『野呂邦暢ミステリ集成』のことなど

 当ブログでかつて触れたことのある本が、文庫本というあらたな形になって再び生命を吹き込まれ、世に出るのはうれしい*1
 たとえば、日夏耿之介『唐山感情集』(彌生書房1959)は2018年7月に講談社文芸文庫に入った*2。また、岩田宏『渡り歩き』(草思社2001)は2019年2月に草思社文庫に入った。
 それからこちらは、初文庫化ではなくて再々文庫化なのだが、福永武彦・中村真一郎・丸谷才一『深夜の散歩―ミステリの愉しみ』(講談社文庫1981)が、福永武彦「隠れんぼ」「ポーについての一問一答」、中村真一郎「『バック・シート』の頃」、丸谷才一「バスカーヴィル家の犬と猫」「二次的文学」「終り方が大切」等々を増補のうえ、2019年10月に東京創元社から完全版として出た。ちなみに講談社文庫版は、1978年刊の決定版(講談社*3を底本としている。講談社文庫に収められた決定版あとがきの文庫版後記によると、

 ただしこの文庫版『深夜の散歩』では、わたしの「バスカーヴィル家の犬と猫」「二次的文学」「終り方が大切」の三篇は版権の関係で収めることができなかつた。(p.285)

という。さらに当該のあとがき(創元推理文庫にも再録)の末尾には、「和田誠さんのおかげできれいな本が出来あがつて、非常にうれしい」とあるが、創元推理文庫版は和田のイラストを全て省いており、カバーのデザインも、和田からクラフト・エヴィング商會によるものへとかわっている。
 『深夜の散歩』は、これまた最近ふたたび文庫化された生島治郎の自伝的実名小説『浪漫疾風録』(中公文庫2020)にも出て来る。せっかくなので引用しておく。

 たとえば、新刊の海外ミステリを紹介するコラムに『深夜の散歩』というのがあって、はじめは中村真一郎、さらに福永武彦丸谷才一とつづいて、名コラムの誉れが高くなったが、この三人の原稿を取りに行くのはずっと越路(生島治郎本人―引用者)の仕事になった。
 その月に出た『ハヤカワ・ポケット』の新刊を持って行き、各作品のあら筋を述べ、その中からコラムに取りあげる作品を選んでもらう。
 三人とも音に聞えた評論家でもあり作家でもあったから、越路ははじめかなり緊張したものだが、純文学にかかわることでなく、しかも三人ともミステリは好きだから、このコラムを書くのは気分転換になったらしく、越路が会うときはおおむね機嫌はよろしかった。ただし、越路の方はその月に出た新刊全部に目を通し、ご進講の準備をしておかなければならない。
 中村真一郎はざっくばらんな人柄で、夏場などパンツ一枚の姿で平気で客と応対するというところがあり、しかし、平易な文章で鋭く現代ミステリの在りようを指摘してくれた。一方、福永武彦は気むずかしそうで、姿勢にゆるぎがなく、相対するたびにこっちも姿勢を正さざるを得ない。
 神経のそよぎが表にあらわれているような感じがしたが、ミステリを語りはじめると機嫌が良く、新しいミステリに対する好奇心も強かった。
 丸谷才一は三人の中では一番若く、やや童顔のせいもあって、良い意味での書生っぽさを残している気配があった。声が大きく、博識で話術に長け、しゃべり出すとその面白さに魅きこまれ、一時間ほどはあっという間だった。(pp.94-95)

 このように『深夜の散歩』は、編集者としての生島治郎がいなければ成り立ちえなかった企画なのだが、丸谷の博識ぶりと大音声ということで思い出すのが、このブログでも以前引用したことのある沢木耕太郎「ポケットはからっぽ」(『バーボン・ストリート』新潮文庫1989)である。
 沢木氏は以下のように書いている。

