『爾雅』の話

 國分功一郎『中動態の世界―意志と責任の考古学』(医学書院2017)には色々と触発されるところがあって、

 かつて中動態は、中動態と能動態とを対立させるパースペクティヴのなかにあった。中動態は能動態との対立のなかで自らの位置を確定していた。ところが、そのパースペクティヴは受動態の台頭とともに変化していく。もともとは中動態から派生したものに過ぎなかった受動態が中動態に取って代わった。
 いまわれわれは、そのような、能動態と受動態とを対立させるパースペクティヴのなかにいる。ならば、そのようなパースペクティヴのなかに中動態をうまく位置づけられないのは当然である。中動態はこの歴史的変化のなかで、かつて自らが有していた場所を失ったのだ。(pp.79-80)

という記述などにも蒙を啓かれたものだった。これを援用すれば、例えば『干祿字書』が定義する漢字字体の「俗・通・正」というタームも、「俗:通:正」の三項対立ではなく「俗:正」と「通:正」との二つの二項対立に切り離しておくのが本来で、それだとむしろ字体の処理がスムースに行くのでは、などと考えたりしていたのだが、こういった対概念に限らず、等価の関係であっても、二項で考える場合と三項で考える場合とではその意味するところが異なってくる場合もあるのだろうな、と感じられる例に逢著した。
 先日、小川環樹・西田太一郎・赤塚忠(きよし)編『新字源』(角川書店)で「肆」字を引いていたところ、十六番目の語釈に「いま。(類)今。」とあるのに偶々目がとまって、へえこの字にはこんな意味も有るのかと、そうおもったことがあった。
 その後、なぐさみに『爾雅(じが)郭注』*1をぱらぱら捲っていたとき、巻一「釋詁(しゃくこ) 下」本文に「治肆古故也」「肆故今也」とあるのにたまさか気づき(それまでに何度も披いていたというのに、今さら、である)、後者(前者については、いまは無視するが後述する)に対応する晋代の郭璞の注文(郭注)を見ると、「肆既爲故、又爲今。今亦爲故、故亦爲今」となっていたのだった。つまり「『肆』は『故』(の義)であり、そのうえさらに『今』(の義)でもある」、という訣である。続けて郭は、「此義相反而兼通者、事例在下而皆詩」という。この後半部がよく判らなかったのだが(これについては後述)、「義相反而兼通」と言っているから、郭はこの「故」「今」を「ふるい」「いま」と解し、「肆」がその相反する両義を兼ね備えていると主張していることが判る。
 『新字源』の語釈はこの記述を基にしたのだろう、と考え、そのときはそのまま深くは調べずに了った。
 ここで一寸『爾雅』について説明しておく。『爾雅』は漢代に成立したとされる字義分類体の字書である。有名な許慎の『説文解字(せつもんかいじ)』に先んじて編まれたと考えられる。全体が十九篇に分れており、カテゴリ別に「釋詁」「釋親」「釋楽」「釋木」などの篇名が与えられている。例えば「釋親」は親族名称、「釋楽」は音楽に関することばを類聚している。『爾雅』がどういう風にことばを集めていったかということについては、頼惟勤(らいつとむ)が直截簡明に説いているので以下に引いておく。

 いろいろ経書を読んでみると、そこには訓詁が付いている。『詩』*2でいえば毛公(もうこう)が訓を付けている。『書』*3でいえば孔安国(こうあんこく)が訓を付けている。それをいわばカードにとって整理していくのと全く同じ方式を、『爾雅』は採っている。『爾雅』には、特に『詩』と『書』の語彙が多い。
 たとえば、『詩』を訓詁をたよりにして読んでいくと、「俶(しゅく)、始也」という例が出てくる。これは、「毛伝」である。ただし、『爾雅』の立場からすれば、これが『詩』のどこにあるのかは問題ではない。とにかく、「俶、始也」という訓詁があることがだいじなのである。また、『詩』の毛伝に「哉(さい)、始也」という例がある。この「哉」は〈カナ〉と訓読する助詞ではなくて、始という意味である。それから、「哉」が「始」である用法は『書』にも出てくる。毛公がいおうと、孔安国がいおうと、それは『爾雅』としてはかまわない。ともかくも「始也」の訓詁があることが大切なのだ。そこで、この「始也」の場合も含めて、いろいろな種類の訓詁をカードに拾う。そして、整理するときに、たくさんの「始也」が集まったとする。この場合の整理の仕方の一つに、「初、始也」「哉、始也」「首、始也」などをこのままずっと並べるやり方がある。ところが、『爾雅』ではこれを簡単にして、「初、哉、首、基、肇、祖、元、胎、俶、落、権輿(けんよ)、始也」という並べ方をしている。『爾雅』の撰者は、これだけの「始也」を拾い出した。このように一挙に連続させて書いてあるが、これは「初、始也」「哉、始也」「首、始也」「基、始也」「肇、始也」「祖、始也」「元、始也」「胎、始也」「俶、始也」「落、始也」「権輿(これだけが二音節)、始也」と同じことである。要するに、『詩』や『書』を読んでいくと、「始也」という訓の付いている字がいろいろ出てくる。それを総合すると、このようになる。だが、仮に「権輿」の字の意味がわからないときに、『爾雅』を使うとすると、これは不便である。暗唱でもしてしまわないと使えないことになる。(頼惟勤著/水谷誠編『中国古典を読むために―中国語学史講義』大修館書店1996:22-23)

