「~を鑑み」誤用説

 かつて、某首相が「未曾有」を「ミゾーユ」と読んで*1話題になったことがあった。当時は、「『未曾有』は『ミゾウ』と読むのが正しくて『ミゾーユー』は間違いだ」という批判に止まるのがせいぜいで、「未曾有」が歴史的にどう読まれてきたかということは殆ど耳目を集めなかった。
 飯間浩明氏によると、

ただ、私とともに『三国』(『三省堂国語辞典』)の編集委員を務める塩田雄大(しおだたけひろ)さんの調査によれば、戦前には、「未曾有」には「ミゾユー」「ミソーユー」など、少なくとも6つの読み方のあったことが確認されているそうです(『放送研究と調査』2009年2月号)。(飯間浩明三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から』新潮文庫2017:82)

といい、なるほど手持ちの内海以直『新編熟語字典』(又間精華堂1903)を引くと「ミソイウ」とあるし、大町桂月編『國語漢文 ことばの林』(立川文明堂1922)を引くと「ミソウイウ」とある。確かに明治・大正期にも、「これはミゾウと讀むので、わざ\/ミソウイウなど讀むは耳ざはりである」(大町桂月・佐伯常麿『机上寶典 誤用便覽』(春秋社書店1911:425)、「『ミソウユウ』と讀まず『ミゾウ』と讀む」(高野弦月『正續 誤りたる文字の讀方』尚榮堂1914:158)といった指摘はみられたけれども、そういう指摘があること自体、「ミソーユー」という読みがひろく行なわれた状況を示すものだし、指摘とはいえ「耳ざはりである」などと述べているだけで、それが何らかの「根拠」に基づく言葉とがめだったとも思われない。
 言葉の「正誤」を云々する際には、このように、後世になってから「誤」とされるに至ったものや言葉とがめの対象となったものが少くないことに留意しておく必要があるだろう。
 「人間(ニンゲン・ジンカン)」の読み分けなどもその最たる例かも知れない。すなわち、“「ニンゲン」と読むと「ひと」の義だが、「ジンカン」と読むと「世間、世の中」の義だ”、という言説である。
 この手の指摘がいつ頃生じたのかはわからないが、「たとえば、『人間』という字を、わたしたちは『にんげん』と読むが、漢文では『じんかん』で、俗世間の意味である」(安達忠夫『素読のすすめ』ちくま学芸文庫2017←カナリア書房2004;146)、「日本語では『人間』を今『にんげん』と読むが、古くは『人間』は『じんかん』で『世間・世界』の意である」(加藤重広『日本人も悩む日本語』朝日新書2014:43)など、最近の本からも幾つか拾える。
 しかし例えば大槻文彦言海』(吉川弘文館1904)は、

「にん-げん」(一)ヨノナカ。世間。「―萬事塞翁馬」閑看―得意人」
(二)佛経ニ、六界ノ一、即チ、此ノ世界。人間界。人界。
(三)俗ニ、誤テ、人(ヒト)。

という語釈を示し、むしろ「人間=ニンゲン」を「ひと」の意味で捉えることを俗用としており、しかも、「ジンカン」という読みを掲出しない。少し時代が下がるが、服部宇之吉ほか『修訂増補 詳解漢和大字典』(冨山房1940)でも、

