山口剛のことなど

 尾崎一雄作/高橋英夫編『暢気眼鏡・虫のいろいろ 他十三篇』(岩波文庫1998)は、珠玉の尾崎作品をあつめた「精選集」というべき一冊で、再読三読している。編者の高橋英夫による解説も読みごたえがある。高橋氏は昨年亡くなったが、その歿後にまとめられた単行本未収録エッセイ集『五月の読書』(岩波書店2020)は、尾崎を追悼した「父祖の地に生きた『原日本人』――尾崎一雄」(pp.136-39)*1を収める。こちらは「愛書家」としての尾崎のポルトレにもなっており、併せて読むとなお面白い。
 さて、『暢気眼鏡・虫のいろいろ 他十三篇』中にある「山口剛先生」なる文章*2は、この文庫のなかでもわたしが特に好きな作品のひとつ。これは尾崎が早稲田の学生だった頃に教えを受けた山口剛を回想した一文である。昭和七(1932)年の十月八日に数えで四十九という若さで亡くなった、国語教師にして近世文学者の山口は、云わば伝説的な人物であったらしく、尾崎の二つ下の稲垣達郎が、『角鹿(つぬが)の蟹』(筑摩書房1980)で次のように描写している。

 国語担当の山口先生は、イガ栗頭で、黒の背広に蝶ネクタイ、たしか縞ズボンだった。赤堀又次郎編の教科書『校定平家物語』の角(すみ)をつまんで這入ってこられ、教壇に立つと、いきなり、「あたしやァ、ツンボでしてね」といわれる。これがひどく印象的だった。のちに、聾阿弥、不言斎聾阿弥あるいは聾不言と号されたことは知られている通りである。幅のひろい赤銅の指輪をはめておられた。ある時気が付くと、それには金の細い蛇が這っていた。
 ちょっと古武士のような風貌でいておしゃれなこの先生の講義は、訓詁注釈にこだわらぬ自在なものだった。教科書には、平家物語のほかに、それに関聯する謡曲や浄るりも這入っていた。謡曲の講義には、とりわけ熱がこもった。道成寺の乱拍子の話も出た。能にくらべると、歌舞伎の役者は腰のきまらない者が多い、という話もあった。(「山口剛先生」*3p.130)

 山口が會津八一の親友だったことはよく知られているが、稲垣は同じ文章の中ほどで次のごとく書いている。

 秋艸道人の歌集『南京新唱』が出た。いくつかの序文のなかで、(山口)先生のは逸品であった。いくらかのパラドックス調を帯びた気取がちょうどよかった。「友あり、秋艸道人といふ」にはじまり、やがて、「彼、質不覊にして気随気儘を以て性を養ふ。故に意一度動けば、百の用務を擲つて、飄然去つて遠きに遊ぶ。興尽き財尽く、すなはち帰つて肱を曲げて睡る。境涯真に羨むべし」と展開してゆく。ほとんどそらんじるくらいであった。戦後、秋艸道人が木村毅さんへ贈呈した『南京新唱』には、おびただしい添書があり、「山口のこの文は彼の畢生の最上の出来なり」とあるそうだ(古通豆本31木村氏『愛蔵本物語』)。
 これと言い、『光悦追憶』と言い、こういう文体をよくする人は、もう見当らなくなった。戦後、国文の徒のなかに、時に文語文を弄するのをみることがあるが、醜陋読むに堪えない。(pp.132-33)

 ちなみに『南京新唱』の「南京」は「なんきょう」と読み、奈良の都をさすが、この序文には、加藤郁乎も触れたことがある。

 心友会津(八一)の『南京新唱』に序をしたためたのは、三歳(二歳カ)年下の国文学者山口であった。

 友あり、秋草(ママ)道人といふ。われ彼と交ること多年、淡きものいよいよ淡きを加へて、しかも憎悪の念しきりに至る。何によりてしかく彼を憎む。瞑目多時、事由三を得たり。

と書き出してより、「彼、質不覊にして気随気儘を以て性を養ふ」「彼、客を好みて談論風発四筵を驚かす」「彼、自ら散木を以て任じ、暇日多きを楽んで悠々筆硯の間を遊ぶ」などと挙げる。さらに、みずからを信ずること篤い彼、平然としてあ(吾)が仏を无(無)みす、などと加えてほほえましい。友誼交契のよってくるあたりをそれとなく述べてあまりある戯文調の序言、割愛して伝えるに忍びない風流警抜の名文である。敬愛の情を憎むべき反語仕立てとするあたり、文友詩敵の間柄さえうれしく髣髴されてこよう。(加藤郁乎「心友」『俳林随筆 市井風流』岩波書店2004:117-18)

