『ヴァルモンの功績』のルビの話など

 さる方から、ロバート・バー/田中鼎訳『ヴァルモンの功績』(創元推理文庫2020)を頂いた。バーの作品は、これまで宇野利泰訳の「放心家組合」だけしか読んだことがなかった。宇野訳「放心家組合」は、まず江戸川乱歩編『世界短篇傑作集(一)』(東京創元社1957)に収められ、これは3年後に『世界短編傑作集(一)』として文庫化された。さらに全面リニューアルされた江戸川乱歩編『世界推理短編傑作集』(創元推理文庫2018-19)では、第2巻に入っている。
 このほど出た『ヴァルモンの功績』にも、もちろん「放心家組合」(新訳)が入っており、そのほかに「ウジェーヌ・ヴァルモン」もの7作品と、ホームズもの(パロディ)掌篇2作品とを収めている。
 そのさる方が「遊んだ訳文」と仰しゃっていたように、まず訳者名の「田中鼎」だが、これはモーリス・ルヴェル『夜鳥』などを訳したことで知られる田中早苗(1884-1945)の名を意識したものであるようだ。そしてその本文については、訳者自身、

 本書の文体は非常に遊んで(挑戦して)いる。この試みを許してくださった版元には感謝しかないし、バーやムッシュ・ヴァルモンには謝罪しかない。もちろん無闇に遊んだわけではない。(略)原書は実際のところ古典教養が縦横に鏤められ、韻や語呂も多く、晦渋を極める翻訳者泣かせの作品である。このような原文を日本語にするには、相応の雰囲気が欲しい。そこで読みづらさを感じさせない程度に夏目漱石を意識し文体を練った(泉鏡花や柴田天馬訳『聊斎志異』等も参考にした)。衒学的原文が浅学的訳文によって損なわれていないことを祈る。(「訳者あとがき」pp.367-68)

と書いているとおり、文体(というよりむしろ語彙の面)での工夫が随処に見られる。ことに面白く感じたのは、自在なルビの振り方である(独特なルビ、というので思い出されるのが、円城塔氏の『文字渦』のことである)。
 その例をあげると、「射干玉(ぬばたま)の夜」(「〈ダイヤの頸飾り〉事件」p.34)、「無頓着*1(じこまんぞく)」(「爆弾の運命」p.50)「没義道(おんしらず)」(同p.91)、「杜康(よきさけ)」(「手掛かりは銀の匙」p.105)、「歓伯(さけ)」(同前)、「斗十千(うまいさけ)」(同p.112)、「荘重的儀式(こけおどし)」(「チゼルリッグ卿の遺産」p.126)、「藉口(いいわけ)」(同p.129)、「口実(いいまえ)」(同p.131)、「当推量(はったり)」(「ワイオミング・エドの釈放」p.258)、「鍋取公家(びんぼうきぞく)」(「レディ・アリシアのエメラルド」p.292)……、といった具合。
 それから、「杯また盈々(えいえい)」(「手掛かりは~」p.109):「盈々(なみなみ)と」(「ワイオミング~」p.258)、「恰度(ぴったり)」(「チゼルリッグ卿~」p.135):「恰度(ちょうど)」(「チゼルリッグ卿~」p.149)「恰度(ちょうど)」(「放心家~」p.113)、「執拗(しゅうね)く」(「チゼルリッグ卿~」p.131):「執拗(しつこ)い」(「内反足の幽霊」p.215)「執拗(しつこ)く」(「レディ・アリシア~」p.305)のような読み分けや、「暫時(しばし)「少時(しばらく)」のような使い分け(「〈ダイヤの頸飾り〉~」「手掛かりは~」「内反足~」「ワイオミング~」)も面白い。
 「因業爺(いんごうじじい)」などもほとんど見ない言葉で、わたしはこれまでに、太宰治「散華」から、

……でも、うっかりすると、としとってから妙な因業爺(いんごうじじい)になりかねない素質は少しあるらしいのである。(「散華」『太宰治全集6』ちくま文庫1989:252)

という一例しか拾ったことがないのにも拘わらず、『ヴァルモンの功績』には二度も出て来る(「チゼルリッグ卿~」p.130,「内反足~」p.219)
 ちなみに『日本国語大辞典(第二版)』は「いんごうじじい」を立項せずに、「いんごうおやじ【因業親爺】」(用例なし)と「いんごうじじ【因業爺】」とを立項している。後者「いんごうじじ」の用例は次のとおり。

