大泉滉・大泉黒石

 濱田研吾*1『脇役本』が、ちくま文庫に入った。元版の右文書院版はかつて読んだことがあり、「中村伸郎の随筆集」で触れたこともあるが、増補がなされているというので手に取ってみた。
 増補部分であらたに加えられた役者の顔ぶれがまた豪華だ。高田稔、賀原夏子細川俊夫多々良純、伊豆肇、月形龍之介杉狂児天知茂等々19人、なかには主役級の役者も含まれる。たとえ単行本を持っていたとしても、文庫版を購う価値は大いにある*2
 個人的には、そこに大泉滉(あきら)を加えてくれた(pp.413-18)のが嬉しい。文中で取り上げられた大泉の著作、『ポコチン男爵おんな探検記』『ぼく野菜人―自分で種まき、育て、食べようよ!』の二冊は知らなかったが。
 濱田氏も「(大泉が)三人目の妻といっしょに出て、恐妻家で胃腸が悪そうなイメージをお茶の間に広めた和漢の生薬「奥田胃腸薬」」(p.413)云々、と書いているように、濱田氏や少し下の我々の世代にとって、リアルタイムで見た大泉は、バラエティー番組「わてら陽気なオバタリアン」等で妻道子さんの尻に敷かれる“恐妻家”としての姿である(ちなみに私自身はけっして恐妻家というわけではないのだが、恐妻家という存在自体に興味があり、「『恐妻家』」「ふたたび恐妻家」「阿部真之助の本」などでそれに言及したことがある)。実際には、テレビでの恐妻家の姿は「演出」で、道子さんとの夫婦仲はたいへんよかったようだ。大泉の告別式だったかで、道子さんの憔悴しきった姿を見て涙を誘われた記憶もある。
 その後、モノクロの邦画をよく観るようになって、『自由学校』『お早よう』等、優男でハンサムなのに絶妙な三枚目を演ずる大泉のことがさらに気になり始めた。そして2013年、確かMXで、「プロレスの星 アステカイザー」(円谷プロ)という特撮ヒーローものが再放送されていて、たまたま第五話あたりから最終回まで通して見た*3のだが、これに大泉が「坂田」という新聞記者役でレギュラー出演しており、眼が釘付けになってしまった(坪内祐三氏が「本の雑誌」の当時の読書日記で、この番組の最終回のサタン・デモン=山本昌平の「最期」について書いていた)。
 つい最近も、『昭和の謎99―2018初夏の特別号』(ミリオン出版)という雑誌の巻頭カラーに片山由美子氏のインタヴュー記事が載っていて、その発言中に、

「(「プレイガール」の―引用者)ゲストは毎回ユニークな方ばかり。コメディアンの由利徹さん(故人)は、宿泊先の温泉で男風呂と女風呂の敷居の板の底の部分の隙間から潜水して、女風呂に侵入してきましたし、大泉滉さん(故人)なんて女湯の上の部屋から逆さまにぶらさがって覗いていた、っていう伝説もあるんです。両足を誰かに持ってもらってたんでしょうけど、覗く方も命がけ(笑)」(p.7)

とあり、もちろんこれはいけないことなのだけれど、逆さまにぶらさがる大泉を想像して、つい笑ってしまった。
 ことしで歿後20年になるそうだが(4月23日が命日とのことである)、大泉はこうして思わぬところに時々顔を出すので、私にとっては、やはり気になるバイプレーヤーの一人だ。

