中島敦の名篇「文字禍」を一字だけ変えた、円城塔『文字渦』(新潮社)が出た。表題作は第43回川端康成文学賞を受賞しており、この作品集はそれ以外に、「緑字」「闘字」「梅枝」「新字」「微字」「種字」「誤字」「天書」「金字」「幻字」「かな」の十一篇を収める。それら計十二篇すべてがことごとく文字に関するものであるから、出版元は「文字小説」といい、作者自身は「文字ファンタジー」と表現する(2018.8.1付「朝日新聞 夕刊」)。文字好きとしては見逃せないではないか。
最後まで読み通してみて、この作品集に一貫するのは、「文字で『世界』を記述できるか」という問いかけに対する回答であり、そのひとつの試みだろうと思った。またそれは、日本語の複雑な表記体系を最大限に活用したいわゆる実験小説でもあり、やや大仰にいえば、「文字言語」復権の試みでもあるように感じた。
「言語」というものは、音声が文字に先立つわけだから、我々はふだん「文字は音(おん)を表すもの」と思っている*1。しかしこの本を読んでいると、その前提さえ疑わしく思えてくる。現に『文字渦』は、常用漢字表外の漢字を多数用いていながら、単に「音」を表示するものとしてのルビは極力抑えており、「どう読むか」を読者に委ねる、というか、むしろ音声を完全に無視しているところが多々ある。
以前わたしは横山悠太『吾輩ハ猫ニナル』(講談社2014)を読み、その自在なルビの使い方を新鮮に感じて、バイリンガル、あるいはトリリンガルとしてのルビの可能性ということに思いを致したことがあるが*2、円城氏の「誤字」「金字」におけるルビ(これらをルビと捉えるとすればの話だが)、特にその前者は*3、HAL9000よろしく制御不能となったルビがルビそれ自体について自己言及的に語り始め、遂には本文を侵蝕してゆくというおそるべき作品である。気の利いた表現ではないけれど、「ルビの叛逆」「ルビの叛乱」とでもいうべきか。
ところで、ルビに関して述べたものといえば、印象に残っているものとして柳瀬尚紀『日本語は天才である』(新潮文庫2009←新潮社2007)の「第五章 かん字のよこにはひらがなを!」(pp.133-56)があり、個別的には、幸田露伴のエセー『論語』を材にとった長田弘「露伴のルビのこと」(『本に語らせよ』幻戯書房2015所収←『自分の時間へ』講談社1996)があるし、小杉天外『紫系図』の独特な(戯作由来のもありそうだが)ルビについて語った出久根達郎「小杉天外の見どころ」(『本と暮らせば』草思社文庫2018←草思社2014*4)などがある。さらに高島俊男「わたしのフリカナ論」(『寝言も本のはなし』大和書房1999)は、主として実用的なルビの振り方や自身の好悪を述べた文章だが、本居宣長『玉勝間』から「すべてもじといふは、文字の字の音にて、御国言にはあらざれども」云々*5という文章を引き、当該文の「文字」にフリカナをつけるのは不可能である、と言っているのが面白い。「ここの『文字』は、『この文字という支那字』ということで、字をさしている」からだ(p.212)。さきに述べたように、『文字渦』にも、「どう読むか」を読者に委ねたところ、つまり予めルビを拒絶しているところがあるし、「微字」「天書」*6などは、漢字の「形」に遊戯性を見出した作品であるから、そもそも「読み」自体を問題としていないのだ。
そしてルビといえば、先日も触れた由良君美「《ルビ》の美学」(『言語文化のフロンティア』講談社学術文庫1986)がある。由良は、「(ルビは)原理なら簡単だが、運用は無限に複雑」であり、「ルビの修辞的究明こそ、恐らく日本語の秘密に深くかかわる」はずだ(pp.107-08)という。そして、「ルビの面白さは、漢文脈と和文脈*7との間に平行して作りだされる緊張関係にあるから、音訓の当て方の妙をめぐる即妙さと意表を衝く意外なズレとの最大限の開発が中心になってくる」(p.111)とも述べる。さらに、「日本語のシンタクス自体が〈ルビ的〉に出来てしまっている事情を変更することはできない」「日本文の理解に際しては、ルビの付けられていない場合にも、なお眼にみえないルビを頭のなかでふり付けながら読解されねばならない」(p.120)とも記している。由良がもし存命で、「誤字」を目にすることがあったなら、きっと面白がっただろうなと思う。
