獅子文六「牡丹」のことなど

 「三田文学」連載の対談をまとめた、石原慎太郎・坂本忠雄『昔は面白かったな――回想の文壇交友録』(新潮新書2019)を昨年末に読んでいたところ、次のような箇所が目にとまった。

坂本 (略)文六さんって人は、「牡丹」っていう絶筆を書いてね。
石原 読んだ、読んだ。
坂本 小林秀雄が絶賛してたの。
石原 あれ面白い文章だったな。僕はね、認める人は認めるんですよ、高橋和巳なんかもいい作家だけどね、力量があって。(略)(p.30)

 これに触発されて、正月の帰省時に、実家から『牡丹の花――獅子文六追悼録』(非売品、1971)を持ち出してきたのだった。
 紺色の染和紙に纏われた瀟洒な函に入ったこの本は、阿川弘之芥川比呂志淡島千景、石川数雄、上野淳一、扇谷正造大佛次郎加東大介角川源義川口松太郎河盛好蔵岸田今日子北杜夫今日出海渋谷実、田村秋子、辻嘉一戸板康二徳川夢声永井龍男長岡輝子中野好夫中村伸郎丹羽文雄野間省一、見川泰山(鯛山)、水谷準、三津田健など、錚々たる顔ぶれの揃った追悼文集で、文六先生関連書のうちでも、わたしの特にお気に入りの一冊である。背や扉の題字は小林秀雄によるものだ。
 その冒頭に(正確にいうと、まず数ページの口絵のモノクロ写真があって、その後に)、獅子文六「牡丹」が収められている。初出は「昭和四十五年五月「諸君」」となっている。すなわちこれは、文六の死後、約五か月経ってから発表されたわけである。
 この文章について、追悼録中の小林秀雄「牡丹」は次のごとく述べている。

 文六さんの三回忌には、友人達で思ひ出話でも持寄り、本にまとめてお供へしたらといふ話が出て、編輯の人から本の題名につき、相談を受けた時、『牡丹』と題する故人の名文を思ひ、「牡丹の花」とでもしたらどうかと、口には出さなかつたが、心のうちでは直ぐ思つた。それほど『牡丹』といふ彼の文には、心を動かされてゐたのである。亡くなつて間もなく、こんなものが机の引出しにあつたと言つて、夫人(文六の三番目の妻・岩田幸子氏―引用者)から、原稿を見せられ、早速、関係のあつた雑誌に、遺稿として、載せてもらつたのであつた。(p.14)

 当の岩田幸子氏(1911-2002)は、著書で次のように書いている。

 岩田(豊雄。獅子文六のこと―引用者)の亡くなった後、大磯の書斎から、未発表の原稿が、いくつか出て来たので、小林(秀雄)先生に見ていただき、遺稿として雑誌に載せていただいたが、「牡丹」という一文を、たいへん褒めて下さった。葬儀の時、委員長をしていただき、追悼文集を作る時も、「牡丹の花」という題名を書いて下さった。思い返せば御礼を申上げることばかりである。(「獅子文六の友人たち」『笛ふき天女』*1ちくま文庫2018:242)

 これらによれば、「牡丹」が絶筆なのかどうかは判らないわけだが、しかし読んでみると、これが確かに、死の影のちらつく随想になっていて、絶筆であったとしてもさほど不自然ではないようにおもえる。文六の随筆のアンソロジーを編むとすれば、最後に配置したい名品である。
 ところで、昨年12月7日から今年の3月8日まで、横浜の県立神奈川近代文学館にて「収蔵コレクション展18 没後50年 獅子文六展」がやっている*2。「特別展」ではなくて「収蔵展」だから、専用の図録は製作されていないのだが、観覧すると、菊判サイズで観音折の簡単なパンフレットが附いてくる。
 また、これとは別に1部100円で買える館報があって、その最新第147号で、文六に関する文章をいくつか読むことができる。山崎まどか獅子文六の創作ノート」(pp.2-3)と、岩田敦夫*3「父と神奈川」(pp.3-4)と、古川左映子「展覧会場から―『獅子文六業』への転業」(p.5)との三本である*4。その岩田氏の文章も、文六の「牡丹」に触れている。

「獅子に牡丹」という訳ではないだろうが、父は牡丹の花を大変愛していた。戒名の「牡丹亭豊雄獅子文六居士」も、生前お寺の和尚さんと相談し決めていたものである。大磯の庭に数株の牡丹を植えて毎年開花を楽しみにしており、東京に移ってからもふらっと大磯を訪ね牡丹と対面していた。亡くなった後に発見された「牡丹」という作品は、医者に病状を知らされ戸惑う自分の心を牡丹の花との対話のように綴ったものである。(p.4)

 展覧会を見ていて興味深く感じたのが、文六の「物持ちのよさ」である。それについては前掲の山崎氏が、「彼は「信子」の連載が始まる一九三八年の太平洋戦争前から六〇年代直前まで、二十二年に渡ってこのノートを使っていたという計算になる。物持ちがいいぞ、獅子文六。一冊のノートに、何という情報量。作品ごとにノートを変えたりしないのだ」(p.2)云々と記し、同じような点に驚きを示しているのだが、展示物のなかに、綺麗な状態のゴルフのスコアカードが何枚もあったことには、特に吃驚させられたものだった。
 文六とゴルフ、というと、木戸幸一「ゴルフをめぐって」(『牡丹の花』pp.17-19)という追悼文が面白い。その末尾を引いておく。

 岩田サンが(大磯から―引用者)東京へ移られてからは自然御一緒にゴルフをする機会も少くなりましたし、やがて健康を害されてゴルフは出来なくなったと話されるようになったのでした。
 岩田サンが文化勲章を受けられたので、早速御祝いの手紙を出し「スポーツシャツの上に勲章をブラ下げた貴兄と相模原頭で雌雄を決することが出来ないのは誠に遺憾千万。千載の恨事です」と申送ったところ、左記のような御返事を頂戴しましたが、これが同君からの最後の手紙となってしまったので、これを引用して結びと致します。

 拝復。今回不測の光栄に浴し早速御祝詞頂戴奉感謝候。スポーツシャツの上に勲章をブラ下げゴルフ致したきもドクター・ストップにては詮方なし。尤もこの間箱根でひそかに四ホール程廻り候処、腕前少しも衰へず、尊台なぞは歯が立たざるに非ずやと愚考仕候。何れ拝眉の上御礼申上候へ共、不取敢御挨拶申上度如此御座候。     岩田拝
   十月三十日
 木戸老台
   虎皮下

(pp.18-19)

 いかにも皮肉屋の文六らしい、エスプリのきいた書簡文であるといえる。

笛ふき天女 (ちくま文庫)

笛ふき天女 (ちくま文庫)

*1:単行本は1986年12月講談社刊。同書末尾には「文六教信者に」が収められているが、これは、『牡丹の花』の末尾の文章(pp.279-88)を再録したものである。

*2:その最後のほうに、『牡丹の花』と、小林が題字を記した色紙とが展示してあった。

*3:文六の長男。三番目の妻・幸子との間に生れた。

*4:ちなみに古川氏の文章は、『牡丹の花』から中村光夫による追悼文の一部を引用している。