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 しかし、大泉滉の父親が作家の大泉黒石(1893-1957)だと知ったのは、つい最近、2013年夏のことであった。黒石の生誕120年を紀念して刊行された『黄(ウォン)夫人の手―黒石怪奇物語集』(河出文庫)、そのカバー袖に「俳優の滉は三男」とあり、驚いたのだ。なお文庫版の帯には「生誕120年、ついにあの黒石、初文庫!」とあったが、黒石によるロシア文学の概説書『ロシア文学史』(原題:『露西亜文学史』)が、30年近く前(1989年)、講談社学術文庫に入っている。
 文庫の『黄夫人の手』が出るまで、わたしは黒石の文学作品を読んだことがなかったけれど、存在は知っていた。それは、由良君美が黒石全集の解題を書いているという事実によってだったかもしれないし、「怪奇物語」作家の系譜を辿ることによってだったかもしれないが、それでも、ロシア人と日本人とを両親にもつ特異な作家、というぐらいの認識しかなかった。
 黒石は、「中央公論」の編集者だった木佐木勝大正8年入社)が残した日記の前半部にしばしば顔を出している。最近、この日記が上下二巻本で復刊された。それを見てみると、黒石が文壇の新星として期待されながらも、編集者や文学者の信頼を失ってやがて消えてゆく過程がかなり詳細に描かれている。
 木佐木勝『木佐木日記 上―『中央公論』と吉野・谷崎・芥川の時代』(中央公論新社2016)から、以下、主な記述を引いておくことにする。

 今日午後から田中貢太郎氏と大泉黒石氏現わる。大泉氏はロシア人を父とし、日本人を母とした混血児で、その数奇な運命を「俺の自叙伝」としてこんどの特別号に書いている。この人の原稿は田中氏の紹介で(滝田)樗陰氏が読んだのだそうだが、樗陰氏は例に依って最大級の言葉で「面白い面白い」とほめ上げていた。自分も校正で、読んで面白いとは思ったが、少し面白すぎるとも思っていた。(略)「俺の自叙伝」も変っているが、この人自身が変っているという印象だ。自叙伝を読み、実物を見て正体がつかめないところがあると思った。黒石は十二ヵ国語に通じているという田中氏の話もにわかに信用できないと思った。しかし樗陰氏は今日大泉氏が持って来た次の原稿の話にすぐ飛びつき、来月号に続編を書いて持ってくるように勧めた。(大正八年八月二十日、pp.38-39)

 今日の『朝日新聞』に大泉黒石の記事が写真入りで出ていた。二、三日前に『中央公論』が出たばかりなのに、早くもキヨスキー・大泉がクローズアップされて、彼の経歴談が彼自身の口で語られている。自分の故郷はトルストイの住んでいたヤスヤナポリヤナに近いので、トルストイはよく知っているなどとも言っていた。「俺の自叙伝」に出ていたフランス時代の話や、これからの仕事に対する抱負らしいことも、謙遜しながら語っていた。新聞に出るのが早いのにも感心したが、黒石氏もどうやら「俺の自叙伝」で一躍、世に出たという感じだ。(大正八年九月十日、p.55)

 今朝、編集室で皆と雑談していた時、樗陰氏が久米(正雄)君から聞いた話だが、大泉黒石の「俺の自叙伝」にはでたらめなところがあるそうだと、その個所を指摘していた。それは黒石ことキヨスキー少年が、フランスの中学校にいたとき、悪戯をして校長室に呼ばれ、校長に青竹で尻をたたかれていたら、窓からアルフォンス・ドオデエがのぞいていてニヤニヤ笑って見ていたというところだが、実は黒石ことキヨスキー少年がフランスに居た時期は、ドオデエはすでにこの世にいなかったということだ。
 樗陰氏は久米君に指摘されるまですこしも気がつかなかったと言い、どうも話がうますぎると思ったと笑っていた。(略)高野氏*4もそばから、そういえば、トルストイに田舎路で会って、石を投げつけたらトルストイが怒って、猿のように真赤になって石を投げ返した話なども、少し怪しいものですネというと、樗陰氏は、今まで「俺の自叙伝」を激賞していた手前、少し興醒めた顔をしていたが、「しかしあれは面白いことはたしかに面白いよ、黒石は一種の奇才だネ」とこんどは逆にほめていた。(大正八年九月十一日、pp.56-57)

