野呂邦暢の「剃刀」を読んで、それに触発されるかたちで再読したのが石川桂郎『剃刀日記』のうち数篇(「蝶」「梅雨明け」など)であったり、また志賀直哉の「剃刀」であったりしたのだが、志賀の「剃刀」は、『焚火―志賀直哉全集 第二巻』(改造文庫1932)所収のものを読み返したのだった。
改造文庫版『焚火』は4年前、『文章読本X』(中央公論新社)の記述に影響され、標題の「焚火」を読むため古書肆で購ったものであるが*1、以前この「焚火」を読んだときはその面白さをあまりよく理解できなかった。しかし今回「剃刀」を読むついでに「焚火」も読み直してみたところ、どういう訣か、無性に面白く感じたのだった。
この短篇は、芥川龍之介が『文芸的な、余りに文芸的な』で「あらゆる小説中、最も詩に近い小説」「散文詩などと呼ばれるものよりも遥かに小説に近いもの」「通俗的興味のないと云う点から見れば、最も純粋な小説」の代表的な国内作品として挙げており(芥川龍之介・谷崎潤一郎/千葉俊二編『文芸的な、余りに文芸的な|饒舌録ほか 芥川vs.谷崎論争』(講談社文芸文庫2017:28-38)、谷崎潤一郎との論争のきっかけをつくった作品のひとつでもある。今これを手軽に読める文庫としては、『小僧の神様 他十篇』(岩波文庫2002改版)もあるが、ざっと見較べてみると、「黒檜山(くろび)」(岩波):「黒檜山(くろびざん)」(改造)、「集った」(岩波)*2:「集まつた」(改造)等々、ルビや字句の若干異なるところがある。
ところで「焚火」は物語の末尾、作中人物の会話の内容が不思議な話、怪談めいたものになって行く。その一部を引いておく。
「ぢやあ、此山には何んにも可恐(こは)いものは居ないのね」と臆病な妻はKさんに念を押した。すると、Kさんは、
「奥さん。私大入道を見た事がありますよ」と云つて笑い出した。
「知つてますよ」と妻も得意さうに云つた。「霧に自分の影が映るんでせう?」妻はそれを朝早く、鳥居峠に雲海を見に行つた時に經驗した。
「いゝえ、あれぢやあ、ないんです」
子供の頃、前橋へ行つた夜の歸り、小暮から二里程來た大きい松林の中で左(さ)う云ふものを見た、と云ふ話だ。一町位先でぼんやり其邊が明かるくなると、その中に一丈以上の大きな黒いものが起つたと云ふ。然し、暫くして大きな荷を背負(しよ)つた人が路傍に休んで居たので、其人が歩きながら煙草を飮む爲めに荷の向うで時々マッチを擦つたのだと云ふ事が知れたと云ふ話である。
「不思議なんて、大概そんなものだね」とSさんが云つた。
「でも不思議は矢張(やつぱ)りあるやうに思ひますわ」と妻は云つた。「左う云ふ不思議はどうか知らないけど、夢のお告げとか左う云ふ事はあるやうに思ひますわ」
「それは又別ですね」とSさんも云つた。そして急に憶ひ出したやうに、「そら、Kさん、去年君が雪で困つた時の話なんか、左う云ふ不思議だね。未だ聽きませんか?」と自分の方を顧みた。
「いゝえ」
「あれは本統に變でしたね」とKさんも云つた。
かう云ふ話だ。(改造文庫版pp.27-28)
この後、「本統に變」な話が始まるのだが、未読の方の愉しみを奪うことにもなるので、そのくだりを引くのはやめておく。ちなみに上で「霧に自分の影が映る」と「妻」が言っているのは、「ブロッケン現象」のことと思われ、これについてはかつて述べたとおり、ウィンパー『アルプス登攀記』や幸田露伴「幻談」も言及している。なお余談にわたるが、私が「ブロッケン現象」を初めて知ったのは小学生の時分、佐藤有文監修『怪奇全(オール)百科』(小学館コロタン文庫)のカラー口絵を見たことによる。
さて「焚火」は、上で見たように突如として怪談じみた展開となるのだが、それでふと思い出したのが開高健『夏の闇』で、こちらも作中に次のような怪異譚が唐突に出てくる。
旅館にもどろうとして二人で裏通りを歩いていった。夕方のひとときはざわめいていたのにもうまっ暗な下水溝となっていて、人の姿がどこにもない。あちらこちらに酒場や料理店の灯が虫歯の穴のような入口を照らしているが、壁には私たちの足音が低くこだまするだけである。闇しかない路地に入っていくと汚水に浸りこんでいくような気持がする。この市ができたときに山からはこびこまれてそれ以来一度も日光を浴びたことがないのではあるまいかと思いたくなるような石が積みあげられている。冬を吸収したままで凍てついている、濡れた、かたくななその壁のよこをすぎたとき、むせるような立小便の酸っぱい腐臭のさなかに、ふいにあたたかい花の香りとすれちがった。私は闇のなかでたちどまった。
「誰か歩いていったのかな」
