『浮雲』、そして『放浪記』のこと

 2019年は成瀬巳喜男の歿後五十年に当る*1。そこで今年は、(これまでのところ)『歌行燈』(1943)、『めし』(1951)、『浮雲』(1955)、『放浪記』(1962)の四本を再鑑賞している。『歌行燈』『放浪記』は三度目、『めし』は四度目、『浮雲』は五度目の鑑賞だ。『めし』浮雲』はスクリーンで観たこともある。
 特に『浮雲』は、成瀬の命日である「七月二日」に観ることがかなったのだった。
 『浮雲』は、「日本映画史上に残る名作」などと言われたりして、映画番付には必ずといってよいほど登場する作品なので、邦画にさほど興味のない方でもご存じかもしれない。
 もちろん、これが名作であることを認めるにやぶさかではない積りだが、それでも、わたし個人としては――あくまで「極私的」な好悪という「超論理」の基準に則るものだが――、成瀬映画のベストテンに挙げるのは、やや躊躇われる(さらにいえば、同じ浮雲でも、アキ・カウリスマキの『浮き雲』の方が好きだ)。ことに、『鶴八鶴次郎』(1938)や『銀座化粧』(1951)、『稲妻』(1952)に『流れる』(1956)、そして『乱れる』(1964)など、成瀬のほかの名作品群にいったん触れてしまうと、『浮雲』はむしろ異端に属する作品なのでは?とさえ、思えてくるのである。
 とは云い條、『浮雲』は都合五度も観てしまっているわけだが(ここには三度目の鑑賞記録を記した)、こうして何度も観ていると、細かい点に気づいてしまうものである。
 例えば、高峰秀子森雅之との温泉での入浴シーンがある。この場面で高峰は左、森は右にいる。この配置は、作品の初めの方から大体そのようになっていて、高峰と森とが肩を並べて郊外を歩くシーン、千駄ヶ谷駅から二人で歩いて来るシーンとも、高峰が左、森が右である。
 ところがその入浴シーンから約8分後、今度は森が岡田茉莉子に浮気して二人きりで入浴する展開となり、そこでは森が左、岡田が右になっている。そのすぐ後に階段を二人でおりる場面も同様。この後、高峰と岡田とが対峙する場面があり、それを経た後、高峰と森とが二人でいる場面の配置がそれまでとは逆――すなわち高峰が右、森が左となる。この配置がしばらく続き、岡田が加東大介に殺されて退場した後も逆になっている。しかし、末尾の方で、高峰と森とが二人で鹿児島へ行く場面――高峰が束の間の幸福を得るくだりで、ようやく当初の配置(高峰が左、森が右)へと戻るのである。
 ちなみに言うと、入浴シークェンスにそれぞれ脱衣場のカットが挿入されているのだが、森の著物(左にある)と高峰の著物(右にある)のカットは、それを左から(つまり森のが前に来るように)撮っている一方で、森の著物(左にある)と岡田の著物(右にある)のカットは、それを右から(つまり岡田のが前に来るように)撮っている、という違いがある。
 それがどうした、と言われればそれまでなのだが、こういった人物配置にもなんらかの拘りがあったのだとすると、そのような観方も、なかなか面白い。
 ところで、今泉容子『〔改訂増補〕映画の文法―日本映画のショット分析』(彩流社2019)*2という入門書があって、「ショット分析 タイトル」の項で『浮雲』を取上げている。そこでは、『浮雲』冒頭に、林芙美子の未発表の詩(詳しくは同書p.274の注参照)の一節「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」が「挿入タイトル」として引用されていることに言及したうえで、「悲劇的な要素をもつ映画であることを暗示する」(p.273)と書かれているのだが、わたしが観た『浮雲』は、確か五度とも、その挿入タイトルは作品の末尾に配されていた。
 山田宏一氏も、『映画的な、あまりに映画的な 日本映画について私が学んだ二、三の事柄1』(ワイズ出版映画文庫2015)*3で、

林芙美子の原作小説にはないこの映画のラスト(愛と憎しみの果てに、男は女の死を慟哭して悲しむ)は水木洋子の脚本にもとづくオリジナルとのこと。「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」という原作者の林芙美子の墓碑銘にもなっているせつなくも美しい引用が、エンドマークのかわりに余韻を残し、薄幸の女の人生に涙をさそうという幕切れである。(p.226*4