【人間】ニンゲン(イ)ひとの世、この世。人世、世間。(略)(ロ)(邦)ひと、人類。「――ノ力。」

となっていて、「ニンゲン」で両義を表していたことが示される。こちらにも、「ジンカン」という読みは見えない。
 少し遡って、宇野哲人『明解漢和辞典【増訂版】』(三省堂1927)で「人間」を引いてみると、「ジンカン」「ニンゲン」の二つを挙げ、「ジンカン」は「よのなか。人世」、「ニンゲン」は「ひと。人類」として区別している。この頃から、「世間」を意味する場合には特にこれを「ジンカン」と読んで漸く区別するようになったとも考えられるが、そもそも、「ジンカン」「ニンゲン」の読み分けは、「悪(アク・オ)」「楽(ラク・ガク)」「度(ド・タク)」「易(イ・エキ)」などのごとく音の相違が意味の違いと対応しているものとは異なり、単に、漢音系か呉音系かというだけの違いであるはずだ。
 ちなみに、文化庁編『言葉に関する問答集【総集編】』(大蔵省印刷局1995)は、「人間、到る処、青山在り」の「人間」の読み方について、「『ジンカン』と読むことによって誤解を防ぐ方が好ましい読み方だ」が、「『ニンゲン』と読んで『ひと』と解釈し」てもかまわない(p.401)、と述べている。
 さて、ここ十年以上ちらほら目につく言葉とがめで、このところ特によく見聞きするようになった*2ものがある。
 「『~に』鑑み」を「正」、「『~を』鑑み」を「誤」だとする指摘である。そういった趣旨のブログの記事やツイートが、なぜか多く見られるのだ*3。しかもこれが、世代を問わず広くなされる誤用指摘なのである。
 結論からいうと、「~に鑑み」「~を鑑み」のいずれも誤りではない。しかし、なぜこのような言葉とがめが生ずるに至ったのかは、まだよくわかっていない。
 まず、手近な現行の国語辞典をいくつか参照してみると、西尾実ほか編『岩波国語辞典【第八版】は「先例に鑑みて」「時局を鑑みるに」という作例を、小野正弘編集主幹『三省堂 現代新国語辞典【第六版】』は「時局に鑑みて」という作例を、北原保雄編『明鏡国語辞典【第二版】』は「国際情勢を鑑みるに楽観は許されない」という作例を、山田忠雄ほか編『新明解国語辞典【第七版】』は「時局に鑑みて」という作例を、新村出編『広辞苑【第七版】』は「時局に鑑みて生産の増大をはかる」という作例をそれぞれ示している*4
 これらだけを見ると、「鑑みて」の場合には「『~に』鑑みて」の形が、「鑑みるに」の場合には「『~を』鑑みるに」の形が「正しい」のだ、と誤解する向きもあるだろうが、少なくとも、「~を鑑み」の形も誤用ではない、ということはわかるはずだ。
 後者の「鑑みるに」については、これを「~に鑑みるに」とすると「に」が前後で重複してしまうので、それを避けるため「~を鑑みるに」とするのが自然なのだ、という見方もできるだろう。一方で、前者「鑑みて」の場合も、松村明編『大辞林【第四版】』を引くと、

「来し方行く末をかがみて(=かんがみて)」〈謡・清経〉

という用例を拾っているし、『日本国語大辞典【第二版】』(以下『日国』)を引くと、

「臣が忠義を鑒(カンガミ)て、潮を万里の外に退け」〈太平記〔14C後〕一〇・稲村崎成干潟事〉

というのが見え、古典語の実例としてはむしろ「~を鑑みて」の方が目立っている。『日国』はその他にも、

「去(さる)天文是を鑑(カンガ)み名を改め」(浮世草子・新色五巻書〔1698〕五・三)
「此書を考(カンガミ)道をひらきふたたび帰路いたされよ」(浄瑠璃蘆屋道満大内鑑〔1734〕四)

と、「~を鑑み」の実例ばかり拾っている。
 なお『太平記』の例に関していえば、応永年間書写、大永~天文年間転写の「西源院本」(原文は漢字カタカナ交じり文)を底本にした岩波文庫本(2014-16刊)は「臣の忠誠を鑑みて、朝敵を万里の際に退け」(第十巻8「鎌倉中合戦の事」、『太平記(二)』:128)となっていて、多少の異同はあるものの、当該箇所はやはり「~を鑑みて」である。
 漢文訓読でも、「鑑+A」であれば「『Aを』かんがみる」と読み下すことが多いとおぼしい。
 まず諸橋轍次編『大漢和辞典【修訂版】』を引くと、「鑑止水 シスイニカンガミル」という読み下しにいきなりぶつかるが、典拠の『荘子』徳充符*5篇では「鑑於止水」となっているので、これは無視してよい。問題になるのは、先に述べた「鑑+A」の形で、例えば『千字文』中の「鑑貌辯*6色」を文選読した和訓*7は、「カムバウとかたちをかんがみて~」となっている(小川環樹木田章義注解『千字文岩波文庫1997:267)。
 また、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』(第四版)で「鑑」字を引くと、