 ところで稲垣による「會津八一先生」*4には、山口の講義中に會津が「闖入」したという挿話がみえる。

わたくしらは、山口剛先生の黄表紙(あるいは洒落本)の講義をきいていた。と、
 「おうい、山口!」
 大声に呼んで、恰幅のいい、やや容貌魁偉な男が、ヌッと入口へあらわれた。乗馬ズボンをはいていた。和服に草履ばきで、教室のなかほどで講義をしておられた山口先生は、ふりむくと、そそくさと出てゆかれた。みな、あっけにとられたかたちだった。しばらくの立話で、その人は降りてゆき、先生は教室へ戻ってこられた。
 「ありぁ、會津といってね……、何、みみずくが手に這入ったって知らせに来たんだよ。」
 會津の何者であるかの説明はなかったが、これが、秋艸道人會津八一の風貌を瞥見した最初である。授業中にわざわざ呼出した用事が、たわいもない*5のに呆れたが、とにかく、妙に強い印象だった。
 その翌年、その人は、東洋美術史の先生としてわたくしらの前にあらわれた。全集の年譜をみると、一九二六年四月である。最初の時間に示された講義題目は、『奈良を中心とせる東洋美術史』というのだった。(略)
 講義は、たしか、金文・石文ということからはじめられた。碑と碣、陽文・陰文、そのほかからだんだん拓本の話になった。唐拓・五代拓・宋拓・明拓、そういうものがあることを知った。拓本の方法にまで及ばれた。湯島のどこそこへゆくと、釣鐘墨というものを売っている。画仙紙を当てて、それで刷るといちばん手軽だ、ということまで教そわった。(「會津八一先生」『角鹿の蟹』所収pp.136-37)

 稲垣は、會津の該博に対してのみならず、かれの手掛けた書に対する賞讃をも惜しまなかったが(「秋艸道人題簽など」*6松前の風』講談社1988所収)、当時會津の書は世間で評価が割れており、「いわゆる書家は殆ど賞めぬ」というのは浅見淵の言及するところであった(『燈火頰杖』校倉書房1970:19-20)。しかしかれの文字への造詣の深さは財前謙氏も説いているし(「題簽の中の會津八一」『字体のはなし―超「漢字論」』明治書院2010所収)、今は、その書についても再評価の機運があるようだ(財前謙『日本の金石文』芸術新聞社2015)。そのことはまた機会があれば述べたい。
 ついでながら、尾崎一雄の「山口剛先生」は次のように結ばれている。

 山口剛先生と父の享年が、同じ四十九であることを、いつも考える。戦争末期の十九年八月末、こおろぎの鳴く早朝、病気で倒れて以来、私の第一期生存計画(?)は、山口先生と父の年齢を越すことであった。私とともにそれを切願していた老母は、去年二月の亡父の命日を無事に迎え、ひどく喜んでいたが、二タ月後の四月五日、ぽっくりと逝ってしまった。
 第二期計画は、五十五を乗り越すことだ。それを完遂したいと思う。その間に、山口先生を軸とした学校物語を書きたい、と最近思いついた。早稲田入学によって自分の青春は始まり、山口先生の他界によって、それが完全に終ったと、今は見たい。それを書くことによって、私は、生き直したいのだ。今の私にとっては、それは、もはや単なる懐旧ではないだろう。(『暢気眼鏡・虫のいろいろ 他十三篇』p.206)

 ここで述べられている「第一期生存計画」のころに名作「虫のいろいろ」や「美しい墓地からの眺め」が生まれていること、下曽我に引っ越したことがそれを可能ならしめたことについては、荻原魚雷氏が書いている(「尾崎一雄の『小さな部屋』」『中年の本棚』紀伊國屋書店2020所収)。

角鹿の蟹 (1980年)

角鹿の蟹 (1980年)

俳林随筆 市井風流

俳林随筆 市井風流

自註鹿鳴集 (岩波文庫)

自註鹿鳴集 (岩波文庫)

中年の本棚

中年の本棚

  • 作者:荻原魚雷
  • 発売日: 2020/07/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

*1:初出は「朝日新聞」1983.4.4付。

*2:初出は「別冊文藝春秋」1948.11月号。

*3:1971.12.3稿、1980.5.3補訂。

*4:1972.3.31稿。

*5:稲垣の文章でふと思い出したのが、會津の次の歌であった。「八月二十三日(大正十四(1925)年―引用者)友人山口剛を誘ひて大塚に小鳥を買ふ   とりかご を て に とり さげて とも と わが とり かひ に ゆく おほつかなかまち」(会津八一『自註鹿鳴集』岩波文庫1998:177)

*6:初出は「文学界」1980年4月号。