ヒッチコックの『泥棒成金』

 ヒッチコック作品は、高校*1、大学生の時分にある程度まとめて観て、その後――山田宏一和田誠両氏による対談本『ヒッチコックに進路を取れ』が刊行された2009年(一昨年に文庫化された)、同書に触発されて、『見知らぬ乗客』を皮切りに、それまで観たことがなかった作品も含めて集中的に観ており、以降もBSやCSでヒッチコック映画や「ヒッチコック劇場*2が放送されるたびに観てきた。
 どちらかというと洋画よりも邦画を好むわたしにとって、また、洋画になると必ずしも「作家主義*3を標榜し(たく)なくなるわたしにとって、ヒッチコックチャップリンウディ・アレンフランク・キャプラビリー・ワイルダーバスター・キートンウィリアム・ワイラー、そしてルネ・クレールジャック・ドゥミフランソワ・オゾンあたりは、その監督作品だというだけで、ついつい観てしまうのである。
 最近はこちらで映画のことを書かずにいたが(映画音楽についてはここ野村芳太郎八つ墓村』について書き、作品自体についてはここ伊藤大輔『弁天小僧』を観たときの感興を記して以来、ということになる)、なんとか時間を捻出して、たとえ細切れでもできるだけ観るようにはしており、この3月は12本、4月には11本観ている*4
 5月は多忙につき(?)なかなか観られなかったが、ようやく1本目を観ることがかなった。
 それが、アルフレッド・ヒッチコック泥棒成金』(1955米、"To Catch a Thief")なのである。もうずいぶん前に一度観たはずだが、細部はすっかり忘れていたので、初めての鑑賞といっていい。
 この作品が歴史的に重要なのは、ヒッチコックの長篇作品としてはこれ以前に『裏窓』(ジェームズ・スチュアート主演)、『ダイヤルMを廻せ!』(ロバート・カミングス主演)の2本に出演したヒロイン、グレース・ケリーの「最後の出演作」になったからで、ヒッチコックはそれ以降、自分の作品に同じような(ブロンドの)ヒロイン像を求めて試行錯誤を繰り返すことになる。
 このことに関しては、山田宏一氏が『映画術 ヒッチコックトリュフォー』を翻訳するにあたって、疑問点をフランソワ・トリュフォーに書翰で、ないしは直接会って問い質しており、その当時のインタヴューでも言及されている。トリュフォーの言を引く。

 ヒッチコックの最大の不幸は、言うまでもなく、彼の永遠のヒロインともいうべきグレース・ケリーを失ったことでしたが、彼女がモナコのレーニエ三世と結婚して引退したことをヒッチコックは惜しみつつも恨んではいませんでした。南仏で『泥棒成金』を撮影中にヒッチコックグレース・ケリーとともにレーニエ三世に食事やパーティーに招かれ、それがきっかけで彼のヒロインとモナコ大公との恋がはじまったことをヒッチコックはよく知っていたし、レーニエ三世とも仲がよかったからです。(略)しかし、グレース・ケリーの引退にはただ愛惜の念を示していただけでした。それだけに、じつは絶望も深かったのでしょう。『泥棒成金』以後のヒッチコック映画のヒロインを演じた女優たちは、ティッピ・ヘドレンもキム・ノヴァクエヴァ・マリー・セイントもヴェラ・マイルズも、すべてグレース・ケリーの代用品だったと言ってもいいくらいです。『めまい』はグレース・ケリーのために企画された映画でしたが、彼女がいなくなったために、もうひとりのグレース・ケリーをつくりだそうとするヒッチコック自身の悲痛な物語とみなすこともできます。(山田宏一ヒッチコック映画読本』平凡社2016:68)