と書いているのだが、今泉氏の書くように、エピグラフ風に冒頭に置かれるヴァージョンもあるということなのか知らん。
 この「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」は、林芙美子原作の成瀬映画『放浪記』でも、作品の最後に回想シークェンス(親子三人の行商場面)があって、そこに当該の文字が被さるような形で表示されて了わる。
 せっかくなので、その『放浪記』についても述べておきたく思う。この作品も主演は高峰秀子で、これはまさに、彼女のためにあるような作品だといっていい。高峰は、林芙美子(役名は林ふみ子)を、少女時代から晩年に至るまで演じ分けながら、林に感情移入させるのではなくむしろ人間としての生々しさに目を背けさせるように仕向けているのではないかと思わせるほど、その「いやらしさ」の側面を強調してみせる。自信なげで猫背気味に歩いてみせる様子から、だんだんと自信に満ち溢れた様子になってゆく演技の妙はさることながら、何かというと悪態をつき、成り上がるためには手段を択ばないという厭らしい人間くささを刻印している。
 高峰自身も、ふみ子を演ずるに当って、「人間臭さ。美と醜は表現しても、下品と紙一重で抑えること」「初めは泥くさい少女でも「放浪記」出版からラストにかけて、きたえられた一種の人柄と品を出すこと」等を目指したといい(高峰秀子『わたしの渡世日記(下)』文春文庫1998*5:344)、それがみごとに成功しているように思われるのである。
 もっとも高峰は、この作品に対する当時の批評が、「林芙美子に似ている/似ていない」という次元の話に止まったことに批判的に言及している。高峰は、『放浪記』を自伝的作品ではなくて一個の文学作品として理解しようと努めたようである。

 ところが、である。「放浪記」完成後の私に関する批評は、成瀬巳喜男にとっても私にとっても、まさに啞然とするようなことに終始したのである。それは映画そのものの批評というより、ただ「本物の林芙美子に似ている」「似ていない」「原作者をバカにした扮装だ」「林さんはあんな人じゃなかったろう」と、あくまでも生前の林芙美子にこだわった言葉ばかりだった。(略)「高峰秀子はミスキャストでダメ」ときめつけられたほうが、いっそ諦めがつくというものである。(略)要約すれば、成瀬監督と私は、はじめから「放浪記」をひとつの文学作品として理解し、その映画化に当たって、文学少女の執念と、その生きざまを描こうとしたのに対して、観る側の人々は「林芙美子の自伝映画」を観ようと思って劇場に足を運んだということだろう。そして、映画の中の林芙美子に仰天し、かんじんの映画鑑賞がそっちのけになり、「似てる」「いや、似てない」という、私としては問題にもしていなかったところだけが、印象に残ったということなのだろう。(高峰前掲、pp.345-47)

 しかし、後世の批評でも(いな、「後世の批評だからこそ」というべきか)、等身大の「林芙美子」自身を描いたもの、という見方が主流を占めるように思う。もっとも、それは、そのような見立てをすることによって、むしろ「映画そのものの批評」となり得ているわけだが。
 例えば榎並重行氏は、高峰が演技で表現したことを林の「俗物性」と表現し、次のように書いている。

『放浪記』では、むしろ表情変化の運動性を遅くし、表情の肌理をひとつひとつ定着させるような演技様態を取る高峰が見られるだろう。その終盤には、作家として成功を収めた林の暮らし振りが付け加えられ、原稿の依頼を断ると成功していい気になっていると陰口を叩かれるからすべて引き受けているとか、母親にいかにも時代劇に出てきそうな楽隠居然とした羽織を着せて原稿待ちの編集者たちの目に触れるように坐っているよう言いつけるとか、林の俗物性と疲労を引き出した後、彼女が書きかけの原稿に突伏して眠り、映画の冒頭につながる両親と行商の旅路にある幼年時代の自らの姿を夢見るかのような場面でもって終わるように、映画『放浪記』は林の『放浪記』を、いわば林自身の夢のなかで回顧され、自己劇化された物語として、呈示していた。高峰の遅らせ気味の表情・運動には、それ故、『放浪記』に込められた林の自己劇化を印づけ、林がそこに読み取られることを望んだであろう健気さや一途さを拭い去り、むしろほとんど俗物性すれすれの図太さを、その表情の肌理のなかに観客が捉え得るようにする批評性の遅延が、混入されていよう。こうした批評性は、当然にも、演技を映像上の描写や表現の手段ではなく、観客の知覚に働きかける運動性の課題の解決の実行として、把握していない限り、起こり得ない。成瀬映画における高峰秀子という俳優の重要性は、この点においてまぎれもなく際立っている。(『異貌の成瀬巳喜男―映画における生態心理学の創発洋泉社2008:222)