 さて諸橋轍次編『大漢和辞典』(大修館書店)で「肆」を引いてみると、十四番目の語釈に「故にいま。又、いま。」とある。ここでは例の『爾雅』の「肆故今也」を「肆、故今也」と解した上で、上掲の郭注を引き、さらに「疏」(=注釈に対する注釈。この場合は郭注に対する宋代の邢ヘイ〔日+丙〕による注釈)の「以肆之一字爲故今、因上起下之語。」を引いていた。要はこれが、『爾雅』本文の記述を「肆=故今也」と解釈する根拠になっているらしい。
 この「疏」を、今度は『爾雅注疏』*4で確認してみよう。その巻二の「疏」に「毛傳云肆故今也即以肆之一字爲故今……」とあるから、邢ヘイは毛伝の記述をもとに、『爾雅』の記述を「肆、故今也」と解していることが知られる。清代の劉淇『助字辨略』(章錫琛校注)*5巻四の「肆」字の項を見ても、邢疏を引用しつつ、やはり「肆、故今也」と記している。劉はしかし、同じ巻四で「自」字を解するにあたって、『爾雅』の郭注ならびに邢疏を引用しているから、「肆」の項では、どうやら意図的に郭注を無視して邢疏のみ引用しているらしいことが判る。つまり、「肆既爲故、又爲今」という解釈は適当でない、と切り捨てているとおぼしい。
 同じく郭注を批判しているにも拘らず、これらとは異なる見方をするのが、宋代の王觀國である。王は『學林』巻二で、次のように述べている――中華書局刊の「學術筆記叢刊」版(1988年刊,2006年重印)から引く――。

觀國按:爾雅釋詁一篇,皆用一字爲訓,曰治,曰肆,曰古,此三字皆訓故也;曰肆,曰故,此二字皆訓今也。若從郭璞注,則是以故、今二字而訓肆也。此篇未有以二字爲訓者。(p.49)

 そして、『爾雅』の例えば「尼定曷遏止也」という記述は、「尼、定、曷、遏四字,訓止也」と解釈すべき旨を述べたうえで、

爾雅釋詁、釋言二篇,皆用一字爲訓。郭璞誤析其句,反以故、今二字而訓肆,字義雖亦通,而非爾雅句法也。(同前)