(1)かんが-みる。
(ア)かがみに照らす。映す。
明鏡可鑑形 めいきょうハかたちヲかんがミルべシ〈秦嘉―詩・贈婦詩〉
(イ)教訓にする。いましめにする。
後人哀之而之不鑑之 こうじんこれヲかなシミテこれヲかんがミず〈杜牧・阿房宮賦〉
(ウ)識別する。
鑑機識変 きヲかんがミへんヲしル〈晋*8・皇甫真載記〉

などのごとく、いずれも「~をかんがみ」と読み下している。
 秦嘉の贈婦詩は、『玉臺新詠』に収められているので、念のため手近な文庫本で確認してみると、「明鏡は形を鑒(かんが)むべし」と読み下している(鈴木虎雄訳解『玉台新詠集(上)』岩波文庫1953*9:118)。
 これらによるならば、漢文脈でも、「に鑑み」ではなく「を鑑み」の方が優勢であったと思われるのである。
 しかしながら、理由はなぜかわからないのだが(これが実に不思議なところで)、近代になるとこの多寡が逆転してしまう。
 まず「青空文庫」内を検索してみると(ノイズを除くと)、

「~に鑑み」57件、「~にかんがみ」13件
「~を鑑み」4件、「~をかんがみ」3件

と、10:1で「~に鑑み」の方が圧倒している。もっとも「~を鑑み」には、「家に飼う鳥の淘汰に人の力をかんがみる」(井上円了「西航日録」四十三、1903)といった古い例もやはり見うけられる。
 次に、現代日本語書き言葉均衡コーパスの「少納言」で検索してみると、

「~に鑑み」202件、「~にかんがみ」621件
「~を鑑み」49件、「~をかんがみ」16件

となっており、やはり約12:1の割合で、「~に鑑み」の方が多くなっている。
 このように、近代以降は「~に鑑み」の使用例が「~を鑑み」のそれを圧倒しているので、「『~を鑑み』は使った(聞いた/見た)ことがないので『~に鑑み』の方が正しいのだ」、という類推が働きやすかったのだろう、と思われる。
 またこれは思いつきの域を出ないが、あるいは、「大東亜戦争終結に関する詔書」(いわゆる玉音放送)などの影響もあるのではなかろうか。その冒頭に「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ」というくだりがあるのはよく知られるところで、ある年代以上にとっては、これが、「~に鑑み」を「正しい」とする規範意識を強めるものとして機能した可能性もあるのではないか、と思われる。

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*1:報道では「ミゾユー」「ミゾーユー」と読んだなどといわれたが、実際にはこう発音していたようだ。

*2:新型コロナウイルス感染状況(に/を)鑑み延期(中止)します」などといった文脈で多用される機会が多いから、それに対する反応として多く見受けられるのではないかと思われる。

*3:一方で、「~を鑑み」を「誤」と見なすのはネット由来のデマだ、と主張する記事も僅かながら見つかる。

*4:ちなみに、「鑑みる」を「他」動詞とするか「自他」両用とするかは辞書によって揺れがある。

*5:大漢和は「府」に作る。

*6:「辨」と通用する。

*7:千字文音決』。その奥書によると「貞永・天福の比(一二三二-一二三三)の手書」を「元禄七年(一六九四)」に写したものという。

*8:『晋書』。

*9:手許のは2008年2月21日第9刷。