 ある日の午後、私は目黒の駅に近い洋菓子屋のティー・ルームで女性と待ち合わせをしていた。仕事ではなく、人並にいわゆるデートというやつをしていたのだ。(略)私は、私の背後に坐ったオッサンの大きな声に、知らないうちに気持を奪われていたらしいのだ。オッサンの声は大きく、よく響く声だった。しかし、その声が大きく響くだけならそう気にもならなかったろう。自然と耳に入ってきてしまうそのオッサンの話が、やけに面白かったのだ。プロ野球の戦績と総選挙の結果との因果関係とか、酒場の勘定の高低と文学の水準との連関とか、話題はとどまるところを知らないかのように広がっていく。(略)
 まったく、若い男女の仲を引き裂こうというこの不届きなオッサンとはいったいどんな男なのだろう。私はどうしても背後のオッサンの顔がみたくなり、一度手洗いに立ち、戻ってくる時にチラッと盗み見をすると、なんとそこに坐っていたのは、和田誠描くところの似顔絵にそっくりの顔をした、丸谷才一だった。(「ポケットはからっぽ」pp.77-79)

 話を戻そう。最近では野呂邦暢「ある殺人」(「ある殺人」はここなどで言及)が、野呂の他のミステリ作品やエセーとともに纏められて文庫オリジナルの『野呂邦暢ミステリ集成』(中公文庫)として出たこと(今年10月)も、心躍る出来事であった。もっとも、「ある殺人」は初めて文庫に入ったわけではなく、少なくとも『前代未聞の推理小説集』(双葉文庫1993、版元品切)でも読むことができる*4
 中公文庫はこの8月から3カ月連続で、中央公論新社編『事件の予兆―文芸ミステリ短篇集』、日影丈吉『女の家』、『野呂邦暢ミステリ集成』と、堀江敏幸氏による解説を附したミステリ作品集(『女の家』のみ長篇)を刊行しているが*5、『事件の予兆』に収められた野呂の「剃刀」は、再び『野呂邦暢ミステリ集成』に収録されている。この「剃刀」は、奇妙な味というかリドル・ストーリー的な展開になっており、誰しも理容室や美容院で一度は感じたことがあるだろう恐怖(この恐怖については、例えば原田宗典氏もエセーで言及していたと記憶する)を鮮やかな手際で描いてみせる。書名には「ミステリ」と銘打ってあるが、こういった作品も含まれるので、この「ミステリ」は、広義のものと云いうる。
 野呂の「敵」という短篇はこのミステリ集成で初めて読んだが、これはタイトルも同じヒュー・ウォルポール(1884-1941)の「敵」(The Enemy)に着想を得たか、あるいはそれを意識した作品ではなかろうか。ウォルポールの「敵」(倉阪鬼一郎編訳『銀の仮面』創元推理文庫2019所収←国書刊行会2001)では、チャリング・クロス街で本屋を営む主人公ハーディングが毎朝出会うトンクスに激しい憎悪を抱く。トンクスは様々のことを無神経にべらべらと喋りまくるし、ハーディングから見たトンクスの描写は、確かにいちいち生理的嫌悪を催させるものである。
 他方、野呂の「敵」は、「彼」があらゆる場所で出会う「そいつ(やつ)」に(おそらく一方的な)憎悪の念を募らせる。「彼」は「そいつ」とは一面識もなく、ひとことも話したことがないので、その憎しみの感情はきわめて理不尽なものだ。しかし作中人物の匿名性*6がかえって現実的な手ごたえを感じさせもする。ラストは、「彼は待った」のリフレイン、そしてたたみかけるような短文の効果的な多用で、結末の意外性をいっそう引き立たせることに成功しているように感じる。ウォルポール「敵」のラストとはまったく趣を異にするが、読み較べてみると面白い。
 野呂といえば、さきに紹介した沢木氏の『バーボン・ストリート』に「ぼくも散歩と古本がすき」というエセーが収められていて、野呂と山王書房店主・関口良雄との交流について書いている。
 沢木氏は、「野呂邦暢には(関口とのやり取りが―引用者)よほど鮮やかな印象として残っているらしく、この時の経験は形を変えて三度エッセイの中に登場させられている」(p.226)、「そうでなければ、野呂邦暢がどうして三度もエッセイに書くだろう」(p.231)と、「三度」というのを強調しつつ述べているのだが、その三度とは、多分、「S書房主人」(野呂邦暢『兵士の報酬―随筆コレクション1』みすず書房2014所収pp.331-32)、「花のある古本屋」(野呂邦暢『小さな町にて―随筆コレクション2』みすず書房2014所収pp.116-18)、「山王書房店主」(同前pp.315-17)を指すのだろう。
 一方の関口は遺稿集『昔日の客』を世に残した。そこでは野呂との思い出についても書いている。野呂の「花のある古本屋」は、その関口の追悼文集『関口良雄さんを憶う』に収められたものである。
 『昔日の客』『関口良雄さんを憶う』ともに、島田潤一郎氏がつくった夏葉社から復刊されているのはよく知られるところだ。『昔日の客』の方は「現在10刷りまで版を重ねている」*7という。なおその島田氏も、自著『あしたから出版社』(晶文社2014)で、「沢木さんの『バーボン・ストリート』に関口良雄さんと『昔日の客』のことが感動的に綴られている」(p.139)と、沢木氏の文章に触れている。