*落語・性和善(1891)〈三代目春風亭柳枝〉「大屋の寛六奴(め)、義理も人情も知らねへ隠剛老爺(インガウヂヂ)よ」

 また、訳者の田中鼎氏が「柴田天馬訳『聊斎志異』等も参考にした」と書いていることもさきに引用したが、それが奈辺にあるのか、まだ見極められていない。「窮措大(びんぼうがくしゃ)」(「爆弾~」p.56)*2や「峩冠大帯(りっぱないしょう)」(「チゼルリッグ卿~」p.124)あたりのルビの振り方にあるのではないか、と思ったのだが、『聊斎志異』の訳文でそれに類するものとしては、今のところ、

「君が見くびっていた窮措大(ひんしょせい)だって出世ができないこともなかろう」(「西湖主」、蒲松齢/柴田天馬訳『完訳 聊斎志異 第一巻』角川文庫1969改版:27)

しか拾えておらず、あるいは、その独特のルビの振り方ではなくて、使用語彙を参考にした、というくらいの意味なのかも知れない。
 さらに面白いのは、「訳者あとがき」に「ヴァルモン国語辞典〔抜萃版〕」を載せていることで(pp.368-69)、訳者は「『日本国語大辞典 第二版』にすら立項されていない語」(pp.368)として、使用語彙のうちのほんの一例(9語)を紹介している(完全版の発表が俟たれる?ところだ)。そのうちの例えば、

じょう‐ちょう【杖朝】礼記王制篇「八十杖於朝」]年齢八十歳をいう。「――だろうとこの熱情に指の先まで痺れるのだ」

は、本文では「レディ・アリシア~」に「杖朝(やそじ)であろうと、この熱情に指の先まで痺(しび)れるのだ」(p.289)という形で出て来る。また例えば、

てい‐じ【底事】何事に同じ。彼(か)の文豪も作品中に用いている。ちなみに吾輩の活躍を逸(いち)早く本朝に伝えたのも件(くだん)の文豪と聞いておる。

は、「放心家~」に「『フランス式の詭策(トリック)とは底事(なにごと)ぞ? ムッシュ・スペンサー・ヘール』」(p.166)という形で出て来る(なお、「彼の文豪」「件の文豪」というのは、後に述べるが、夏目漱石を指す)。
 「底事」は、白話的な性格の強い表現といえそうで、『辞海』編纂作業にも従事した張相(1877-1945)の『詩詞曲語辭匯釋』巻一*3が助字「底」の條を五條示し、その第一條「底,猶何也;甚也。」(p.85)で杜荀鶴「蠶婦」詩の後半部を引きつつ、

「年年道我蠶辛苦,底事渾身身著苧蔴?」*4言何事也。(p.86)

と記しており、すでに晩唐において「底事」が「何事」と同義で用いられていたことがわかる。
 ところで、初めに触れた「放心家組合」の話に戻るけれども、これが日本でとりわけよく知られているのは、エラリー・クイーン*5江戸川乱歩が激賞したということのほかに、漱石の『吾輩は猫である』がどうもこれを種本にしたらしい、という事実が知られているからだ。
 『猫』の当該箇所、「ネタばれ」になるのもまずいので、その冒頭のみ引いておこう。

「成程難有い御説教だ。眼前の習慣に迷わされの御話しを僕も一つやろうか。この間ある雑誌をよんだら、こう云う詐欺師の小説があった。僕がまあここで書画骨董店を開くとする。で店頭に大家の服や、名人の道具類を並べて置く。無論贋物じゃない、正直正銘、うそいつわりのない上等品ばかり並べて置く。上等品だからみんな高価に極ってる。そこへ物数寄な御客さんが来て、この元信の幅はいくらだねと聞く。六百円なら六百円と僕が云うと、その客が欲しい事はほしいが、六百円では手元に持ち合せがないから、残念だがまあ見合せよう」(『吾輩は猫である』十一、新潮文庫2003改版:519-20)

 この引用部に見える「ある雑誌」というのが、「放心家組合」の初出誌をさすのではないか、そして漱石はその初出誌で「放心家組合」を読んだのではないか――と云われているのである。この後に披露される挿話が、「放心家組合」の内容とあまりにもよく符合するからだ。
 わたしが初めにそのことを知ったのは、瀬戸川猛資『夢想の研究―活字と映像の想像力』(創元ライブラリ1999)中の「灯台もと暗し」によってだった。
 瀬戸川は、『猫』中に「放心家組合」と「そっくりそのまま」の話が出て来ることを山田風太郎が「発見」したと述べたうえで、次のように書く。