「誤字」にはまた、CJK(V)統合漢字の問題点に言及しつつ、いわゆる「漢字の正しさ」を相対化するくだり*8もある。
原則的には、楷書は可読性を、草書は毛筆での書きやすさを優先する。可読性のためには書きやすさが損なわれても構わないし、書きやすさのためには可読性が落ちてもよい。楷書と草書では書き順が異なることも珍しくなく、止めやハネも同様である。記録を書き込むための文字と、記録を読みだすための文字はそれぞれ別のもののままでもよかったのだが、これが性急に統合された。(p.183)
筆順や筆画の長短の「正しさ」という問題に関して、かつてわたしは「『筆順のはなし』」や「「天」の字形/(承前)「必」の筆順」で書いたことがあるが、手書き字の衰退が、俗字や異体字を駆逐したばかりでなく、漢字に本来備わっていたはずの「いいかげんさ」を見失わせてしまったように思う。そのくせ、固有名では微妙な筆画の差異にすぎない「字形」差がやかましくいわれるようになった。かてて加えて、「書体」の違いによる「デザイン」差に対する誤解も生じたため、ますます錯綜してしまっている。
このあたりについては、小林龍生『ユニコード戦記―文字符号の国際標準化バトル』(電機大出版局2011)の「人名漢字のアポリア」(pp.206-19)などを参照されたい。そう云えば「誤字」は、「『骨』字のモノアイの向き」(p.184)に触れていて、これはCJK(V)統合漢字の話柄でしばしば例に挙がる、中国の字形が日台韓越のそれと異なる問題*9を指しているのだが、前掲小林著にもこの話が見える(pp.36-37,pp.39-40)。
そのほか、上下反転字・左右反転字がごろごろ出て来る「幻字」も面白い。『犬神家の一族』の「見立て殺人」にオマージュを捧げた(?)「大量殺字事件」が起こるこの作品(金田一を意識したらしい名前も登場する)には、「予」を上下反転させた字が現れる。「曉に死す」の「常識を打ち破るさかさ漢字」にもあるように、これは「幻」の異体字だ*10。異体字字典の記述も参照のこと。この字は確か、柳瀬尚紀氏が『フィネガンズ・ウェイク』の訳文中に用いていて、『辞書はジョイスフル』(新潮文庫1996)でそのことに触れていたと思う。
当該字に関して、「幻字」には「まずたいていの人は、逆立ちした『予』を思い浮かべるはずだと思う」(p.264)とあるが、それで思い出したのが次の話である。
□八月十七日(金)*11、竜龕手鑑(八巻)の朝鮮古版以上はさる事ながら、慶長活字版とうたはるゝ古版本も、伝本罕なるよし世の人はもてはやすめれど、折々に見いでたるを数ふれば、はや十二本にも及べり。図書寮(二本)・神宮文庫・帝国図書館(二本、一は白河文庫旧蔵、一は鵜飼徹定旧蔵)・東洋文庫・久原文庫・高木文庫・大谷大学・内藤湖南博士の諸蔵本*12の他、新たに安田文庫に入れる一本あり、さき頃、秋葉義之旧蔵本も下谷の書肆に見つ。この本、慶長版と言へど、実は元和頃の刊行と推定せらる。異体字殊に多きが中に、尋常の活字を倒植せるものあるは興あり。原装を伝ふる神宮文庫蔵本に拠るに、巻八の九十六葉表二段目「予」を倒に植字して傍に本文の注と同じ活字を以て印刷添附せる張紙を附し、「此非誤以逆字為正」と注意せり。古活字版には誤植多ければ、かく張紙するもことはり*13なり。
(川瀬一馬『讀書觀籍日録―日本書誌学大系21』青裳堂書店1982:41)
古人も「たいていの人」と殆ど変わらなかった、ということだ。
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十二篇のうちとりわけ面白く読んだものといえば、「新字」だろうか。実在の人物を、史実と虚構とを巧みに織り交ぜながら、奇想で結びつけてみせる。武則天のいわゆる「則天文字」の誕生秘話(!)ともなっている*14この作品は、さながら山田風太郎の明治もののようでもある。中島敦「文字禍」と関係が深いといえそうなのもこの短篇で、「アシュル・バニ・アパル大王の治世」下のニネヴェの図書館や「ナブ・アヘ・エリバ」のことが作中の会話に登場するし、ゲシュタルト崩壊に触れていることも両者で共通している。