 さて映画は、クレジットタイトルが終ってその冒頭、高齢の女性のクロース・アップで幕をあける。朝に目が覚めて、自分の宝石が何者かに盗まれたことを知った彼女は、顔を歪めて悲鳴をあげるのだが、これは後年の『サイコ』のジャネット・リーの絶叫シークェンスの先取りとも見える。
 プロットとしては、ヒッチコックお得意の「巻き込まれ型サスペンス」で、海外を舞台にしているところは『知りすぎていた男』(英国時代の『暗殺者の家』のリメイク)や後年の『引き裂かれたカーテン』などと同工、『泥棒成金』のニースの花市場での追いつ追われつの緊迫感は、『知りすぎていた男』のマラケシュの市場でのシーンを想起させる。
 また、『バルカン超特急』や『裏窓』、『ダイヤルMを廻せ!』、『サイコ』などでみられた男女一組のいわゆる“素人探偵”の筋書きはここでは姿を消しており、主人公たるケーリー・グラントは有名な元「宝石泥棒」*5にして「対独抵抗運動(レジスタンス)」の闘士、という設定で、あろうことかグレース・ケリーからも疑いの目を向けられることとなり、彼はその疑いを晴らすために孤独な戦いを強いられる*6。しかし最後の最後には、自分の誤解を認めたグレース・ケリーも彼の側について、大団円を迎えることになる。
 この作品では、ケーリー・グラントが警察の任意聴取からのがれるために屋根の上へと逃げるところが、最初のサスペンスフルな展開となるのだが、「屋根の上」のシーククェンスは、ラスト間際のクライマックスで今度は“大捕物”の場面として反復される。そこでふとおもい出したのが、伊藤大輔『弁天小僧』(1958大映の凄絶なラストであり、またブライアン・デ・パルマアンタッチャブル』(1987米、"The Untouchables")ケビン・コスナーとビリー・ドラゴとが「対決」するシーン*7だったのだが、そういえばデ・パルマには、殺しのドレス』(1980米、"Dressed to Kill")というヒッチコック作品のオマージュ(山田宏一氏などは「イミテーション?」とも評する)があるのだった*8! それはともかく、警察をまいたケーリー・グラントは悠々乗合自動車に乗り込んでひと息吐くが、そこで向かって右の席に何食わぬ顔をして坐っているのがヒッチコック本人、なのだった。監督本人の「カメオ出演」のシーンをさがすのも、ヒッチコック映画の愉しみのひとつだ。
 それにしても、この作品のグレース・ケリーの「亭主狩り(マン・ハント)」ぶり(山田宏一)はものすごい。
 これについては、山田宏一『映画的なあまりに映画的な 美女と犯罪』(ハヤカワ文庫1989)の劈頭を飾る「グレース・ケリーヒッチコック映画の女たち」(pp.9-21)が詳述している。
 これはまだ、グレース・ケリーケーリー・グラントを疑い始めるよりも前の場面に関する記述なのだが――(つまり、以下のやり取りで彼女は「本気で疑っている」わけではない)、

 『泥棒成金』のグレース・ケリーも、男(ケーリー・グラント)をホテルの寝室のベッドには誘わないが(彼女は、ただ、寝室の入口で、その晩はじめて会った男に燃えるようなくちづけをするのだが)、翌日、早速、車には誘う。もちろん、運転するのは彼女だ。なにしろ彼女は「タクシーのなかで生まれた」というぐらいだから、車のなかは揺籃同然、我が家同然といったところ。男を車のなかに誘いこんだら、もうお手のものである。『泥棒成金』の原題《To Catch a Thief》そのままに、彼女はねらった男(ケーリー・グラントはかつては〈ネコ〉と呼ばれた名高い宝石泥棒である)をつかまえたのだ。(略)
 グレース・ケリーケーリー・グラントをドライブに誘い、モンテカルロの町と海が一望に見渡せる場所に車をとめる。(略)
 グレース・ケリーケーリー・グラントに「胸がほしい? それとも、脚?」などときくので、ケーリー・グラントがギョッとすると、それはピクニックのために用意してきた昼食のフライドチキンのことだったというようなおふざけがあって、グレース・ケリーはなおも逃げ腰のケーリー・グラントに迫る。かつて〈ネコ〉の異名で世間を騒がせたこの素敵な中年の紳士泥棒をもうすぐ罠にかけられるという思いにワクワクしているのがわかる。
「〈ネコ〉におてんばの子ネコができたのよ」
「冗談はよせ」(とケーリー・グラントはぐっとグレース・ケリーの腕をつかむ)
「あたしの手首に指紋がついてよ」
「ぼくは〈ネコ〉じゃない」
「あなたって握る力が強いのね。泥棒はそうでなくっちゃ」
「このために来たんだろう?」(とケーリー・グラントグレース・ケリーをひきよせてキスをする)
「今夜、八時にカクテル、八時半にお食事――あたしの部屋でね」
「行けない。カジノへ行って花火を見物するんだ」
「あたしの部屋からのほうがよく見えるわ」
「約束があるんだ」
「来てくれなきゃ、あなたの行った先に“〈ネコ〉のジョン・ロビーさまァ”って呼びだしをかけるから。では、八時にね、遅れてはだめよ」
「時計がない」
「盗みなさい」
 ふたりはそのまま抱きあうのだが、じつに見事な、そして魅惑的なヒッチコック的美女の〈亭主狩り(マン・ハント)〉の一と幕であった。デイヴィッド・ドッジの原作にはこんなすばらしくばかげたシーンがあるかどうかは知らないけれども、このしゃれたせりふを書いたのは、『裏窓』から『泥棒成金』をへて『ハリーの災難』『知りすぎていた男』に至るヒッチコック映画の最もウィットに富んだ台詞を書いている(そもそもはラジオ作家だという)ジョン・マイケル・ヘイズである。グレース・ケリーは「盗みなさい」と言うところで、まるで「あたしをつかまえなさい」といわんばかりのいたずらっぽい目つきをする。(pp.13-19)*9

