和田芳恵『一葉の日記』

 和田芳恵『一葉の日記』(福武文庫1986)を購ってから、すでに持っていた和田芳恵樋口一葉伝』(新潮文庫1960)*1と同内容であることを知り*2、ちょっとがっかりしたが、福武文庫版には野口碩氏による「補注」が附いていて、これによって原著の過誤が訂されており、やはり買っておいてよかったとも思った。

 たとえば、新潮文庫版に「樋口(則義一家―引用者)が住んでいた本郷六丁目五番地の突きあたりに法泉寺という寺があった」(p.27)とあるところ、福武文庫版の当該箇所は「…法真寺という寺があった」(p.28)となっているのだが、ここに注釈が附き、 

  原文は「法泉寺」。馬場孤蝶が「一葉全集の末に」の中で、「ゆく雲」のモデルに言及して「法泉寺」と書き、「樋口一葉君略伝」でも「九年家を本郷六丁目(大学前)法泉寺の南隣に移す」と記したため、和田氏も「法泉寺」としたが、講談社現代新書の『樋口一葉』で訂正された。一葉達は本郷六丁目五番地に住んだが、法真寺は六番地であった。浄土宗で松浦松月和尚が住職。講談社現代新書では、その息子(養子)を「たけくらべ」の信如のモデルと想定している。(p.345)

と野口氏が巻末の補注で記している。この他にも、たとえば「この頃(明治二十三年頃―引用者)、旧東京美術学校の構内の位置に、上野図書館があった」(福武文庫版p.75)の「上野図書館」に注釈が附いており、 

 正確には東京図書館といい、現・東京芸術大学美術学部の構内にあった。木造二階建ての閲覧室一棟と煉瓦造りの書庫二棟から成り、一回二銭の入場料を支払った。当時の蔵書は大部分現在の国立国会図書館に移管されている。婦人閲覧席は、一般閲覧席とは別に二階に設けられていた。(p.350)

 と説いていたりするし、あるいはまた、和田の誤解や臆断などもきちんと指摘してくれているので、しろうとにとっては有難いことである。

 常盤新平は、新潮文庫版によってこの『一葉の日記』に親しんだようで、1995年9月5日付朝日新聞夕刊の「心の書」というコーナーで、次のように書いている(そこでは書誌に《和田芳恵著(福武文庫)》とあるが、これは、当時新本で入手できたのが福武文庫版のみだったからだろう)。 

  『一葉の日記』の初版は昭和三十一年である。これが文庫になったとき、はじめて読んで感動した。昭和三十六年のことだから、三十四年前だ。樋口一葉の日記を読まずして、和田芳恵のこの一葉伝で「いつも庶民のなかにゐた」一葉の世界を知った。一葉に肉薄した和田芳恵の作品を愛読するようにもなった。

 『一葉の日記』を二年おきに、あるいは三年おきに読むのは、ほかに類をみない迫力にみちた伝記であるからだ。一葉の日記を通して和田さんは一葉が生きた日々を再現している。一葉と、彼女が生きた明治という時代がはっきりと見えてくる。この伝記に二十年の歳月をかけた、その重みがなんどでも読ませる。

 『一葉の日記』はたまたま書店の文庫の棚で目にはいって読んでみたのだった。これはじつに幸運なことだったと思う。きれいごとなど一つもないが、優しい伝記だ。ときどき和田芳恵の告白と吐息が聞えてきくるようで、そこがまた凄い。 

 ちなみに和田は、『一葉の日記』を書くのに約1年かけたらしい。『和田芳惠 自伝抄』(非売品1977)*3によると、次のようである。  

 土井一正(筑摩書房の当時の編集長―引用者)の言葉に感動して、私は、半年で終わるはずの『一葉全集』(塩田良平と共編、全七巻)を終えるまでに足掛け五年かかり、昭和三十一年の六月に完了した。私は、この五年間、山梨県の大菩薩の山麓に近い中萩原村を中心に、一葉の祖先のあとを調べていた。書きおろしで書けば、五千部は出版してくれるという約束であった。私は、この四百字七百枚ほどの原稿『一葉の日記』を書くのに、一年かかった。編集費が安いので、その少しの穴埋めだと土井編集長が言ったのに、内容がむずかしいので、二千部しか出せないという。私は、はげしい怒りがこみあげてきて、「そんなら、五百部でいい」と言い、編集長は「五百部では、ページあたりの組み賃がたかすぎて……」、「限定版なら、全国で五百部は、はけるというが……」

 これが五年間、いっしょに苦労をわかちあった二人の最後か、と私は思ったが、土井編集長も同じことを考えたにちがいない。三千部ということで、妥協したが、この『一葉の日記』で芸術院賞を受けた。(pp.49-50)

  なお『一葉の日記』には、戦中版、戦後版の二つの版があるらしい。 

  私は『樋口一葉』という単行本を、五冊だしていた。題名が、みな『樋口一葉』なので、最初に書いた一冊の増補改訂版と受けとられがちだが、それぞれ新しい研究や調査資料を使って、新しい観点から書きおろしたものである。この本のなかで、自分のあやまりを直したり、また、相手の論敵と一戦をまじえて、たがいに刺しちがえたこともあった。一葉の日記をもとに伝記ふうにまとめた仕事も、戦中、戦後の二度にわたって書きおろしたものだった。(『自伝抄』p.4)

 戦中版のほうは、福武文庫版のカバ袖に「1943年、本書の前身となった「樋口一葉の日記」を刊行」とあるその「樋口一葉の日記」を指す。こちらは「今日の問題社」から出ている。野口氏の補注には、 

  今日の問題社版『樋口一葉の日記』が書き下ろされた時は、これら(樋口家に蔵されていた「日記」の一部と、「厖大な詠草資料」のこと―引用者)の知識を欠く、新世社版全集の水準で「日記」が論じられたため、「十六歳から十九歳まで」はなく、「二十際の日記」から始められた。久保木家の周辺や松岡徳善等も当時は全く着手されていなかった。「身のふる衣まきのいち」の稿本を和田氏は見ていない(p.344)

 云々、とある。 

一葉の日記 (福武文庫)

一葉の日記 (福武文庫)

  
樋口一葉伝―一葉の日記 (1960年) (新潮文庫)

樋口一葉伝―一葉の日記 (1960年) (新潮文庫)

 

*1:手許にあるのは1972年刊の第十一刷。

*2:そう云えば後者には、扉の副題として、「一葉の日記」とあったのだ。

*3:讀賣新聞」昭和五十二(1977)年8月9~31日付掲載記事をまとめたもの。