「どうかしら」
「靴音を聞いたかい?」
「ずっと私たちきりだわ」
「ドアのしまる音も聞かないね?」
「そう思うけど」
「だけど香水の匂いがする。君のじゃない。いますれちがった。女とすれちがったみたいだ。フレッシュで、うごいていた。誰もいないのに不思議だな。どういうわけだろう」
「幽霊と浮気したいの」
ひくく含み笑いしてからふいに女が腕をからみあわせ、うむをいわせぬ力でひきよせると、背のびしてくちびるをよせてきた。(『夏の闇』新潮文庫1983*3:56-57)
数年前に、これと同工の「実録怪談」をネットか何かで読んだことがあって、開高のこの小説をもとにしているのではないか、と思ったことであった。
なぜか突然怪奇な話が挿入される、といえば、『辞書生活五十年史』という書物もそうであった。辞典編集者の斎藤精輔(1868-1937)が最晩年に自伝として書き上げたこの本にも、いきなり怪談を語り始めるくだりがあって、斎藤はあるいは相当の怪談好きだったかも知れない、とおもったことがある。
『辞書生活五十年史』は初め少部数の謄写版として世に出たもので、森銑三が「斎藤精輔の自伝」*4(小出昌洋編『新編 明治人物夜話』岩波文庫2001所収:226-37)で次のように書いている。
かような内容のある書物が、広く知られずにいるというのは惜しいといえばやはり惜しい。他日この種の珍本を集めて、明治文化全集風の刊行事業でも起されるならば、本書の如きは、第一に推薦してよいものだということを、まず一言して置きたい。
『辞書生活五十年史』は、菊判袋綴の一冊で、本文は百六十頁に及んでいる。二、三時間にして読了せられるほどのものであるが、その内容は実に充実しており、それを簡約して紹介するなどということは、到底なし難い。(『新編 明治人物夜話』p.228)
森は、当該の自伝中に中井錦城や赤堀又次郎らが登場することに言及したうえで(同pp.232-36)、「『辞書生活五十年史』は、昨一年(1962年―引用者)を通じて私の読んだ書物の内でも、最も異色に富んだものの一つであったというを憚らぬ」(p.236)とこの一文を結んでいる。わたしも『辞書生活五十年史』は確かに異色の本だとおもうのだが、「異色に富」むように感じられたのは、そう大部の書物でもないのに、怪談めいた挿話がところどころに差し挟まれているという点にもある。
『辞書生活五十年史』は、森の歿後6年を経てから図書出版社の「ビブリオフィル叢書」というシリーズに加わった。現在、新本では手に入らないが、古書ではわりと容易に入手がかなう。わたしは13年前に(今はなき)上野古書のまちで購ったのだが、その後も古書市などで何度か見かけたことがある。
鶴ヶ谷真一氏もビブリオフィル叢書版でこれを読んで、「辞典編集 斎藤精輔」(『古人の風貌』白水社2004:36-45)という一文をものしている。その文中で鶴ヶ谷氏は次の如く述べる。
斎藤はいわば辞典をつくるために生れてきたような人物だった。緻密と熱意。不幸や不遇にもめげぬ闊達さ、そして相手に好感をいだかせるような晴朗な人柄。若いころ三省堂辞典編集所にあって、所長の斎藤に親しく接した長田恒雄氏によると、「先生は女性的ともいえるやさしい、端正な風貌だったが、一日も酒をきらしたことがなく、そのくせ、用心に新薬ばかり買いあさって『いつも酒ののめる体にしておかなくちゃね』といっていたほど酒好きだった。酔っぱらって二階からころがりおちたときも『酒飲みは決してけがはしません』とけろりとしていた。温厚な学者であるばかりでなく、一種の豪傑でもあったのだろう」。酔って転落するのが偉いわけではないが、緻密にして豪放磊落な一面をかねそなえていたことは、多くの執筆者をたばねなければならない百科事典の編集者には必要な資質だったのかもしれない。(『古人の風貌』p.40)
ちなみに、詩人としても知られる長田恒雄の回想部分は、「朝日新聞」1962.9.25付夕刊の「私の先生」という記事に拠るらしい。
では、その『辞書生活五十年史』で語られる怪談を以下に紹介しておこう。まず斎藤が数えで十歳の頃、父の赴任先の三重県へ母と船で向かう場面である。
それより神戸に至る途中、播磨灘上月明の夜の事なりき、船頭たちと種々様々の話をなせる中、船頭の一人「岩」なる者、色々の怪談を語り出で、この辺には「海坊主」という者出没し、船を覆えし旅客を食い殺す事ありとて、余等を嚇したりしが、船の進行中「岩」が上甲板にて櫓を漕ぐとき、いかなる油断ありしにや、播磨灘の只中に真逆様に墜落せり。他の船頭おおいに驚き、これ「海坊主」にさらわれたるものなるべしと大騒ぎをなししが、まもなく「岩」は同輩に救われて船に帰り来り、岩国出発以来一ヶ月目にしてようやく大阪に安着することを得たり。こと六十年以前の昔なれど、今なおこの海坊主の恐しさが余の心に残りて、ときどき身の毛のよだつ思あらしむることあり。(pp.5-6)
