行は、「(昭和)四十九年から色川武大の名で短篇連作「怪しい来客簿」を『話の特集』に載せはじめた。これは、私の最も好きな作品である」(「色川武大追悼」『吉行淳之介ベスト・エッセイ』p.317)と書いており、山口もまた「僕は『怪しい来客簿』を読んだとき、オーバーに言えば驚倒し昭和文学史に残る名作だと思った。家へ来る誰彼なしに吹聴し、本欄では「即刻書店へ行って買い給え」といったうわずった原稿を書いてしまった。ずっと後になって色川さんはそれを何度も何度も読みかえしたと語ってくれた。『怪しい来客簿』は生の根元に迫るものである。全体に一種異様な悲しみと戦慄に満ちている。これが直木賞に落選したとき僕は本気になって腹を立てた」(「色川武大さん」『山口瞳ベスト・エッセイ』p.356)、と書いている。
 この『怪しい来客簿』、わたしも初読で衝撃を受けたくちで、角川文庫版と文春文庫版とをもっているのだが、上の記述に触発されて、また読み返そうと、今まさに再び手に取ったところである。

怪しい来客簿 (文春文庫)

怪しい来客簿 (文春文庫)

*1:わたしは、コミさんの全6冊のうち第1〜5巻だけ、何年も前に在庫僅少フェアでなんとか入手することができたのだけれど、その他は気がつけばいつの間にか品切になっていた。

*2:昨秋、日下三蔵編の短篇傑作選が出て、この4月には『夜の終る時』が他の短篇と抱き合わせでちくま文庫に入るという。『夜の終る時』は結城の“悪徳刑事もの”の一作だが、わたしは『終着駅』などと並ぶ名作だと思っている。かつて岸谷五朗主演で映像化されたことがあるが(それ以前には永島敏行主演でドラマ化されたこともあるらしいが)、うっかり録画しそびれて、以来、残念ながら見ることを得ていない。

*3:p.85には、「(父親のエイスケが)近所に下宿していた十返肇たちと麻雀ばかりやっていた」(「断片的に」)ともある。