野口冨士男「かくてありけり」のことなど

 前回の記事で紹介した宇野浩二『思い川』は、野口冨士男の「かくてありけり」にも(やや唐突な形で)出て来る。関東大震災直後、市民の避難状況を描写したくだりである。

 私たちだけではなく、富士見町の花柳界の連中はことごとく馬場へ避難した様子で、みるみるあの広場は人間と荷物とで埋めつくされた。
 宇野浩二の『思ひ川』によれば、作者自身とみられる主人公牧新市の愛人で富士見町の芸者だった三重次のモデル村上八重もその一人だったようだから、私は何時間か彼女とおなじ場所に避難していたわけだが、九段坂上の灯明台のあたりへ行ってみると坂下の神田方面は蒼みを帯びた灰色の煙につつまれていて、その煙のなかから大八車をひいたり、箪笥や夜具などの大荷物を背負ったおびただしい数の避難民があえぎあえぎのぼって来るのが見えた。(「かくてありけり」『しあわせ/かくてありけり』講談社文芸文庫1992所収:98-99)

 宇野の『思い川』から当該部分を引くと、

 それから、牧は、友だちと一しょに、一たん本郷三丁目にもどり、壱岐坂をおりて、いたるところに、電信柱がたおれ、電線が地上にもつれている、焼けあとの、道のない道を、たどった。そうして、ある堀ばたにそうている坂をのぼって、高台の端にある、『なにがし』神社の鳥居の下で、一服しながら、下町の方を眺めると、目の下にある神田へんから、遠く、日本橋、本所、深川あたりにかけて、一めんに焼け野が見わたされた。
 その時、ふいに、「先生、」と、うしろから呼ぶ声がしたので、牧がふりむくと、思いがけなく、紺がすりの著物(きもの)をきた三重次が、牧の顔を見あげながら、頰に微笑をうかべて、立っていた。
「君んとこは……」と牧が云うと、
「まる焼けです、……」と云ってから、三重次は、『なにがし』神社の後の方を指さしながら、「……あそこに、みな、避難しております、」と云った。
(『思い川・枯木のある風景・蔵の中』講談社文芸文庫1996:31)

となっているのだが、野口によるとこの「『なにがし』神社」は、靖国神社、ということになる。
 「かくてありけり」でもうひとつ印象深いのは、大正十一年の夏、房州・保田の松林の外れで、主人公が歌人原阿佐緒と思しき女性に声を掛けられるところである。野口自身、「あるいは私の白昼夢にも似た錯覚であったかもしれない」(p.82)と述懐するように、それはまさに、夢中の一場面を描いてでもいるかのような不思議な一齣である(ちなみに連城三紀彦は、原をモデルとした長篇小説『残紅』を書いている*1)。
 さて、野口冨士男の文章は、十数年前からぽつぽつ読んではいたが、特にここ4~5年ほど特に集中的に読んでいる。その直接の契機になったのは、佐伯一麦氏の次の文章である。

 格別文学青年でもなかった私が、野口氏の作品に親しむきっかけとなったのは、昭和五十三年、当時「週刊プレイボーイ」にエッセイを連載していた中上健次氏の文章による。十八歳の私は、田舎の仙台から東京に出て来たばかりだった。
 「小説家として生粋の気質を持った人」「一見地味ではあるが、それだけに水増しは一切ない」という中上氏の惹句に何故か触発されるところがあって、刊行されたばかりの『かくてありけり』を手に取った。熱中した。それは、実質感のある何かだった。都会とは、まがいものばかりが横行するところだ、と苛立っていた十八の身体に、その小説は真っすぐ入り込んで来た。(「生命の樹を仰ぐ――野口冨士男の小説」『麦主義者の小説論』岩波書店2015:105)

 なお中上は、野口の「なぎの葉考」の取材旅行に同行しており、その「なぎの葉考」は中上=間淵宏の人柄について、「巨漢というより肥大漢とよぶほうが適切な間淵には、粗野な外見にもかかわらず、人間的にもこまかく神経のはたらくところがあった」(『なぎの葉考・少女―野口冨士男短篇集』講談社文芸文庫2009:125)と書いている。
 もうひとり、佐伯氏の文章(前掲『麦主義者の小説論』や『渡良瀬』など)に触発されて、わたしがよく読むようになったのが和田芳恵なのだが、野口は和田とも親交があって、たとえば野口のエセー集『断崖のはての空』(河出書房新社1982)には、「和田芳恵さんを悼む」「和田芳恵 友人代表弔辞」「和田芳恵を憶う」「和田芳恵との交友」が収められている。
 そもそも野口と和田とは、私小説作家(両人とも徳田秋声を特に好んだ)ということのほかに、学究的な側面がある*2ところまでよく似ている。そういう意味では、今年の3月に、野口冨士男『なぎの葉考・しあわせ』と和田芳恵『暗い流れ』とが小学館P+D BOOKSから同時に刊行されたのは、象徴的な出来事だったといえる。また佐伯氏の前掲書には、「私小説という概念――和田芳恵と『暗い流れ』」「生命の樹を仰ぐ――野口冨士男の小説」が並べて収められているのだが、同様に、たとえば鈴木地蔵『市井作家列伝』(右文書院2005)にも、「野口冨士男の志操」と「和田芳恵の技芸」とがやはり続けて収められている。この事実は、なかなかに興味ふかいことである。
 さて野口の作品に話を戻すが、緻密な風俗描写が光る『風のない日々』(文藝春秋1981)もよかった。淡々と日常を描写しながらも、主人公をやや突き放したような形で終幕を迎えるところがまた良い。これを読んだのも、やはり佐伯氏の下記の文章に刺戟を受けたことが大きい。

