渡辺一夫とモンテーニュ

 『寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか――渡辺一夫随筆集』(三田産業2019)という本がある。これには、標題の「寛容(トレランス)は自らを守るために不寛容(アントレランス)に対して不寛容(アントレラン)になるべきか」(pp.110-30)のほか十六篇(計十七篇)の渡辺一夫による随筆が纏められている。
 1951年の7月に書かれた「寛容は自らを守るために~」は、これまでに出た文庫にもしばしば収録されている。たとえば渡辺一夫『僕の手帖』(講談社学術文庫1977)*1のpp.99-117や、大江健三郎清水徹編『渡辺一夫評論選 狂気について 他二十二篇』(岩波文庫1993)のpp.194-211、そして最近では、トーマス・マン渡辺一夫『五つの証言』(中公文庫2017)のpp.185-207がある。但し各版に小異があって、三田産業版はエピグラフとして掲げられたガブリエル・セナック・ド・メーラン(1736-1803)の言葉(二宮敬氏によれば「出典は未詳」だそうだが)が省かれているし*2、中公文庫版には末尾に「附記1」(1967年)、「附記2」(1970年)が附される。いささか時評めいた「附記1」は蛇足であるようにもおもうが、それはさて措き。
 わたしが渡辺の随筆のうち最も心惹かれるのは、書物や読書に関するもので、『僕の手帖』に収める「古本」「読書の悲哀について」「読書の恐ろしさについて」「読書の思い出」、あるいは『狂気について』に収める「買書地獄」「本を読みながら」、渡辺一夫『白日夢』(講談社文芸文庫1990)に収める「書痴愚痴―一九四六年―」*3、「架空文庫について」*4あたりをとりわけ好む。
 特に「古本」の、次のようなくだりがいい。

 つまり、このはかない、残忍な世の中で、昔から、現在の自分と全く同じようなことを考え、同じことに興味を持つ人々がいるということが、古書の存在によって証明されるのは何よりもうれしく、楽しいことである。書物を愛し、古本屋めぐりをするのがすきな人々ならば、こうしたうれしさ楽しさは、何度となく感ぜられるであろう。
 暇を作って、古本屋に這入り、ぼんやり書棚を眺めているうちに、昨夜考えたことや、昔興味を持ちながら忘れてしまったことなどに関するぼろぼろな古本を発見した時のたとえようもないうれしさは、こうした経験のない方々には全く判らないだろう。(略)僕は変態ではないつもりだが、古本の匂いならば、どんな匂いでも、くんくんと嗅ぐ。新刊本の匂いもよいけれど、古本の匂いはまた格別である。新刊本の匂いが、みどり児の甘い匂いとすれば、古本の匂いは豊かな大人の体臭であり、時には屍臭であり、しばしば焼場の匂いである。みどり児の匂いは、ただ単に感覚的であるが、大人の体臭、屍臭、焼場の匂いは、それ以外のものを持っている。それ以外のものは何だかはっきり判らないが、人間世界を狼星(シリウス)の高みから眺めるような幻想を与えるものも含むと言ったら変であろうか?(「古本」『僕の手帖』講談社学術文庫pp.121-22)

 書物随筆以外のもので印象に残っているのが、1947年に書かれた「モンテーニュと人喰人」だ。オリジナル編集の『五つの証言』(中公文庫)の解説「第六の証言」(山城むつみ氏)が渡辺のこの随筆に触れて、「渡辺一夫にとってモンテーニュは、ラブレーを補うユマニストだった」(p.208)云々と書いている。ただし『五つの証言』は、渡辺の「モンテーニュと人喰人」を併録しておらず、文庫版としては、『狂気について』がこれを収めている(pp.79-95)。
 「モンテーニュと人喰人」は、モンテーニュの「人間」に対する認識について述べたものである。すなわちモンテーニュにとっては、新大陸アメリカやアフリカの「人喰人」が、「野蛮人」やラブレーが準えたような「怪物」などではなく、「ヨーロッパ人同様の」、それどころか「失った美徳すら持っている『人間』」であったと論じた文章で、ルネサンス期の「人間」観のコペルニクス的転回を、モンテーニュの思想に見いだし、考察している。
 これを、くだけた話しことばで説いたのが、渡辺一夫ヒューマニズム考―人間であること』(講談社文芸文庫2019)に収める「新大陸発見とモンテーニュ」(pp.169-94)であり、そこで渡辺は、「モンテーニュは、いわゆる文明人の思い上がりと、偏見とを明らかについているように考えられます」(p.185)、と結論している。
 いずれの随筆でも渡辺が参照しているのが、モンテーニュ『エセー』第一巻三十一章の「人喰人について」である(原二郎訳の岩波文庫版では、「食人種について」)。
 この章は、『エセー』中のハイライトに数えられることもある。たとえばレヴィ=ストロースは、1992年9月に書いた随筆「モンテーニュアメリカ」で、当該章を参照しつつ、

