早川孝太郎の『花祭』『猪・鹿・狸』

 早川孝太郎(1889-1956)、という民俗学者がいた。
 わたしはその名を、たしか岡茂雄の『本屋風情』で初めて知り、深く記憶に刻みつけたはずである。なにしろ同書の書名の由来に関わってくる人物なのだから。
 少し長くなるが、そのくだりを「まえがき」から引いておこう。

 本書の表題を『本屋風情』としたが、私はけっして卑下して用いたのではない。これには次のような動機があったのである。
 柳田国男先生がある事情からじれて関連者たちがほとほと困ったことがある。その事情や困った話のかずかずは、いずれ筆を改めて書こうと思っている。事は昭和三、四年の頃であったと思う。渋沢敬三さんも困った揚句、「柳田さんを呼んでいっしょに飯を食おうではないか」と提案され、私も賛成したが、「その時は君も主人側としてくるんだよ」といわれたので、「それは困る。荒れ(私たちは柳田先生のじれて当たり散らされるのを、荒れといっていた)の相手の一人である私は、はずしたほうがよい」といったのだが、「それはいかんよ、そんなことをいえばぼくだってその一人ではないか、それなら早川(孝太郎)君にも――これだってその一人といえないことはないんだが、主人側としてきてもらうから我慢して出たまえ、そのほうが却って、こだわりが薄れると思うからだよ」といわれ、不承不承加わることにした。「客としても柳田さん一人では、やはり具合が悪かろうから、石黒(忠篤)にもきてもらおう」ということになった。
 これらの人の間柄が、どのようなものであったかを、簡単に記しておこう。
(略)
 早川孝太郎氏についてはあまり広く知られていないようであるが、川端龍子門下の画人であり、後には柳田先生の末弟松岡映丘画伯のひきいる「新興大和絵会」の客員でもあったが、一面早くから柳田先生の学問に馴染んで師事することになっていた。氏は民俗採訪の優れた才能をそなえていたところから、渋沢さんの絶えざる支援を得て、時には石黒さんと連れ立ったりして、全国を採集して回り、あるいはまた石黒さんの推挙で、九大の小出満二博士のもとで、農村民俗調査等の仕事をしたりしたが、晩年は、これもまた石黒さんの世話で、鰐淵学園で教鞭をとってもいた。『花祭』の大著をはじめ、『猪 鹿 狸』『大蔵永常』、そして柳田先生との共著『女性と民間伝承』等の著作がある。
 さてこの催しは、数日後に実現し、渋沢邸(今の第一公邸)にひげてんを出張させ、座敷てんぷらで会食をした。表面はとにかく歓談という格好で、二、三時間を過ごした。終わって、主賓の柳田先生は渋沢家の車で送られ、石黒さんと早川氏と私は、当時の市電で帰途についた。三人とももちろんこの催しの意味は承知の上であったので、電車の中で、まずまず平穏無事でめでたしめでたしだったと語り合った。ところが、その二、三日後早川氏がきて、「きのう砧村(柳田邸所在)へ行ったが、だいぶ御不興だったよ」という。「ぼくがいたからでしょう」というと、早川氏は「そうなんだ。なぜ本屋風情を同席させたというんですよ」といい、私も「そんなことだろうと思っていたんだ」といって、二人で笑ったことであった。
 本屋風情とは、いかにも柳田先生持ち前の姿勢そのままの表現であり、いうまでもなく蔑辞として口走られたのではあるが、私にとってはまことに相応わしいものと思い、爾来――出版業を離れて久しいが、この「本屋風情」の四字に愛着をさえもつようになっていたのである。(「まえがき」『本屋風情』中公文庫1983、pp.10-13)

 ちなみに、上記で早川が「川端龍子門下の画人」だったことになっているのはどうも誤りらしい。須藤功『早川孝太郎―民間に存在するすべての精神的所産』(ミネルヴァ書房2016)には、次の如くある。

 早川は兵役を終えると上野の美術学校近くの家に書生として入り、絵画の勉強を続けた。洋画から日本画に転じ、大正二年(一九一二)に川端玉章が主宰する川端画学校に入学したようである。川端龍子の門下になったという説もあるが、龍子は昭和二年(一九二七)に青龍社を結成するまで弟子を取っていないとされる。(pp.66-67)