 残念なことに、『放心家組合』が何という雑誌に掲載されたのか、わたしが調べた範囲ではわからなかった。バーが編集にたずさわっていた《アイドラー》という雑誌かもしれないが、断定はできない。この人は他にも沢山の雑誌に作品を発表していたからだ。漱石はその雑誌をどのようにして入手したのだろうか。当時はまだ神田の古書街も形を成していないころである。イギリスの雑誌が易々と入手できるとは思えない。丸善に注文して船便で取り寄せていたのだろうか。
 ここで、別の臆測が成り立つ。バーの短篇集は一九〇六年の刊行だが、『放心家組合』自体はその数年前に雑誌掲載されたものではないか、という臆測である。もしそれが一九〇二年十二月以前のことであれば、すんなりと平仄が合う。一九〇〇年十月から一九〇二年十二月まで、漱石はロンドンに留学中で、読書三昧に耽っていたからだ。『放心家組合』を、漱石はロンドンで読んだのである。あるいは、ロンドンで購ったその掲載紙を東京に持ち帰って読んだのである。――この推理が当たっているかどうかはわからないが、考え方としては無理のないものだと思う。(「灯台もと暗し」pp.203-04)

 『夢想の研究』の解説は丸谷才一が担当しているが(「真珠とりの思ひ出」)、この解説文中では上の文章については触れていない。しかしこれ以前(1993年3月7日収録)に丸谷は、須賀敦子三浦雅士氏との鼎談で、この「灯台もと暗し」の内容に言及している。

丸谷 これは瀬戸川猛資さんの『夢想の研究』ですが、これを読んでいましたら、『吾輩は猫である』の終わり近いところに出てくる放心家の話……。
三浦 ああ、夢みがちな、放心状態の放心ですね。
丸谷 ええ。作中人物が語るその話は、江戸川乱歩が後に推薦した奇妙な味の短編小説なんですって、どうしても推定してみると。そうすると、江戸川乱歩は『吾輩は猫である』を最後まで読んでないんじゃないかと(笑)、そういう瀬戸川さんの推定があるんですよ。瀬戸川さんはそれをとがめているわけじゃないけれど、さっき君の言ったバルトの話によれば、そこへ行くまでの間に読む必要がなくなることはあり得るわけね。
(「本とのすてきな出会い方」『須賀敦子全集 別巻』河出文庫2018:355-56)

 今では「放心家組合」の初出誌は明らかになっていて、リニューアルされた『世界推理短編傑作集2』に収められた解題「短編推理小説の流れ2」で、戸川安宣氏が、次のように書いている。

(「放心家組合」は―引用者)〈サタデイ・イヴニング・ポスト〉一九〇五年五月十三日号に掲載された後、〈ウィンザー・マガジン〉の一九〇六年五月号に再録された。そして同年、ロンドンのハースト・アンド・ブラケット社より刊行された連作短編集『ウジェーヌ・ヴァルモンの勝利』の五番目の物語として収録された。(略)
 ところで、明治の文豪、夏目漱石がこの「放心家組合」を読んでいたらしい、と林修三、山田風太郎といった人たちが指摘している。『吾輩は猫である』の十一章で、漱石は登場人物の口を借りて、ある雑誌で読んだ詐欺師の話を開陳しているのだが、それはまさしく「放心家組合」の肝の部分なのである。(略)
 ご存じのように漱石はイギリスに留学したことがあったが、一九〇五年にはすでに帰国している(漱石のイギリス滞在は一九〇〇年から〇二年まで)。したがってここで言及している雑誌というのは、ロンドン滞在中ではなく、帰国後に読んだものだろう。漱石研究家に依ると蔵書の中に「放心家組合」の載った雑誌はないようだが、漱石が読んだ小説が件の作品であったことは間違いあるまい。(pp.369-72)

 上に見える林修三は、風太郎よりも早く「放心家組合」と『猫』の挿話との類似に気づいたというが、『ヴァルモンの功績』の「解説」(日暮雅通氏)にはさらに驚くべきことが書かれている。