「(旧制中学の時分に)教師欠席の休暇を利用し、付近城山の頂上なる護館神の森に遊びぬ。この森林は城山の最高峯にして、昔より天狗が住むと称し、人々これを恐れてこれに登ることなかりしが、余等はこれを事ともせず、意気揚々とここに登り、樹を斬りて木刀とし、もって盛に剣闘を試み、天狗よ出でよと呼び叫びしも、ついに何等の事なく下山するや」云々(pp.23-24)、といった豪胆ぶりを示したさしもの斎藤でも、海坊主については、「ときどき身の毛のよだつ思あらしむることあり」というほどなのであるから、幼時のこの体験は、相当恐ろしいものとして心に刻まれたのだろう。
次は斎藤が岩国の中学に入学してから間もない頃、母が投身自殺を遂げてしまうのだが、その後日譚を述べたくだりである。
余はこれより四十九日の間、毎夕普済寺山の母の墓に詣り、墓側の石灯籠に油を注ぎ、火を点じて帰るを例とせしが、始めは気付かざりしも、四、五日後帰山の途中、ふと山上を回顧すれば、今直前に火を点じて帰りし灯火の消えおることを知り、すぐに後へ引き返し、さらに火を点じて山を下り、再び振返り見れば、火のまた消えおるを見る。よって再三これを繰返ししが、いつも点火してまもなく消ゆることいかにも訝しく、家に帰りて集いおる人々にその旨告げしに、その座中より一人の老僕膝を進めて、それこそ思い当る事あり、やつがれ二、三日前墓掃除に赴きしが、その墓の後に大なる狐穴あるを見、枯木を押入れ火を点け、燻し攻めにして帰りし事あれば、多分その狐共の復讐なるべし、明日はやつがれも同伴してその様子を伺うべしとて、その翌夜老僕は余を伴いて墓地に至り、いつものごとく皿に油を注し、灯心に火を点じて帰途につき、山下よりこれを見上ぐるに、いつもと違い火は煌々として輝き何等の異状なし。老僕これを怪しみそのゆえいかがならんと余に尋ねしに、余は笑って、「昨夜会合中のある人の勧めにより、油揚を三丁携え行き、その狐穴に入れ置きたれば、狐はこれを徳として灯籠には仇をなさざるものならん」と答え、老僕も「あるいは然らん」とて共々笑いながら帰家し、余はその翌日よりまたまた単身にて油揚を携え点火を勤とせしが、その後は以前のごとく灯火の消ゆる事なかりき。(pp.21-22)
山に天狗がいるだとか、これは狐狸の仕業だとかいった話柄が、当時はごく自然に人々の口の端にのぼっていたという事実はきわめて興味ふかい。
三つめは、斎藤が百科事典を編纂するにあたり、三省堂の創業者亀井忠一と二人で「専門語以外の本文の付訳」に従事するための場所をさがしに、湘南、大磯を経て箱根まで向かったときの話。明治二十二年頃のことである。
さらに車を飛ばして小田原に出で、鴎盟館というに投宿せり。この旅館は海岸景勝の地に在りて、眺望すこぶるよろしく、余等両人の意に適し、この夜は余と亀井氏とは室を異にして岸打つ濤声を聴きつつ静に眠につけり。しかるに、夜半物音騒がしく、亀井氏余の室に入り来りていわく、余不思議にもベルの鳴る音盛に聞えたり。風のいたずらとも見えで、怪奇の至に絶えず、君これを聞かざりしやと、余はまったくこれに気付かざりし旨を答えしも、亀井氏は今夜独寝せんこと、いかにも心寂し、君の部屋に寝ねんとて、自ら褥を余の室に移したり。その後何事もなく朝まで熟睡せしが、翌朝女中の膳部を持来りし際、亀井氏は前夜の事を女中に告げ、御前達はこれを知らざりしやと問いしに、女中もさらに心付かざりし旨を答えぬ。この音はたして何の音なりしや、いまだに判明せざれど、亀井氏はさかんに変化説を唱え、後年までしばしば当時の事を語り出で、身振いしおりたり。(pp.68-69)
むろん同書は、辞事典の誕生秘話がメインで語られていること云うまでもなく、『日本百科大辞典』編纂の苦心談や、足助直次郎による漢和辞典編纂の話(pp.93-94,p.101)など、この本でしか知り得ない(だろう)裏話も満載だ。しかし、上記のような意外な一側面もあるということで、あくまで怪異譚についてのみ、ここで紹介した次第である。
- 作者:志賀 直哉
- 発売日: 2002/10/16
- メディア: 文庫
- 作者:健, 開高
- メディア: 文庫
- 作者:斎藤 精輔
- メディア: 単行本
- 作者:森 銑三
- 発売日: 2001/08/17
- メディア: 文庫