 昨秋、早川の著作のうち二冊――『花祭』『猪・鹿・狸』が、角川ソフィア文庫に入った。
 『花祭』はまず1930年、前・後篇計千七百ページ超の大部の書物として岡書院から限定三百部で刊行されたが、早川の歿後(1958年)に、その“抄縮版”が岩崎美術社の「民俗民藝双書」に入った(第12冊)。抄縮版は、原著の約五分の一の分量で、このほど出たソフィア文庫版はこれをもとにしている。『花祭』はかつて講談社学術文庫にも入ったことがあり、まだ現物を確かめていないが、こちらも抄縮版に基づくと思しい。
 「花祭」というのは奥三河の山里数箇所に伝わる霜月の祭りだが、早川の著作によって全国区のものになったとされる。
 ソフィア文庫版にも収録された澁澤敬三の「早川さんを偲ぶ」によると、

 昭和五年この出版慶祝として、小宅改築を機に最も因縁の深かった中在家の花祭を東京に招致し、柳田・折口(信夫)・石黒(忠篤)諸先輩を初め、多くの知友に見て頂き現地へ出難き方々にも真似事乍ら花祭を味って頂いたのであった。出席者の御一人泉鏡花老はその後小説に花祭の光景を扱われた。(pp.8-9)

といい、文人にも何らかの刺戟を与えたようだ。その招待客のなかには、金田一京助新村出小林古径らもいたという(須藤功『早川孝太郎』p.30)。
 一方『猪・鹿・狸』は1926年、郷土研究社から「炉辺叢書」につづく“第二叢書”の一冊として刊行された。約三十年後、これに「雞の話其他」(1925年、「民族」第一巻第一号に発表された)を再構成した「鳥の話」の章が附録として加えられ、角川文庫に入った(1955年)。その後講談社学術文庫に入ったようだが、筆者は未見である。今回のソフィア文庫版は、奥付をみると角川文庫版の「改版」という扱いになっており、角川文庫版の鈴木棠三「解説」のほか、新たに常光徹氏の「解説―新装にあたって」を附している。
 ついでに述べておくと、『猪・鹿・狸』の「凡例、その他」には、

 本の標題であるが、これがこの本に続いて「鷹、猿、山犬」および「鳥の話」を刊行し、二部作あるいは三部作としたい気持ちもあって撰んだものであった。実は書名について、当時健在であられた芥川龍之介さんから、自分は近く「梅、馬、鶯」という本を出す予定であるので、あなたの本を見て、その偶然に驚いたという意味を申し送られたものであった。(pp.9-10)

とあり、この件は鈴木の「解説」も触れている。

 『猪・鹿・狸』は、当時炉辺叢書というシリーズを出版しておられた故岡村千秋さんの郷土研究社の第二叢書ということで刊行された。折から『梅・馬・鶯』という、名詞三つを並べた題名の随筆集を公にしようとしていた芥川龍之介氏が、先を越された偶合に驚き賞讃した早川さん宛の書簡は、全集にも入っている。都会人の郷愁とのみ言い切れぬものと思う。
 このついでに言うと、(早川の―引用者)『三州横山話』が出た時、島崎藤村氏が書を寄せて、自分もかねがね郷土の民話を書いてみたいと思っていた、と賞揚されたことがあったという。(pp.239-40)

 実は、芥川もかつて『三州横山話』を随筆で取りあげたことがある。

 なお次手に広告すれば、早川氏の「三州横山話」は柳田国男氏の「遠野物語」以来、最も興味のある伝説集であろう。(略)但し僕は早川氏も知らず、勿論広告も頼まれた訳ではない。(「家」『澄江堂雑記』、石割透編『芥川竜之介随筆集』岩波文庫2014所収:195)

 また鈴木は、さきに引いた「解説」で続けて次のように書いている。

 中国の文人周作人氏が、日本の書物の中で最も愛読した本として、この『猪・鹿・狸』を挙げて、非常に叮嚀な紹介をされたことは、最高の知己の言であったとせねばならぬであろう。このような具眼者によって、渝(かわ)らぬ支持が、本書の初刊以来ほとんど三十年にわたってなされてきたことは、それだけの高い評価に値するものが本書に具わっていたことの証左というべきである。(pp.240-41)

