猪場毅と『広辞苑』

 永井荷風『来訪者』の主要登場人物2人のモデルのうち、白井巍(たかし)のモデルになった平井呈一(1902-76)はいまも読まれる翻訳作品を数多く残しているし、その弟子のひとり荒俣宏氏が語り継いでいることもあってよく知られているものの*1、木場貞(てい)のモデル・猪場毅(1908-57)の方は、これまではあまり知られていなかった。
 今年の初め、善渡爾宗衛+杉山淳 編『荷風を盗んだ男―「猪場毅」という波紋』(幻戯書房)が出て、彼にもようやく光が当るようになってきた*2。その後6月には、1980年代初めに私家版として出た花咲一男『雑魚のととまじり』が幻戯書房から刊行されていて(編集協力に『荷風を盗んだ男』の善渡爾氏、杉山氏の両者が名を連ねる)、このpp.66-70にも猪場が出て来る。花咲は彼の第一印象について、「定かに覚えていない」が、「顔色の悪い、むくんだような顔付と、さっぱりしない、汚れた服装が浮んで来る」(p.66)と書いている。
 私は、かなり以前に『来訪者』を新潮文庫版で読んでいたとは云い條(最近、岩波文庫にも入った)、実際の猪場の人となりについては、石川桂郎俳人風狂列伝』(中公文庫2017←角川選書1974)を読んで知ったのがようやく初めてのことで*3、しかもそれは、俳号の「伊庭心猿」としてであった。
 伊庭心猿を特に心に留めるようになったのは、『来訪者』のモデルになったことのほか、石川の次の記述が気になったからでもある。

 今まで書いてきた心猿の行状は事実であるが、われわれ仲間はけっして彼を軽んじていたわけではない。猪場毅の業績として『樋口一葉全集』六冊、『一葉に与へた諸家の書簡』一冊、岩波の新村出『新辞苑』の追加増補の仕事、東京堂『世界文明辞典』の西洋篇、俳人伊庭心猿として句集『やかなぐさ』、豆本仕立の随筆集『絵入東京ごよみ』『絵入墨東今昔』等のすぐれた著書がある。中でも『墨東今昔』の「木歩の生涯」*4は、心猿の傑作の一つであると高須茂が賞讃している。(石川桂郎「此君亭奇録―伊庭心猿」『俳人風狂列伝』中公文庫p.42)

 「辞書好き」として気になったのが、「岩波の新村出『新辞苑』の追加増補の仕事」という記述なのだった。この『新辞苑』というのは、実は『広辞苑』を指し、新村出の『新辞苑』は云わば幻の辞書の名前、ということになっている。
 新村は、はじめ岡書院の岡茂雄の懇請により、溝江八男太の協力を条件に『辞苑』の出版を引き受けることとなるのだが、それが博文館に移譲されてからも、岡は陰に陽に協力を惜しまなかった。『辞苑』刊行(1935年)後、百科項目を殆ど削除する形で完成した(1938年末)のが、小型国語辞典の『言苑』である。
 『辞苑』の方は、刊行直後から改訂作業が始まり、1941年に改訂版の刊行を目指したが間に合わず、戦後も岡は交渉を続けるが、博文館・博友社は改訂版の刊行を拒否した。新村の息子の猛の交渉によって、岩波書店から改訂版が出る運びにはなったが、岡は新村に「辞苑」という書名はなるべく使わぬようにと何度も「進言」したらしい。しかし結局『広辞苑』が採用されることになり、後には岡の懸念した通り、岩波と博文館との間で係争が起ってしまう。そこに至るまでの経緯については、岡の「『広辞苑』の生まれるまで」(『本屋風情』中公文庫1983←平凡社1974*5)に詳しい。ただし岡のこの文章は、『新辞苑』という書名には触れていない。
 『広辞苑』の書名は当初、新村から『辞海』『辞洋』『言洋』等がよいとの要望があり、それらのうちの『辞海』が仮称として択ばれていたという。しかし、