唐山感情集 (講談社文芸文庫)

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文庫 渡り歩き (草思社文庫)

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浪漫疾風録 (中公文庫)

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バーボン・ストリート (新潮文庫)

バーボン・ストリート (新潮文庫)

野呂邦暢ミステリ集成 (中公文庫)

野呂邦暢ミステリ集成 (中公文庫)

銀の仮面 (創元推理文庫)

銀の仮面 (創元推理文庫)

*1:直接その本について言及したわけではなくても、たとえば最近(今年10月)、田岡嶺雲『数奇(さっき)伝』が講談社文芸文庫に入ったこともうれしく思った。嶺雲については約8年前に、西田勝編『田岡嶺雲選集』(青木文庫1956)を入手した際に書いている(https://higonosuke.hatenablog.com/entry/20120807)。

*2:井村君江氏によるエッセイ「『唐山感情集』の思い出」と南條竹則氏による解説「日夏耿之介の訳詩と『唐山感情集』」とを附す。

*3:元版は早川書房刊、1963年。

*4:この文庫は刊行時、近所のコンビニで買った。当時はコンビニにも、光文社文庫三笠書房知的生き方文庫、双葉文庫、ワニ文庫、KKベストセラーズなどがよく置いてあった。

*5:8月には、河野龍也氏編(解説も担当)の『佐藤春夫台湾小説集 女誡扇綺譚』(中公文庫)も出ており、わたしはこれではじめて表題作を読むことを得た。作品中に漂うただならぬ気配から超自然的現象を扱ったものなのかと思いきや、ラストは合理的解決に導かれる。

*6:野呂邦暢ミステリ集成』所収作品のうち、前述の「剃刀」や、「もうひとつの絵」などでも、登場人物は「男」だったり「女」だったりして、特定の名が与えられていない。ついでながら、「もうひとつの絵」は何となく松本清張の「潜在光景」を思わせる。野呂はエッセイ「南京豆なんか要らない」で、「大ざっぱにいって、あちらのミステリには右翼の黒幕とか、不動産業者と結託した通産省の課長補佐は登場しない」(『ミステリ集成』p.295)云々と述べ、明らかに清張を念頭に置いた社会派批判を行っているのだが、清張の初期の短篇群に登場する人物は、どこにでもいるような平凡な男だったり女だったりする場合がむしろ多い。

*7:「現代の肖像―島田潤一郎」(『AERA』2020.10.19)