 周作人が『猪・鹿・狸』を愛読書の一つとして挙げたことは、前述の須藤功『早川孝太郎』も触れており(p.6)、須藤氏によれば、後年早川は周作人に北京で面会したといい*1、またその際、中国人学生向けに「日本民俗学の現状」と題する講義も行ったという(p.234)。
 周の『猪・鹿・狸』評が日本で知られるようになったのは、松枝茂夫訳の『周作人文藝随筆抄』*2によってであろうが、当該の文章は最近、新訳で中島長文訳注『周作人読書雑記2』(平凡社東洋文庫2018)に収められた(pp.37-42)。周はそこで、「最初出た時に一冊買い、後で北平の店頭で一冊見たのでそれも買った。もともと友人にやるつもりだったのだが、今もって送っていない。それもケチなためではなく、人にこんな好みがなかったらと恐れたからだ」(p.37)と述べ、「全部で五十九篇、その中で猪と狸に関するものが最も面白く、鹿の部分はやや劣る」(p.38)と評している。さらに、その文章の末尾では『三州横山話』も引いている。

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 さて『花祭』は、ソフィア文庫版の帯に「柳田国男折口信夫も衝撃を受けた日本民俗学不朽の名著」とあるように、民俗学や人類学の方面ではよく知られた書物であり、現在に至るまでしばしば参照されている。
 例えば山口昌男は、日本の祭りのなかで「狂気」が定型化された例として、「故早川孝太郎氏によって精細に記述されて、あまりにもよく知られている三河花祭り」を挙げたうえで、早川の『花祭』から「せいと」についての文章を引用している。
 「せいと」は「せいと衆」ともいい、「大部分がいわゆるよそもので、祭りにもなんら交渉のないただの見物」客で、かつ「なんの節制も統一もない群衆」のことだが、「舞子に対してはもちろん、その他神座の客や楽の座に対して、あるかぎりの悪態をあびせる」(『花祭』角川ソフィア文庫、pp.391-92)*3。「どんな悪態、悪口」とは言い條、そこには「一定の型」が認められたようで、これを山口は「祭りそのものの構文法」と見なし、「定型を媒介として、狂躁が成立している」ことに着目すべきだと説いた(「文化と狂気」、今福龍太編『山口昌男コレクション』ちくま学芸文庫2013所収、pp.123-25*4)。
 また、戦中の早川や柳田の動向ひいては「日本民俗学」を断罪する論者、例えば村井紀氏でさえ、“早川の方法論を評価する従来のやり方ではなく、その著作が日本の植民地主義の作物だった側面に注目すべきだ”――という考えのもと、「『花祭』も、“黒島調査”も、その「俗」なる部分を見なければならない」(「日本民俗学と農村―早川孝太郎について」『新版南島イデオロギーの発生―柳田国男植民地主義岩波文庫2004所収p.256*5)と述べ、やはり『花祭』を例に挙げている。
 早川の様々の貌に触れ得るという意味で、今回のソフィア文庫での復刊が、『花祭』だけにとどまらず、『猪・鹿・狸』との併せての刊行であったことを、まずは寿ぎたい。

本屋風情 (中公文庫 M 212)

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花祭 (角川ソフィア文庫)

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芥川竜之介随筆集 (岩波文庫)

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周作人読書雑記2 (東洋文庫)

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山口昌男コレクション (ちくま学芸文庫)

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南島イデオロギーの発生―柳田国男と植民地主義 (岩波現代文庫)

南島イデオロギーの発生―柳田国男と植民地主義 (岩波現代文庫)

*1:この当時、周作人は北京大学の教授となっていた。1942年2月11日、周らによって早川の招待会が開かれたという。その後、同年3月14日に早川が帰国の途につくまで何度か会っていたかも知れない。

*2:須藤著巻末の「早川孝太郎年譜」によると、1940年6月5日刊。

*3:須藤著によると、「花祭の別名は「悪態祭」で、舞をまう祭場の舞戸ではどんな悪態、悪口も自由に言ってよかった」。そして、これを見物した澁澤敬三にも遠慮会釈なく悪口が浴びせられた。「着ている外套(オーバー)を指して、「その外套どこで盗んできたか」などと言った。渋澤はそんな悪態をニコニコしながら聞いて、「花」を楽しんだ。早川のことを、「また座敷乞食が来ている」と言ったという」(p.11)。

*4:初出は「中央公論」1969年1月号、のち『人類学的思考』せりか書房1971に収む。

*5:初出は「日本文学」1993年3月。