「器量」の話―『徳政令』餘話

 笠松宏至『徳政令―中世の法と慣習―』(岩波新書1983)の話をもう少し続ける。
 同書が、中世語「甲乙人」についても説いていることはさきに触れた。笠松氏はこの語の原義が、身分的な意味を有しない、ニュートラルな「第三者の総称」(p.122)であったことを述べ、これがなぜ「凡下(ぼんげ)百姓等」を意味するようになったかという問いを立て、その答えを追究している。
 まず笠原氏は考察の前提として、

 この頃(鎌倉末期―引用者)からまた、ある所領所職を、正当に知行しうる資格をもつ人間を「器量の人」とよび、その逆に資格のない人間を「非器」とよぶ法律用語が用いられはじめる(p.123)

といった条件を挙げたうえで、次のようにいう。

 ごくごく一般的にいって、中世の人間がある所領所職を、正当に(暴力や経済力だけではなく、社会的に認知された妥当性をもって)知行できる根拠は二つあると思われる。
 その一つは、前述の「器量」である。どんなに有勢の御家人であっても、それだけで庄園の本家職や領家職を知行するわけにはいかないし、逆に堂上の貴族が地頭職を手中にすることもできない。(略)
 第二は「相伝(そうでん)の由緒(ゆいしょ)」である。ある御家人領を、御家人Aが知行するのが正当か、御家人Bが知行するのが正当かは、その器量に差がないのだから、A、Bがその所領所職にもっている「相伝の由緒」の有無、もしくは強弱によって決定される。ここでいう相伝とは、血縁的な相続関係、いわゆる重代相伝に限られたものではない。一年前に他の御家人Cから買得した「買得相伝」であっても、もちろんかまわない。(pp.123-24)

 一方、中世的な秩序における「凡下百姓」は、「彼らなりの器量や相伝の世界があったかもしれない」とは云い條、「貴族や武士たちの人物の世界では、器量はもちろん、相伝とも無縁な人びとだった」(以上p.124)。しかし、やがて徳政の時代に至ると、経済力をつけた「凡下百姓」たちが相伝を獲得するようになった。それでも、厳然たる身分社会にあっては、どうしても「器量」までをも買うことはできない。これは逆説的に、「相伝の世界にふみ込み、事実の上でかかわりをもったこの時代、彼らは甲乙人に成り上ったのである」(p.125)と言い換えることが出来る。
 もっとも、笠松宏至『法と言葉の中世史』(平凡社ライブラリー1993)所収の「甲乙人」(pp.28-45)によると、

 このように「甲乙人」は「不特定者」から「百姓凡下」へと、その意味内容を変化させるが、ある時期を境にして、などということは勿論あり得ない。前者の「甲乙人」がはるか後代にも見出され、また庶民的ニュアンスの濃い用例が、古くから用いられていることも確かである。だから正確にいえば、語義の変化というよりも、両義の混在というべきかもしれない。(p.36)

といい、また、鎌倉的法秩序のもとでは、「『幕府の恩賞』という、これ以上ない『器量』と『相伝由緒』を獲得する時代が始」まり、「庄園や村落の内部でも、恐らく同じような事態が進行」することとなった(p.43)。そうして、「非器」の人という意味での「甲乙人」は姿を消してゆくことになる――、と解釈している。
 笠松氏はこれを、「臆測」だとか「想像」だとかいった謙辞で表現しているが、思考の過程が非常に明晰でかつ説得的である。私のようなまさに「凡下」の者は、「時代が下がって語の使用頻度が高まるにつれ、ニュートラルな語義をもつことばが卑語化したのでは」などとつい考えてしまい勝ちだが、なぜ「使用頻度が高ま」ったのかがまず問われなければならないわけである。
 さて、上記でキイ・ワードのように登場したのが、「器量」ということばであった。
 この「器量」で思い出したのが、『保元物語』のことである。正確には、藤田省三経由で知った『保元物語』、と云うべきか。
 竹内光浩・本堂明・武藤武美編『語る藤田省三―現代の古典をよむということ』(岩波現代文庫2017)所収「言語表現としての故事新編―転形期と表現について」の注に、次のようにある。

 藤田は「保元物語を読む」(一九七五年に平凡社セミナーとして全一〇回の講義をおこなった)で、従来、内容本位に「軍記物語」としてとらえられていた「保元物語」を、叙事詩的作品としてその形式と内容両方からその時代の言語を読み解き、転形期における言語表現の転換を講義した。その一端を藤田は「史劇の誕生」(『精神史的考察』平凡社、のちにみすず書房、一九九七年)として発表したが、藤田の保元物語論のごく一部にすぎない。他に保元物語の「器量」という言葉に焦点をあてたものとして藤田・鶴見俊輔多田道太郎の座談「現代の器量人とは何か」(『潮』一九七五年四月号、所収)、藤田・小田実の対談「器量こそが問われている」(『朝日ジャーナル』一九七四年一二月二〇日号、所収)がある。(p.285)