 また小林信彦氏は「本音を申せば」で、「林芙美子は、写真で見る彼女は、セクシーである。(『放浪記』の)高峰秀子は滑稽なメーキャップにしていたが、これは、いくらか誇張しているように思われる」(「週刊文春」2019.7.25:51)と書いており、こちらも林との比較において評している。
 さらに市川安紀氏は、高峰が「嫌な女」としての林を演じたことについて述べている。加藤武の貴重な撮影裏話とともに紹介しよう。

 杉村(春子)がハンセン病患者を演じた豊田四郎監督『小島の春』(四〇年)は、少女時代の高峰秀子が杉村の芝居に感動し、演技開眼した作品として知られる。その高峰が、作家林芙美子の自伝的映画に主演したのが、成瀬巳喜男監督の『放浪記』(六二年)だ。
 これに先立つ菊田一夫の脚本・演出による舞台版(六一年初演)は森光子の生涯の当たり役となったが、貪欲な懸命さで観客の共感を呼ぶ芙美子像をつくり上げた森とは異なり、高峰は人間の醜さもあざとさもむき出しのまま、貧乏のどん底から流行作家にのし上がる“嫌な女”として演じた。おそらく実際の芙美子はこちらに近かったのでは、と思わせる迫力だ。森との芙美子像の違いが実に興味深い。
 加藤(武)はこの『放浪記』で成瀬映画に初出演。伊藤雄之助らと共に、芙美子を取り巻く文学仲間の一人を演じた。ちなみに(加藤と)麻布時代の同輩で知的な二枚目で鳴らした仲谷昇も映画出演が多いが、本作では芙美子が最初に惚れるインテリの優男役。芙美子と二人で暮らす部屋にぬけぬけと美女の草笛光子を連れ込むという、しょうもない二股男である。
 高峰が主演し、夫の松山善三が監督した『名もなく貧しく美しく』にも加藤は出演していたが、高峰と現場で顔を合わせるのは『放浪記』が初めてだった。

「このときは宝塚映画でね。宝塚の撮影所って、劇場と温泉と遊園地ぐらいで、周りには何もないんですよ。初めて成瀬さんのセットに大緊張で入っていって〈よろしくお願いします〉って言ったら、キャメラの横に座ってた高峰さんがじーっと俺のこと見て、〈あ、日活の悪役が来た〉って。ボソッとひと言だけ。ひゃー、参った。よく観てたんだね。あとはもう全然、口もきかない。黙ってスッと行っちゃった。余計なことは何も言わないけど、鋭くて面白い人だよね、高峰さんは。
 中村メイコから聞いたのはね、やっぱり成瀬さんの映画だったかな、撮影が長引いて、天下の二枚目の上原謙さんが、さすがにくたびれてしゃがんでたんだって。そしたら高峰さんが〈しゃがみ上原~、しゃがみ上原~〉って。ニコリともしないで小声で呟いたんだって。もう大ウケ。あと仲代達矢から聞いたのは、成瀬さんの映画で仲代が高峰さんを殴らなきゃいけないシーンがあって、高峰さんが〈ぶっていいよ〉って言うから本当にビシャーッと引っぱたいたら、ぶたれたまんま〈……芝居はヘタだけど力あるんだねぇ〉って。そのままスーッと行っちゃったんだってさ。おっかしいよねぇ。

(市川安紀『加藤武 芝居語り』筑摩書房2019:109-11)

 文中に、「芙美子が最初に惚れるインテリの優男」を仲谷昇が演じた、とあるが、芙美子が「最初に惚れ」た(そしてその後も忘れることがなかった)のは、芙美子を東京に連れて来たのに自身は因島に帰ってしまったという「香取さん」だろう。これは事実に基づいていて、岡野軍一という男である。
 仲谷の演じた伊達にもやはりモデルがいて、詩人・俳優の田辺若男がそれに当るだろう。第三の男となる宝田明=福地(春日太一氏による宝田氏へのインタヴューが興味深い*6)のモデルは詩人の野村吉哉、そして、生涯連れ添うことになる小林桂樹=藤山のモデルは画学生だった手塚緑敏だろう。
 ちなみに高峰は、この緑敏からバラの花束を贈られたことを著書で明かしている。

 ただ、「放浪記」封切り後、思いがけず、林芙美子の夫君であった林緑敏から「故人が観たらきっと喜んだことと思います。彼女に代わってお礼を申し上げます」という手紙にそえられて、美しいバラの花束が届いたことだけが、私の唯一の気慰めになった。(高峰前掲、pp.347-48)

