『完落ち』ー業界用語のことなど

 赤石晋一郎『完落ち―警視庁捜査一課「取調室」秘録』(文藝春秋2021)は、“伝説の刑事”大峯泰廣氏の活躍を描いたノンフィクションである。他の本で読んだり(第三章「猥褻」)、テレビで見たり(第五章「信仰」、第八章「迷宮」)した挿話もあったものの、巻措くあたわざる面白さで、文字どおり「イッキ読み」したのだった。
 加えて、辞書好き、言葉好きとしては、所々にいわゆる隠語、業界用語が紹介されていることも興味深く感じた。その例を挙げておこう。

 “マグロ”というのは「仮睡盗(かすいとう)」のことを指す刑事独特の隠語だ。仮睡盗とは駅構内などで酔い潰れ寝ている人間から財布などを抜くコソ泥のことだ。市場に転がされている冷凍マグロのように動かない酔客を狙い犯行に及ぶので、刑事の間でマグロと呼ばれるようになったそうだ。(p.43)

 多分、上記から派生した意味のひとつなのだろうが、「マグロ」は犯罪者側からは、「睡眠薬等で客の身ぐるみをはがしてしまい,路上に放置することを『マグロにして放ってこい』という」(下村忠利『刑事弁護人のための隠語・俗語・実務用語辞典』現代人文社2016:104)といった用法でも使われるようだ。
 そのほか次のような業界用語、隠語が出て来る。

 事件化はしていないものの事件である可能性が高い案件を捜査することを、「掘り起こし事件」という。(p.59)

 そう云えば、スコップやシャベル(「掘り起こす」道具だ)を意味するscoop(スクープ)は、まさに「特ダネ」のことだった*1

 旅慣れているな、と大峯は感じた。「旅慣れる」とは、前科が多く刑務所暮らしが長いという意味だ。何をしでかしてもおかしくないタイプだろう。(p.107)

「一課長! 下川の様子がいつもと違います。この場所については慎重に話をするんです。私に『引き当たり』をさせてもらえませんか!?」
 引き当たりとは、つまり現場検証のことだ。
「そうか。やってみようじゃないか」
 寺尾*2は即答した。(pp.159-60)

 著者の赤石氏は、「引き当たり」をごく簡単に「現場検証」と言い換えているが、重要なのは、「被疑者などを現場へ連れて行く」という点である。ここでも、その下川(仮名)という証人を現場に同行させて重要な証拠を得るという展開になっている。
 前掲の下村著は、「引き当たり」について次のように説いている。

被疑者を犯行現場などに連行して,犯行時の裏付け捜査をすること。「明日,娑婆の空気を吸わしたる。引き当たりやぞ」と刑事は値打ちをつける。かつては,引き当たりに行った帰りに刑事は「コーヒーでも飲め」と缶コーヒーなどを被疑者におごっていたが,このような利益供与は少なくなっている。「サービス悪いでんな」とふてくされる被疑者もいる。(p.128)

 ちなみに、ニュースなどでよく耳にする「現場検証」という表現は、どうもメディア用語であるらしい。古野まほろ『警察用語の基礎知識―事件・組織・隠語がわかる!!』(幻冬舎新書2019)には、以下の如くある。

 ところがこの「現場検証」という言葉も、業界ではあまり聞きません。意図して使うことはまずないと思います。「容疑者」「重要参考人」同様、解りやすさその他の理由から一般化したメディア用語だと思います。
 ここで、捜査でいう検証――音節が少ないので、業界用語でもケンショウ――とは、確かにメディア用語でいう現場検証を含みますが、実はもっと幅広な概念です。すなわちケンショウとは、業界の堅い言葉でいうと、捜査員等が「①五感の作用により、②身体・物・場所の、③存在・性質・状態を認識する強制捜査」のことです。(p.54)

 なお、隠語に関しては、約3年前に「再び『けいずかい』、あるいは掏摸集団の隠語について」という記事を書いている。また、特に警察関係の隠語については、約8年半前の「読書メモ抄」で触れたことがある。
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 7月1日にフジテレビ系で放送された「奇跡体験!アンビリバボー」の「実録!戦慄の国内事件」で、『完落ち』第六章「自演」の内容が映像化され、大峯氏も出演していた。『完落ち』の紹介映像もあった。(8.2記ス)

*1:同じ語に由来するものでも、「スクープ」「スコップ」と形を違えることで日本語としての意味に差異が生じる例としては、「トラック」「トロッコ」、「スティック」「ステッキ」などがある。

*2:当時の捜査一課長・寺尾正大氏。寺尾氏が今年一月に亡くなったことは、赤石著「あとがき」の追記でも触れられている(p.235)。「大峯氏が最も敬意を持っていた上司だった」といい、本文中にも何度か登場する。4月24日付朝日新聞夕刊の「惜別」欄では、指揮官として徹底的に報告書を読み込む姿勢や、「被害者の気持ちを忘れずに捜査すれば、難事件も解決できる」を信条としたことなどが描かれている。