 上記の座談、対談ともに未見であるし、未完の「史劇の誕生」は平凡社ライブラリー版『精神史的考察』(2003年刊)で読んだが、そちらには「器量」への言及はなかった。それでも、『保元物語』に「器量」が現れるという上記の話が気になって、日下力訳注『保元物語』(角川ソフィア文庫2015)で読み直してみたことがある。
 手許のメモでは、それはたとえば、

器量をも選び、外戚(ぐわいせき)の安否(あんぷ)をも尋ねらるるに、これは当腹(たうぶく)の寵愛(ちようあい)といふばかりにて近衛院に位を押し取られ、…(上巻五、p.28)

文才(ぶんさい)、世に優れ、諸道に浅深(せんじん)を探る。朝家(てうか)の重宝(ちようほう)、摂籙(せつろく)の器量なり。(上巻六、p.28)

といった形で出て来る。ちなみに後者は左大臣藤原頼長に対する評言である。
 このような「器量」=「才能」ある人が現れる一方で、「凡下」(上巻四、p.23)や「凡夫境界(ぼんぶきやうがい)の者」(中巻四、p.97)といった表現も出ては来るが、これらは文脈上、阿羅漢や神仏に対する「普通の人間」=「凡下」「凡夫」なのであって、上で言及した「凡下百姓」の「凡下」とはニュアンスが異なる。これらの表現も、中世的な法秩序のなかでは、宗教的なニュアンスをまとわない身分的な意味を表すことばへと変容していったということが、あるいは想定されたりするのだろうか。
 ところで、藤田省三はこの「器量」という言葉に惹かれていたらしく、対象の時代はずっと下がるが、「我らが同時代人・徂徠―荻生徂徠『政談』を読む」(『語る藤田省三』所収)のなかでも「器量」について述べている。
 藤田は、徂徠が当時の朱子学者などとは違って、いつの時代にも「器量人」がいたと解釈していた(ただその「器量人」が上に立つかそうでないかという状況が異なるだけだ、という)ことに言及し、次のようにいう。

 では、器量人の「器」とは何か。徂徠はこういう時の比喩が巧みですから、「器」とは道具だから、特定のものに役に立つものだ、特徴のあるものだ。人間皆、得手不得手があるんだと、その得手不得手がない奴はぼんくらでどうにもならん奴だ、「器」とは、槍は尖っているから槍なんだ、槍がもし尖ってなかったら役に立たんわけだ。金槌が尖っていたら金槌にならん。だから槍というのは尖ってて金槌にならない、そういうもの。金槌は先が尖ってないから金槌として役に立つのであって、こういうものなんだと。人はある事柄で役に立つことを「器」と言う。したがって器量人とは役に立つ人間になるのであって、大体癖があるものだ、と。「器」とはそもそも癖のことを言ってるのだから、その証拠に人を見て一癖ありげと言う場合は褒め言葉ではないかと徂徠は言うわけですね。癖なき者には役立たずが多い、癖ある者には優れたる人多し、というふうに言うわけです。(略)器量を発見するのは、その癖をも含めて使ってみることであると。(p.191)

 「器量人」は「癖ある者」だ、というのは徂徠独特の解釈であるとしても、当時の一般的な意味において、「器量人」はリーダーたるべき「才能ある者」「才智ある者」を表していたらしい。藤田が述べたような徂徠の「器量人」講釈は、『政談』の巻三に出て来るが、たとえば巻一にも、「頭にすべき器量」「器量次第其内より頭を可申付」などといった形で「器量」が顔を出す。「器量」はこの時代にはもはや、生れ付いた地位やそれに伴う資格を表すものではなくなってしまっていた、ということなのであろうか。
 ちなみに『政談』は、その最良のテクストとしては平石直昭校注『政談 服部本』(平凡社東洋文庫2011)を挙げることが出来るだろう。特に岩波文庫版(辻達也校注、1987年刊)との校合が綿密で、同書が底本とした写本の誤脱を数多く訂している。また岩波文庫版が著者名を意図的に「荻生徂」とするに就ては、

それには十分な根拠があるが、辻氏も認めるように若い徂徠が「徂徠山人」と自署した史料がある(『墨美』二八四号、二三頁所掲の影印。この史料については岩橋遵成『徂徠研究』四三四頁に言及がある)。養子の荻生道済(金谷)や高弟服部南郭らの編集による徂徠の漢詩文集の題も『徂徠集』である。これらを考えると「徂徠」でもよいと思われる。(pp.415-16)

と述べる。
 「事項索引」が附いているのもありがたいことで、「器量」もちゃんと立項されていたのだった。

徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)

徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)

法と言葉の中世史 (平凡社ライブラリー)

法と言葉の中世史 (平凡社ライブラリー)

政談 (東洋文庫0811)

政談 (東洋文庫0811)