 「ピクニックのチキン」のくだりについては、これ以前にも山田宏一氏が、『シネ・ブラボー 小さな映画誌』(ケイブンシャ文庫1984)というチャーミングな本(カバー、本文イラストともども和田誠氏が担当している)のなかで言及している*10

 『泥棒成金』のピクニックのシーンで、グレース・ケリーが「胸? 腿? どっちがほしい?」と言うので、ケイリー・グラントが一瞬ドキンとすると、それはバスケットからとりだした昼食用のチキンだったというようなせりふのユーモラスな、しかしエロチックなニュアンス。(「ヒッチコックのフェイク」p.201)

 なおつけ加えておくと、グレース・ケリーがハンドルを握るシーンでは、車は切り立った崖がちらちら視界に入る山道を猛スピードで走り抜けるのだが――後年のグレース・ケリーの最期に思いを致すとき、複雑な気持ちになるけれど――、そしてこれは映画冒頭ちかくに見られる、南仏の海や街を背景にして行われる幾分のんびりした印象の空撮でのカーチェイスよりもはるかに迫力があるのだが(時々主観ショットが挟まれるので当然なのだろうが)、隣に坐るケーリー・グラントが、恐怖心から膝がガクガクするのをどうしても抑えられず、思わず手で押さえてしまうというショットが2、3度挿入されている。
 少なくとも美女の前では余裕をみせていたさしものケーリー・グラントも、このときばかりは目も泳いでいて全く余裕がなく、完全にグレース・ケリー支配下にあり、おもわず笑わされてしまうのだが、笑ってばかりもいられないのは、それが、グレース・ケリーというかフランセス・スティーヴンス(役名)による、一世一代の真剣な「亭主狩り」の一環であるからなのだろう。
 さきに引いたインタヴューで、トリュフォーケーリー・グラントについて次のように語っている。

 なぜヒッチコックが『北北西に進路を取れ』の主人公の役にゲーリー・クーパーではなくケーリー・グラントを起用したのか。その交替の理由は、たぶん、これはわたしの想像にしかすぎませんが、あえてその理由をさぐれば、当時ゲーリー・クーパーは病気がちで、すっかり老けこんでいたからだと思います。おそらくすでにガンに冒されていたのかもしれません。ケーリー・グラントは、ゲーリー・クーパーとほとんど同年齢だったけれども、ずっと若々しく、老いのイメージがまったくなかったので、ヒッチコックは彼を起用したにちがいないのです。(略)ヒッチコックの映画はすべてラヴ・ストーリーなので、『北北西に進路を取れ』のときもヒッチコックはそれにふさわしい若さのあるスターを考えたのだと思います。ケーリー・グラントは年齢的にはジェームズ・スチュアートよりも若くはなかったけれども、ヒッチコックの『泥棒成金』(一九五五)でカムバックして身も心も若返っていた。その後、ケーリー・グラントが第二の青春ともいうべき二枚目スターとしての新しいキャリアをつづけていくことはごぞんじのとおりです。(山田宏一ヒッチコック映画読本』平凡社2016:66-67)