 そのとき、こんどの特別号に大泉黒石の小説が入るという話をしたら久米氏はちょっと妙な顔をした。大泉黒石の「俺の自叙伝」の中のでたらめを指摘したのは久米氏だったが、樗陰氏はこの読物作家の奇才を買ってか、その後引き続いて黒石の自叙伝物を書かせ、どういうわけか創作欄にも小説を載せるようになった。久米氏などの意見はどうかと興味を持って尋ねてみたが、久米氏は別に問題にしていないらしく黙っていた。自分などこの場ちがいの作者が一枚、こんどの特別号に加わるために、何か白米の中に砂が交じっているような気がしている。どうもこの作者はニセモノだと思っているが、どこが樗陰氏の気に入っているのか自分には分からない。久米氏に限らず、どの作家でも大泉黒石のことになると触れたがらないから妙だ。(大正九年三月十五日、p.178)

 近ごろ大泉黒石氏の評判が社の内外でひどく悪いようだ。いつだか田中貢太郎氏が来たとき、「黒石はひどいうそつきだ」と怒っていたが、話を聞くと諸方へ行って、田中氏のことについて根も葉もないでたらめな噂を撒き散らして歩いているのだそうだ。今日村松梢風氏が来たときも、「黒石はうそつきの天才ですよ」と言っていたが、村松氏も被害者の一人らしかった。村松氏は「黒石が何んのためにありもしないでたらめな噂を撒き散らして歩くのか、その気持が全くわからない」と不思議がっていた。樗陰氏もいつか黒石氏を相撲に招待したところ、そのあとで、国技館で樗陰氏が両国〔梶之助〕に声援していたら、両国ぎらいの隣りの客とけんかになり、帰りにその仲間のために袋だたきにあったなどと、黒石氏が方々へ行ってしゃべって歩いていたのが樗陰氏の耳に入ったので、樗陰氏は呆れていたようだった。村松氏の話を聞いて、樗陰氏は「僕が袋だたきにあったなどとしゃべって歩くのは、どういうつもりなのか全く見当もつかない。近ごろは黒石が恐ろしくなった」と言っていた。
 黒石氏も『中央公論』に「俺の自叙伝」を発表して以来すっかり読み物の人気作家になり、その後『中央公論』や『改造』に創作も発表して作家の仲間入りをし、ほうぼうの雑誌で引っ張り凧の人気者になったのに、どういうわけか今年になってから余り社にも寄りつかなくなっていた。近ごろになって、黒石氏の知り合い関係から黒石氏についての悪い噂が流れるようになった。初めは黒石氏が先輩を抜いて一躍文壇の人気ものになったので、その人たちのそねみから黒石氏のことをとやかく取り沙汰するのではないかと思ったこともあったが、だんだん話を聞けばそうばかりではないように思われた。樗陰氏まで被害者にされて怒っているところをみると、評判どおり黒石という人物の正体がわからなくなってきた。(略)村松氏の話だと、「ある人が黒石のところへロシヤ人を連れて行って話をさせたところ、黒石は全然ロシヤ語がわからなかった」と言っていた*5。「それにしても近ごろどうして黒石が寄りつかなくなったのだろう」と樗陰氏は不思議がっていた。村松氏も最近会っていないということだが、たぶん余りでたらめを言いふらしたあとなので、来にくくなったのだろうということになった。(大正十一年五月二十五日、pp.349-50)

 読物作家から『中央公論』や『改造』の創作欄に起用されて新作を発表していた大泉黒石氏も今では人気が落ちてしまった。(大正十二年三月三十一日、p.383)

 近ごろ自分は大泉黒石という人は、精神の国籍のないロシア人だと思うようになったが、佐々木指月氏は精神の国籍はやはり日本だと思うようになった。(大正十二年四月四日、p.389)