 昭和二七年に、新たに金田一京助編『辞海』が三省堂から刊行されるに及んで別の名称を考えなければならなくなった。岩波書店も本格的に検討を開始し、結局、「新辞苑」か「広辞苑」というところに収斂した。『辞苑』は出の命名であり、これがもとであり、版を重ねて読者を重ねて読者を獲得してきたこともあっての判断と思われる。岡の意見も聞き、彼は「辞苑」を使うと博文館との関係で係争になる危惧を表しつつ、これがベストとの判断であれば諒とするということであった。岡には、自分が生みだした『辞苑』への思い入れがあったであろう。出は「大辞苑はぎょうぎょうしからむ」と日記に書き、「広辞苑」がよいという考えであったが、岩波書店が「新辞苑」を主張し、昭和二九年三月には、いったん「新辞苑」に確定した。書名は出版社のイニシアチブが強いわけである。出の日記、三月二八日には「岩波書店の稲沼氏来談、辞書の題名につき熟議」、同四月二六日には「岩波書店布川氏、『新辞苑』の書名のことにつきて来談」とあり、岩波書店が出に説明、説得しようとした形跡がうかがえる。
 その後、時を経て昭和二九年の年末、出が「新辞苑」の序文を書き送ったあとの年明け一月一二日、岩波書店から、「新辞苑」は博文館の後継社、博友社で登録してあると電話があった。そして一月三〇日、「岩波の稲沼氏より談話あり、『新辞苑』の名を撤回して『広辞苑』として登録することにし、法律上の用意を堅固にするとのよし」と日記にある。急転直下『広辞苑』となった。(新村恭『広辞苑はなぜ生まれたか―新村出の生きた軌跡』世界思想社2017:178)

 つまり『新辞苑』は、最終的に幻となったものの、いったんは「確定」した書名なのだった。また新村恭氏によれば、岩波と博文館・博友社との係争の結末については、「詳細は不明だが、(略)岩波から博友社に一定の金が支払われたと推測される」(同書pp.178-79)という。
 さて猪場は、『辞苑』改訂作業のどの段階で加わったか。
 新村猛『「広辞苑」物語―辞典の権威の背景』(芸生新書1970)によると、それは戦後の1948年のことであるらしい。

 意外に難航した編集体制の再編がようやくでき、岩波書店内に国語辞典編集部が発足したのは昭和二十三年九月のことであります。編集主任には市村宏さん(現東洋大学教授―当時、引用者)をお迎えすることができました。辞典編纂の経験に富む方であり、書店側の紹介によって父が委嘱して引受けていただいたわけです。市村さんのほかに、編集部には関宦市、猪場毅、横地章子、長谷川八重子、藤井譲、佐藤鏡子、木村美和子の諸氏が参加され、当初はたしか五、六人で補訂作業が始まったようにおぼえています。(『「広辞苑」物語』p.170)

 猪場が編集部内で具体的に何を担当していたのかは、残念ながら今のところ不明である。現行の『広辞苑』第七版(2018)巻末の「初版から第六版までにご協力いただいた主な方々」のなかにも、市村宏の名はあるけれども、猪場の名は見当らない。

荷風を盗んだ男: 「猪場毅」という波紋

荷風を盗んだ男: 「猪場毅」という波紋

  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 単行本
雑魚のととまじり

雑魚のととまじり

俳人風狂列伝 (中公文庫)

俳人風狂列伝 (中公文庫)

広辞苑はなぜ生まれたか―新村出の生きた軌跡

広辞苑はなぜ生まれたか―新村出の生きた軌跡

  • 作者:新村 恭
  • 発売日: 2017/08/04
  • メディア: 単行本

*1:ごく最近も、『幻想と怪奇3 平井呈一と西洋怪談の愉しみ』(新紀元社)が出たばかりである。荒俣氏は平井の年譜の作成を了え(近く刊行される予定とか)、同書に「平井呈一年譜の作成を終えて」(pp.73-86)を寄せている。平井を知る上では今後必読の文章となろう。

*2:ちなみに同書では、名の「毅」にほぼ「たけし」とルビを振っているが、「はじめに」では「つよし」と振っている。

*3:俳人風狂列伝』には、『荷風を盗んだ男』の編者解説「もう一人の来訪者、猪場毅」も言及している。『雑魚のととまじり』に猪場が登場することは、この解説で知ったのである。

*4:富田木歩は猪場の句作の師。『荷風を盗んだ男』はプロローグとして木歩の短文「芥子君のこと」を掲げる。芥子君とは、猪場が十四歳で得た俳号・宇田川芥子をさしてそう言っている。

*5:長らく版元品切だったが、一昨年、角川ソフィア文庫として復刊された。もっとも、新たな解説等が附されたわけではなく、中公文庫版の内容のままである。