 「われらが人食い人種」と彼(モンテーニュ)が呼んだブラジルの野蛮人は、社会生活を可能にするのに必要な最低条件という問題を彼に投げかけた。言い換えると、社会的絆の本性とは何かという問いである。その問いへの書きかけの応答が『エセー』にいくつも散りばめられている。とりわけ明らかなのは、モンテーニュはその問いを定式化しながら、ホッブズ、ロック、ルソーの手で一七、一八世紀のあらゆる政治哲学がその上に築き上げられていく基盤を築いたということである。(クロード・レヴィ=ストロース渡辺公三監訳・泉克典訳『われらみな食人種(カニバル)―レヴィ=ストロース随想集』創元社2019:136)

と述べ、モンテーニュが切り拓いた「ある文化が異文化を評価する拠り所となるどんな絶対的基準も受けつけない相対主義」(p.138)を称揚しているし、保苅瑞穂『モンテーニュ―よく生き、よく死ぬために』(講談社学術文庫2015)*5も、第一部「乱世に棲む」の「怒りについて―人食い人種は野蛮か」で『エセー』第一巻三十一章(保苅氏の訳では、「人食い人種について」。後に挙げる宮下氏の訳文も同断)を引き、

 野生の意味を逆転させ、それによって人為と自然をめぐる価値の判断までも逆転させようというのがかれ(モンテーニュ)の狙いなのである。この価値の逆転はもともとかれの根底にある考えであって、人間の人為が変質させて自然の姿から逸脱させたものこそが、反対に「野生」なのだと言いたいのである。(p.47)

と書いているし、また宮下志朗モンテーニュ―人生を旅するための7章』(岩波新書2019)の第五章「文明と野蛮」も、当該の章から幾つかの文章を引用しながら、モンテーニュの思想の根柢に、「文化相対論」(p.148)、「エコロジーの原点のような発想」(p.150)などの観点があることを述べている。
 これを要するに「人喰人について」は、モンテーニュの先見性がよく表れた一章である、ということだ。

狂気について―渡辺一夫評論選 (岩波文庫)

狂気について―渡辺一夫評論選 (岩波文庫)

*1:河出市民文庫(1952)版がもとになっている。

*2:巻末の「凡例」には、「底本にあったエピグラフと「附記」、外国語の原綴は省略した」と明記してある。

*3:ちなみに「トーマス・マン『五つの証言』に寄せて」で渡辺は、「このマンの小冊(「ヨーロッパに告ぐ」のこと)は、戦争が始まった時以来、他の三、四冊の書籍といっしょに常に雑嚢のなかへ入れて身辺から離さずに置いたものでありますが」(『五つの証言』p.11、『狂気について』p.120)と書いているのだが、「書痴愚痴」によれば、その「他の三、四冊」というのは、アンリ・バルビュス『知識人へのマニフェスト』、ロマン・ロラン『動乱の上に立ちて』、ジュール・ロマン『精神と自由』、プレイヤード叢書の『ラブレー全集』、岩波文庫版の『陶淵明詩集』の五冊だといい、「厚さは全部で約二寸ぐらいだった」(p.29)とのことである。

*4:確かこれは、『亀脚散記』(朝日新聞社1947)で最初に読み、感銘を受けたのではなかったか。

*5:元本は、『モンテーニュ私記―よく生き、よく死ぬために』(筑摩書房2003)。