 さて『黄夫人の手』の巻末には、由良君美の「大泉黒石掌伝」と「解説 無為の饒舌―大泉黒石素描」とが附されている。
 由良は「無為の饒舌」で、上で引用した『木佐木日記』の一部を紹介し、

 大正十二年三月三十一日には、(木佐木が) 「読物作家から『中央公論』や『改造』の創作欄に起用されて新作を発表していた大泉黒石氏も今では人気が落ちてしまった」と書き、これを最後に『木佐木日記』から黒石にかんする記述が姿を消すのは歴史的に重要なことである。木佐木は黒石をあくまで中間物作者の枠に入れて、ウサン臭く眺めることに終始し、二重国籍者の悲哀はおろか、小説家黒石の意義も、黒石のニヒリズムも、全く分っていなかった人である。(pp.271-72)

と木佐木を酷評している。ただし正確には*6、上でみたように、「大正十二年四月四日」の條が黒石に触れた最後である。そこで木佐木が、黒石を「精神の国籍のないロシア人」と評した真意は分からないものの、これが好意的な記述とは思われない。
 一方、由良が「小説家黒石の意義」「黒石のニヒリズム」と述べるのは、具体的には以下のようなことをさす。

その(黒石作品の)〈無為〉の哲学には意外に野太い支柱が通っており、その〈饒舌〉のレトリックには意外に錯綜した陰翳の襞がたたみこまれており、滑稽の鎧の影に、スケールの大きな痛みをかかえていたことを、マヤカシ屋として大泉黒石を文壇から一挙に抹殺した連中は、まったく理解していなかったのである。彼の生涯に支払われた高価な代償は、ようやく現時点をまって、その重みを露わにしはじめたということができよう。おそらく大泉黒石の哲学とレトリックは、〈無為〉と〈饒舌〉をつなぐ線上で、大杉栄辻潤坂口安吾石川淳たちを微妙に包摂し、的確に予言さすものをもっていた。戯作者の連綿たる伝統が、現代のニヒリズムと結んで甦えるところに昭和無頼派の成立根拠があるとすれば、その道を予感する海燕の唄を大泉黒石は、たしかな旋律で歌い、またそのゆえに、〈束の間の騎士〉*7にいよいよ徹する世俗的自己抹殺の後半生をひきうけざるをえなかったのである。(「無為の饒舌」p.267)

 「無為の饒舌」は初出が「ユリイカ」(1970年10月号)で、のち『風狂 虎の巻』(青土社1983)にも収録された。
 由良の著作は、近年ちくま文庫平凡社ライブラリーで復刊されており、その流れに乗ったか、『風狂 虎の巻』も新装版として復刊されている(青土社、2016年)。
 この『風狂 虎の巻』は、黒石についての文章として、「無為の饒舌」のほか「『黒石怪奇物語集』のあとに」「大泉黒石『人間廃業』」の計三つを収めているが、「『黒石怪奇物語集』のあとに」の記述は、「無為の饒舌」のそれとかなり重なっている。そこでは由良は、上引の文章とはやや異なる形で黒石を次のごとく評している。

 作家黒石の本領は――読み物作家ではなく――むしろ「デラシネの痛み」をニヒリズムを根幹にして戯作調諷刺へと昇華したところに認められなければなるまい。したがって彼の命脈は江戸期戯作の伝統を、同時代の大杉栄辻潤と雁行しながら、ロシア・中国の素養を生かして継承し、昭和における坂口安吾石川淳たちに媒介する長大な流れのなかで摑まれるべきであり、大泉黒石はこの意味で、昭和無頼派への貴重な中継所なのである。(「『黒石怪奇物語集』のあとに」『風狂 虎の巻』所収p.195)