 さきに、成瀬・高峰が、『放浪記』を林芙美子の自伝映画の積りでつくったわけではないことを見たが、劇中の原作からの引用ひとつをとってみても、それはうかがい知られるところである。例えば――、
 まずは原作と同じところを挙げると、劇中で「四月×日 水の流れのような、薄いショールを、街を歩く娘さんたちがしている。一つあんなのを欲しいものだ」、「十月×日 夜更けて(谷中の―原作にあり)墓地の方へ散歩をする。本当に死にたいなんて考えないのだけれど、死にたいと心やすく言ってみる。〔以下独白〕それでなんとなく気がすむのだ。気がすむということは、一番金のかからない楽しみだ。(「本当に」から「楽しみだ」までは原作になし)石屋の新しい石の白さが馬鹿に軽そうに見える。いつかは、私もお墓(原作は「墓石」)になるときが来る。何時かは……。私はお化けになれるものだろうか……。お化けは何も食べる必要がないし、下宿代にせめられる心配もない。肉親に対する感情。恩返しをしなければならないというつまらぬ呵責。みんな煙の如し。まだ無縁な、誰のお墓(原作は「墓石」)になるとも判らない、新しい石に囲まれて、石屋さんは平和に眠っている。朝になれば、また槌をふるって、コツコツと石を刻んで金に替えるのだ。いずれの商売も同じことだ。石に腰をかけていると、お尻がしんしんと冷い」というのは、文言も月も原作その通り(それぞれ、岩波文庫版2014の「第一部」p.34、「第三部」pp.415-16、以下同様。但し、原作の「第一部」~「第三部」は時系列に沿ったものでは全くない)で、後者では、福地(原作では野村)との結婚を決意する独白がそれに続くところまでそっくり同じである。
 しかし一方で、「九月×日 茅場町の交叉点からちょっと右へ入ったところに、イワヰという株屋がみつかった」、「十月×日 私は毎日玩具のセルロイドの色塗りに通っている。日給は七十五銭*7也の女工さんになって今日で二ケ月(原作は四ケ月)」、「七月×日 童謠をつくってみた。売れるかどうかは判らない。当てにすることは一切やめにして、ただ無茶苦茶に書く。私の思いはそれだけだ」等といった箇所は、文言はほぼ同じだが、原作ではそれぞれ「第二部」六月×日(p.200)、「第一部」十一月×日(p.43)、「第三部」十月×日(p.415)となっていて、劇中で辻褄を合わせるために月を変えている。
 さらに劇中で、高峰が仲谷(伊達)と初めて出会う場がカフェーであるが、そういった事実はないようだし、高峰は草笛光子(日夏)と仲谷を取り合った挙句、伊藤雄之助(白坂)が間をとりもつ形で「二人」という同人雑誌をつくることになるが、実際に林が友谷静栄と「二人」を出すに至るまでにそのような経緯はないようだ。また原作の「印刷工の松田さん」(「第一部」p.47)は、劇中の加東大介(安岡)がそれに当るだろうが、実際には最後まで友人として附き合った関係ではなさそうだし、改変した箇所は少なからずあるとおぼしい。ここでついでに述べておくと、岩波文庫の『放浪記』が、友谷の歿年を1950年とした(p.73)ことについて、廣畑研二『林芙美子 全文業録――未完の放浪』(論創社2019)は、「これは誤植でもなければ誤解でもない、意味不明の過ち。これでは芙美子より先に亡くなったことになってしまう」(p.245)と「苦言を呈して」いる。廣畑著によれば、友谷は1991年まで、93歳の長命を保ったようである。
 映画版『放浪記』が原作のどこを採ってどこを捨てたかという取捨選択や、どこをどのように変えたかというのを引き較べ、いちいち検べてみるのも一興かもしれない。

〔改訂増補〕 映画の文法;日本映画のショット分析

〔改訂増補〕 映画の文法;日本映画のショット分析

わたしの渡世日記 下 (文春文庫)

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異貌の成瀬巳喜男

異貌の成瀬巳喜男

加藤武 芝居語り (単行本)

加藤武 芝居語り (単行本)

放浪記 (岩波文庫)

放浪記 (岩波文庫)

*1:そしてまた、市川雷蔵の歿後五十年でもある。雷蔵の方は、今夏以降、少しずつだが「眠狂四郎」シリーズを観なおしている。

*2:旧版は2003年刊。

*3:元版は『山田宏一の日本映画誌』、1997年刊。その増補改訂版。

*4:初出は「毎日新聞」日曜版、1995年とのこと(日付不詳)。

*5:単行本は朝日新聞社1976年刊。

*6:同様のことは宝田氏自身、のむみち編『銀幕に愛をこめて―ぼくはゴジラの同期生』(筑摩書房2018)でも述べていたはずである。

*7:正確には劇中の文字は「銭」は俗体で、金偏を除いた右部のみ。