と説く。『爾雅』の「句法」から考えると郭注の解釈は成り立ちえない、といっている。ここでは、上で見たような郭注の「肆=故也∧今也」という解釈を批判しているわけだ。そしてこれは同時に、邢疏や後代の劉淇の解釈、すなわち「肆=故今也」とも異なる見解を打ち出していることにもなる。
 しかし、先にみたとおり「肆=故今也」は毛伝の解釈なのであり、頼が説くように、『爾雅』は毛伝等の訓詁を蒐めて作られていたのだった。
 だとすれば、王説はきわめて分が悪くなる。王は毛伝を恐らく見ていないし、毛伝を引く邢ヘイの疏も見ていないだろう*6
 とは云え『爾雅』釋詁篇の「句法」としては、解釈される語に二音節語がくることはあっても(頼の引用にあった「権輿」のように)、語釈の部分に二音節語がくることはなさそうである*7。ゆえに王のような解釈が出て来るのは無理もないことと考える。
 以上を要するに、『爾雅』の「肆故今也」について、郭注は「肆=故也∧今也」(A=B也∧A=C也)と解し、王は「肆、故=今也」(A、B=C也)と解していることになる。両者はたしかに大きな違いである。前者は必ずしもB=Cとは云えないのであるから。
 ここで、先ほどは無視した『爾雅』本文の「治肆古故也」(「肆故今也」の直前に出て来るもの)の解釈について考えてみよう。こちらは素直に、「治、肆、古=故也」と解釈できるだろう。しかし冒頭になぜ「治」が現れるのかよく判らない。郭注も「治未詳」といっている。ただ「治」と「肆」とは同韻字(去声寘韻字)であるから、「肆」を抜き出してくる際に、音注か何かをうっかり一緒に引用してしまった蓋然性がある。あるいは、単なる誤記、何らかの通假例といった可能性も残るが、今はとりあえず「治」は無視するとして、「肆、古=故也」と考えておく。この場合、「肆」「古」「故」は「ゆえに」の意味を表していると考えられる。「古=故也」だけだと、その意味を特定しがたいが(むしろ「ふるい」という義が直ちに想起される)、この両者の関係に、「肆」が割って入ってくることによって、この場合は、「古」も「故」も「ゆえに」であるだろうことが予想されるからだ。「古」が「故」の通假字として機能したことは、かつてしばしばあったらしい。白川静『字通』(平凡社)も、「金文の〔大盂鼎(だいうてい)〕に「古(ゆえ)に天、翼臨して子(いつくし)む」とあり、古を故の意に用いる」と説く。
 さて次に、問題の「肆故今也」である。こちらは王の説では、「A、B=C也」という形になるのだった。そうするとこれは、「A=C」「B=C」と分けて考えることができる。当然ながら、「A=B」ともいえるわけだが、「A、D=B也」(Dは「古」)というのが先に出て来た。こちらは「D」との関係において「A=B」を考えなければならず、「ゆえに」の意味だろうと解釈して置いた。一方「A=C」「B=C」は、「C」との関係において「A=B」を考える必要があり、しかも前出の「ゆえに」の義ではあり得ない(それならば前項にまとめてしまう筈だからだ)。このうち「B=C」すなわち「故=今」は、郭注の解釈はいまは措くとして、「これ」という代名詞としての用法が共通しているとも解釈できる。しかしそうなると、「肆」が浮いてしまう。「肆」に代名詞的な用法があるとは寡聞にして知らない。
 ここでもう一度、郭注の解釈に戻ってみる。郭は、「肆=故也∧今也」(A=B也∧A=C也)と解釈していたのだった。そのうえで、「此義相反而兼通者、事例在下而皆詩」と述べていたのであった。この後半の「事例在下而皆詩」が、初めに『爾雅注』を見た段階ではよく判らないと先に記したけれども、実はこのことについては邢疏が補足していた。「在下者謂在下文徂在存也注」と。すなわち『爾雅』の「徂在存也」に対する郭注を見よというわけだ。
 そこで、「徂在存也」を捜してみると、これは釋詁篇の後のほうに出て来る。たしかに、ここで郭注は「以徂爲存猶以亂爲治(略)以故爲今此皆訓詁義有反覆」と言っていて、「徂(死ぬ)」が相反する「存」の義を、「亂(みだれる)」が相反する「治」の義を(後者は「亂」と別字を混用したものかともいわれる)もつことを例にあげ、「故」「今」の例にも言及している。ただ、郭注のこれらの説明はやや不十分で、「故」「今」両字の関係については述べているとしても、肝心の「肆」が相反する両義を兼ね備えていることの例を挙げての説明になっているとは言いがたい。
 すっかり遠回りしたが、『爾雅』の「肆故今也」は毛伝をもとにしており、釋詁としては異例であるけれども、「肆、故今也」と解釈すべきで、邢疏がいうように「以肆之一字爲故今、因上起下之語」としておくのが、やはり無難なところなのかもしれない。
 『爾雅』に採録された語は、以上にみてきたように、引用元やそのコンテクストからは全く切り離されているので、ある字がどのような義を表しているかについては、他の字との関係から類推してゆくほかはない。
 こうして、「肆故今也」のどこをどう区切り、どこを等号で結びつけるかをあれこれ考えているときに、その解釈が巧く行ったり行かなかったりして、『中動態の世界』の前掲の一文を思い起していた――という訣なのだった。

中国古典を読むために―中国語学史講義

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  • 作者:頼 惟勤
  • 発売日: 1996/03/01
  • メディア: 単行本
琴棊書画 (東洋文庫)

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  • 作者:青木正児
  • 発売日: 1990/08/05
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*1:手許のは台湾・新興書局刊(1971)で、「國学基本叢書」という影印本シリーズの一冊。

*2:いわゆる『詩経』のこと。

*3:いわゆる『書経』のこと。

*4:手許のは、台湾・世界書局刊(2012年五版)の「經學叢書」の一冊、『爾雅注疏及補正附經學史五種』所収の影印本。

*5:手許にあるのは中華書局版の第2版(2004年刊)。なお、書名の「助字」が「助辞」を指すのでないことは夙に青木正児が指摘していて、「彼(劉淇)のいわゆる『助字』は虚死字であって、本書は虚死字を採集して弁ずるを主旨としたのであった」(青木正児「虚字考」『琴棊書画』平凡社東洋文庫1990所収p.168,初出は1956.4「中国文学報」)と述べている。

*6:邢ヘイは王よりも200年近く前に生れているはずなので、参照できる環境にはあったとおもうが、王は『爾雅注』しか見ていないと考えられる。

*7:もっとも、『爾雅』釋訓篇などには、「朔北方也」「蠢不遜也」といった例も有る。