 なお「無為の饒舌」には、次のようにもある。

 第二次大戦の暗黒時代は、黒石にとって、生涯のうちでも最も暗澹たる一時期であったに相違ない。どのような暮しをしていたのか、詳かでないが、ここでも、どん底のなかでの思想的節操はうかがわれる。昭和十八年七月十日の奥付で、大新社から、大泉清著『草の味』が発行された。ここには戦時下の食糧難に悩む日本人にたいして、親切を極めた食用雑草の献立法とその詳しい解説がなされており、あわせて、草食主義にことよせて、往年の老子思想がこっそりと顔をのぞかせている。文人黒石がこのような書物を書くことを、おそらく恥じてであろうか、黒石は本名の「清」をこの本にだけ冠した。(『黄夫人の手』pp.276-77)

 これは、黒石の息・大泉滉が著した『ぼく野菜人―自分で種まき、育て、食べようよ!』へとつながってゆく思想だともいえるであろう。
 濱田研吾氏は次のように述べている。

 大泉滉がものごころついたころ、父の黒石は売れっ子の作家ではなかった。まずしい生活を強いられ、野草を食し、自給自足のまねごとをやり、みずから野菜人となる。野菜づくりは趣味の延長ではなく、この珍優の人生哲学、生きる術であった。(『脇役本』ちくま文庫p.416)

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 おそらく昭和ヒトケタ台の頃のことだと思うが、林芙美子は随筆「柿の実」で次のように記している(当時の黒石の暮らしぶりの一斑をうかがわしめる文章なので、引いておく)。

 隣家(となり)には子供が七人もあった。(略)
 この家族が越して来て間もなく、洽子ちゃんと云う十二になるお姉ちゃんと、ポオちゃん(四番目の男児―引用者)が手紙を持って、夜が更けてから遊びに来た。手紙には大泉黒石と書いてあった。まあ、そうですか、お父さまもよかったらいらっしゃいなと云うと、男の子はすぐ檜の垣根をくぐってお父さんをむかえに行った。(略)
 私は大泉黒石と云うひとにまるで知識がないので、どんなお話をしたものかと考えていると、ポオちゃんの連れて来た大泉さんは、まるで自分の家へあがるみたいにかんらかんらと笑って座敷へあがって来て、私の母の隣へ坐ったものだから、母は吃驚したような眼をしていた。手拭いを腰にぶらさげて、息子さんのつんつるてんの飛白(かすり)を着ているせいか、容子をかまわないひとだけに山男のように見えた。(略)
 今年は最早その家族もサギノミヤとかへ越してしまった。
林芙美子「柿の実」、庄野雄治編『コーヒーと随筆』ミルブックス2017所収pp.120-25)

*1:「濱」は正確には異体字だが、環境依存字のためこの形で示す。

*2:濱田氏は、文庫版追記で「脇役本全体から見るとわずかな増補に過ぎず」(p.7)と書かれており、かなり控えめだが、ページ数でいうと110ページ超(!)にのぼる。

*3:第何話かは忘れたが、「向ヶ丘遊園」がロケ地になっていたこともある。成瀬巳喜男『おかあさん』でロケ地に選ばれたもこの向ヶ丘遊園である。http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20060316参照。

*4:名は不明。木佐木の大学(早稲田大)の先輩にあたる人らしい。

*5:ただし、大泉黒石ロシア文学史』(講談社学術文庫1989)の「解説」で校訂者の川端香男里氏は、「たとえばイワン雷帝とクルプスキー公の往復書簡をとり上げているが、エピソード的に面白いものをこのように選び出したというのは、黒石が出来合いのロシア文学史に頼らず、アンソロジー類で原典を実際に読んでそれを基にしていたからであろうと考えられる」(p.439)と書いており、少なくとも黒石はロシア語を原典で「読む」ことができたようである。

*6:ついでながら、由良は黒石の歿年を「一九五六(昭和三十一)年」としているが(「大泉黒石掌伝」p.265)、これは「一九五七(昭和三十二)年」の誤のようである。

*7:ゴーリキー『チェルカーシュ』に登場する浮浪人たちを踏まえる。「海燕の唄」も、ゴーリキーの『海燕の歌』を踏まえている。