 漱石といえば、『吾輩は猫である』の一シーンが本書第五話「放心家組合」をネタにしているという話が有名だが、この件について、ホームズ/ドイル研究家の植田弘隆氏が非常に興味深い事実を教えてくれた。
 問題のシーンは、同書最終章(十一)の中ほどに出てくる。迷亭君が、ある雑誌の小説を読んだらこういう詐欺師の話があったと言って、「放心家組合」の「5」にあるエピソードと同じ話をするのだ。このことを最初に指摘したのは誰なのか? 時系列的に書くと、次のようになる。
 昭和四十五年十一月二十日付の《朝日新聞》夕刊……鈴木幸夫早稲田大学教授がコラムで、山田風太郎から「『猫』の詐欺師の話はロバート・バーの短編からとったという指摘をした者はいるか?」という問合せがあったことを紹介。
 昭和四十五年十一月三十日付の《東京新聞》夕刊……匿名コラム「大波小波」が、鈴木幸夫のコラムを取り上げ、山田風太郎の“発見”に賛辞を送る。
 昭和四十六年一月三日・十三日合併号の《時の法令》……林修三が、「放心家組合」のことは自分がすでに昭和四十一年四月号の《ファイナンス》(旧大蔵省の広報誌)と昭和四十四年四月二十四日付の《日本経済新聞》夕刊で指摘したと、クレームの投稿。この後、朝日の担当記者と鈴木・山田両名から詫び状および釈明の手紙が来たことで、林は矛を収める。
 ところが、植田氏がたまたま購入した《別冊宝石21号》(昭和二十七年七月)に載っていた推理作家・狩久の随筆に、「探偵嫌いの漱石が、後者[放心家組合]を読んでいたと推定される記述が《猫》の終章にある」という記述があったのだ([ ]内筆者)。いやはや、奥の深いことで……。はたしてこの件もすでに誰かがどこかで書いているかもしれないが、念のためここに紹介しておくことにした。(pp.355-56)

 ただ田中鼎氏は、同書の「訳者あとがき」で次のごとく述べている。

 『吾輩は猫である』第十一に登場する迷亭が読んだ「ある雑誌」の「小説」は、内容の一致をみること、号こそ異なるが「放心家組合」の掲載誌であるウィンザー・マガジンを漱石が所有していることから、「放心家組合」の可能性が非常に高い。ただし「放心家組合」が掲載されたウィンザー・マガジンが一九〇六年五月号、問題の箇所を含む『吾輩は猫である』掲載のホトヽギスが一九〇六年八月号。当時の流通事情を考えると、そんなにも早く漱石が「放心家組合」を読んで自らの小説に反映できたのか、疑問なしとしない。(p.372)

 戸川氏が書いていたように、漱石は一九〇五年五月の「サタデイ・イヴニング・ポスト」で「放心家組合」に触れた、という可能性はないのだろうか? いずれにしても謎は尽きない。
 そういえば瀬戸川の『夢想の研究』は、「霧の中の群衆」という文章も収めており、ロンドンの「猛烈な濃霧」なる気候条件が、イギリスで探偵小説が「異常なほどの発達をとげた」大きな理由のひとつなのだろう、といった大胆かつ刺戟的な推理をしているのだが、「放心家組合」にも濃霧の描写が何度も出て来る。「ロンドンは霧が厚く罩(こ)め、吾輩は道に迷った。(略)霧はあまりに濃く、歩道に貼り出された新聞の見出しも読めぬ」(田中鼎訳p.161)、「霧が文字通りフラットの中にまで浸潤し、電灯があっても読めたものではない」(同p.162)……。
 かのディケンズの名作『荒涼館』の冒頭にも、濃霧の執拗な描写があることを、ふと思い出したのだった。

ヴァルモンの功績 (創元推理文庫)

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世界推理短編傑作集2【新版】 (創元推理文庫)

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太宰治全集〈6〉 (ちくま文庫)

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*1:徹底させるなら、「着」は「著」という表記が良かったかも知れない。

*2:訳者による「第二のあとがき」には、「学者」ならぬ「窮措大(びんぼうやくしゃ)」が出て来る(p.374)。

*3:手許のものは、1955年第三版に拠った中華書局版(1977刊)、その二分冊のうちの「上册」。

*4:「蠶」はここでは「養蚕」を指すのだろう。

*5:ついでながら、クイーン編『黄金の十二(ゴールデン・ダズン)』には、「放心家組合」と並んでポーの「盗まれた手紙」も入っているのだけれど、「放心家組合」にはまさにその「盗まれた手紙」に言及した箇所がある。「有り体に言えば、住人不在の間に行う略式の家宅捜索だ。エドガー・アラン・ポオの名作「盗まれた手紙」にもその種の行為が記されている」(田中鼎訳p.158)。