タイトルの「新字」(しんじorにひな)は、『日本書紀』巻第二十九にみえる、境部石積(さかいべのいわつみ/いわづみ)の手になる「新字一部卌四巻」のこと。しかし同書はすでに散佚しており、内容が不明である。作中には新井白石『同文通考』が引いてあり、白石説が「新字」を「万葉仮名、変体仮名の出現以前に、漢字ならざる、しかし俗字とも異なる、日本語記述用の文字を定めた」もの(p.121)としたことを紹介しているが、次のような形で当該説を否定している。
石積が白石のいうとおり、新たな文字を日本語の表記のために定めたとして、問題となるのはやはり白石自身が指摘した、四十四巻という長さとなるのではないか。白石いうところの、八万を以て数えるべき文字たちが、日本語らしい日本語表記のために本当に必要だったのかとなるとよくわからないところが残り、千と数百年前の現在にいる境部としてもそんな無茶な体系を一から案出しようという気は今のところないのである。(p.122)
「新字」の内容をめぐる見解としては、他にも「梵字様説」「古語辞典説」等、さまざまな説があるが、当否は措くとしても、それらを検討して「訓釈制定説」「修史のための文字整理説」が「最も穏当なところ」、すなわち「わが国最初の漢和字典だったと言ってよい」と結論したのが、嵐義人「最古の漢和字典「新字」をめぐって」(『余蘊孤抄―碩学の日本史余話』アーツアンドクラフツ2018:166-72所収*15)であった。
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山本貴光『投壜通信』(本の雑誌社2018)に書下しとして、「『文字渦』歴史的注解付批判校訂版 「梅枝」篇断章より」(pp.299-314)が加えられた。そこで山本氏は、『文字渦』を「目下の円城塔作品のなかでも最高傑作である」(p.304)と評し、その面白さを、「読者にプログラムのデモンストレーションを見せているような状態」にしていること、つまり「そこに生じる出来事はもちろんのことながら、そこでは明記されない出来事をも感知・想像」させる(p.305)ことにあると見ている。(9.4記ス)
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- 作者:由良 君美
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- 作者:義人, 嵐
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*1:この前提はあくまで一般論である。実際には、文字は呼気や吸気の流れを強引に区分して示すものなので、「わたり音」などはあらかじめ捨象している。
*2:実例はここに挙げないので、作品に就いていただきたい。温又柔氏の作品などにも、同様のルビの多用がみられる。
*3:後者は経文解釈の補助手段としてのルビなので、特に「変な」ルビの使い方とはいえない。宛て読み風の注文のようなものである。
*5:一の巻「言をもじといふ事」。岩波文庫版だと上巻p.43。
*6:「天書」p.218の“インベーダーゲーム”は可笑しかった。
*7:由良は後に「和文脈」を「邦文脈」と言い換えているが(p.112,116など)、名づけ方としては、現代語も包含しうる「邦文脈」のほうが誤解を与えずにすむだろう。
*8:以下に引用した記述は、前掲夕刊に載った円城氏の発言とも重なる。すなわち;「学校教育でとめろ、はねろ、気にしなくていいと言ってきましたが、そもそも草書と行書では書き順から違う」。
*9:「闘字」p.77に、中国のこの字形が用いられている。
*10:「幻字」には、このサイトで紹介されている「チョウ」や「ホツ」も登場する。
*11:昭和九年(1934)。
*12:アルイハ「儲蔵本」ノ誤植カ。
*14:則天文字は「闘字」p.69に30字が掲げられている(その総数についても様々な説が有る)。