 確かにケーリー・グラントは、例えば(6歳年長だった)アイリーン・ダンと共演したレオ・マッケリー『新婚道中記』(1937米、"The Awful Truth")*11と比較して見るとき、当時からさほど変わっているようには見えず、それどころか、ますます脂が乗りきっているという印象を受ける。
 山田宏一氏も、彼について次のように記している。

 (ケーリー・グラントは)老いることを知らない「永遠の青年」ともいわれた。ゲーリー・クーパークラーク・ゲーブルとわずか三歳違いにもかかわらず、まるで一世代も若々しい感じで、しかも年齢とともに男らしい色気というか、セクシーな風格と品位を増したスターであった。一九五五年に五十一歳で出演した『泥棒成金』と五九年に五十五歳で出演した『北北西に進路を取れ』という二本のスリルとサスペンスにみちたロマンティックなヒッチコック映画では、「ただ突っ立っているだけ」でなく、スタントまがいのダイナミックなアクションを披露し、そのはつらつとした若さで美しいヒロインのグレース・ケリーエヴァ・マリー・セイントを魅了した。(略)
 いつまでも子供っぽい、やんちゃなムードを失わなかったケーリー・グラントの、あの愛すべき笑顔に魅せられて、『シャレード』のオードリー・ヘップバーンが言うように、「欠点のないことが欠点」というところがケーリー・グラントの魅惑の美徳だったのかもしれない。(山田宏一「ミスター・ソフィスティケーション」『何が映画を走らせるのか?』草思社2005:330-32)

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何が映画を走らせるのか?

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*1:初めに観たのが、(中学時代の友人O君が怖くて直視できなかったという)ダフネ・デュ・モーリア原作の『鳥』だったことをおもい出す。その映像感覚、ストーリーテリングぶりに驚倒し、続けて『知りすぎていた男』を観たのだったか。

*2:冒頭にヒッチコック本人が現れて人を喰った「解説」を行う(「世にも奇妙な物語」のタモリはこれを意識したものなのだろうか?)のが、その風丰と相俟っておかしい。グノーの「マリオネットの葬送行進曲」でお馴染みだ。この音楽は、のちに日本のCMなどでも使われた。

*3:作家主義については、山田宏一『何が映画を走らせるのか?』(草思社2005)の「『作家主義』の功罪」(pp.46-57)がたいへん参考になる。

*4:あえて月ごとにベストワンを挙げるとすれば、3月はルチオ・フルチ『真昼の用心棒』(1966伊)、4月は川島雄三『風船』(1956日活)になろうか。後者は再鑑賞。

*5:劇中では、「十五年間盗みははたらいていない」と言っている。

*6:もっとも、ジョン・ウィリアムズジェシー・ロイス・ランディスという全篇を通じての理解者がいることはいるのだが、ケーリー・グラントは彼/彼女と一緒に冒険を繰り広げるわけではない。ちなみに、後者のジェシー・ロイス・ランディスについて、山田宏一氏は「ヒッチコック映画の母親」と称し、「ざっくばらんで、剽軽で、ひと目でケイリー・グラントの母親になる。(略)『泥棒成金』でも『北北西に進路を取れ』でも、彼女はあざやかに(というか、ケロリとして)警察の目をごまかしたりしてケイリー・グアントの危機を救う」(「ヒッチコック・フェスティバル」『シネ・ブラボー 小さな映画誌』ケイブンシャ文庫1984:214-26)と述べている。この記述は、山田宏一ヒッチコック映画読本』(平凡社2016)p.240にそのまま利用されている。

*7:この場面で流れるエンニオ・モリコーネの"on the rooftops"は、ひところ「警察24時」といった類の番組のBGMで頻用されていた。

*8:これを「下品」と評する向きもあるが、わたしはこの作品を、探偵役(のひとり)を演じたナンシー・アレンとともに「偏愛」している。またナンシー・アレンというと、『ミッドナイト・スキャンダル』(1993)での猛烈な演技が忘れられない。

*9:この引用の一部は、山田宏一ヒッチコック読本』(平凡社2016)pp.99-100にも使われている。

*10:のちに山田宏一ヒッチコック映画読本』(平凡社2016)でも言及されている(p.275)。

*11:『新婚道中記』は、ギャグはさすがに古めかしいが、スミスという名の犬の使い方や、壊れた扉などの小道具の使い方が非常に巧い。ケーリー・グラントは以降もアイリーン・ダンと2作品で共演することになる。