 まさに、秋声的、野口版『新世帯』といえる『風のない日々』を私は静かな熱狂とともに読んだ。はじめにエピグラフとして引用されている佐多稲子の言葉、「しかしこのころは、一般にいわゆる暗い時代であった。(略)市電にぶらさがる男たちの表情に明るさはない。女たちのつつましさも何かを押えている」に要約される戦前の「暗い時代」の一組の夫婦の愉快ならざる夫婦生活をくすんだ色合で描いたこの一編には充実したものの感触があった。さらに、こんな箇所――
「恋愛から家庭をきずいて離別する男女がいるいっぽうには、見合いで結ばれてむつまじい夫婦生活をすごす者もいるが、愛情のない夫婦生活もある。が、しかし、愛情のないことが、ただちに離婚に結びつくとばかりかぎったものでもない。そういう夫婦が、しかも無数にいることを信じないのは、未婚の男女だけである」
 当たり前のことかもしれないが、そんな当たり前のことをはっきりと認識させてくれる小説は少ない。そうして、その当たり前のことが、明確なもののイメージで描かれるとき、それがどんな暗い認識でも、読むものに充実感を与えてくれるのではないだろうか。(佐伯前掲pp.106-07)

 『風のない日々』は、近隣の古書肆で拾ったのだが(500円だった)、同じ本屋では『なぎの葉考』(文藝春秋1980)400円や、『海軍日記―最下級兵の記録』(文藝春秋1982)500円も拾った。
 後者『海軍日記』は、1958年に現代社から書き下ろしで刊行された作品の新版なのだが、このたび中公文庫に入った。その背を見ると、「の 2 3」とあるから、『わが荷風』(中公文庫1984)、『私のなかの東京―わが文学散策』(中公文庫1989)に続く中公文庫入りということになる。
 とりあえずざっと確認すると、註釈部もそのままの様だ。この日記作品は、本文そのものよりも(野口は上官に知られないよう、たいへんな苦労を重ねながら日記をつけていたようだ)、後から補完的に附された註の部分こそむしろ読んでおもしろく、『標準海語辞典』を引用しての術語の解説など、ことに興味をひかれる。
 ちなみに、冒頭の「応召、入団」の昭和十九年九月十四日條の註釈部には、

 父と母とは横須賀へ先まわりしていて、海兵団の入口にあたる稲楠門の所まで見送ってくれた。「死ぬんじゃないのよッ」と私の背後から声を掛けた母の髪は額に乱れていた。身だしなみのよかった母には珍しいことであった。(文庫版p.19)

とあるが、このくだりは「かくてありけり」にも見える。これもやはり印象的な一場面だったので、以下に引いておく。

 横須賀駅から海兵団までは、徒歩でも十分とはかからない。稲楠門という地点から先は桜並木の海軍道路で、そこからは一般市民の通行が禁じられていた。団門はそれよりさらに奥にあったが、引率されて稲楠門へさしかかったとき私はギクリとした。父と母が私より先まわりして横須賀へ来ていて、身を寄せ合うようにしながら立っていたのである。
 三十年以上も以前に夫婦ではなくなっていた二人が、そうしてそこに立っていたことは、私という息子があったためには相違なかったものの、姉や私がいなくても二人の間には誰にも引き裂くことのできぬなにものかがあったのではなかろうか。そうとしか考えようのない機会に私はもういちどめぐり合うことになるのだが、そのとき母が叫んだ言葉も、私には生涯忘れることができないものであった。
「夏夫ッ、死ぬんじゃないのよ」(「かくてありけり」、前掲書pp.214-15)

 野口は戦時下のみならず、復員後も日記を書き続けており、残された帳面は厖大な量にのぼる。このことについては、野口の息・平井一麥氏による『六十一歳の大学生、父 野口冨士男の遺した一万枚の日記に挑む』(文春新書2008)が詳しく述べるところであった。

 日記を調べてみると、昭和八年からはじまっていて、十五年半ばから十九年半ばまでの中断はあるものの、以後、平成五年の死去寸前まであることが判明した。
 父は、太平洋戦争末期の昭和十九年九月に三十三歳(略)という年齢のいわばロートル兵だった。しかも、昭和六年満二十歳の徴兵検査で、「徴集ヲ免除シ第二国民兵役ニ編入相成候条此旨通知ス」という「徴集免除通達書」を受取っていて、「徴兵免除」になっていたにもかかわらずの「徴兵」で海軍に召集され、敗戦直後の二十年八月二十四日に復員した。この間父は四冊の小型手帳に、トイレに隠れたり防空壕に避難したときに日記をメモした。これに注釈を加え三十三年『海軍日記』として現代社から発刊されたが、倒産して絶版になっていたのを、五十七年文藝春秋新社から『海軍日記―最下級兵の記録』として再刊された。(p.39)

 なお、復員後の約一年半にわたる日記も、『越ヶ谷日記』(越谷市教育委員会)と題して2011年に(野口の生誕百年を記念して)刊行されているものの、そのほかの大部分は未刊のままである。
 このたびの『海軍日記』の文庫入りは、野口の生誕110年を記念したものということになるが、これよりもさきに、平井一麥・土合弘光ほか編『八木義徳 野口冨士男 往復書簡集』(田畑書店2021)が出ている。八木も野口と同年で、いわば盟友関係にあった間柄だが、生涯の長きにわたってここまで手紙でのやり取りが続いたというのも非常に珍しいことだろう。
 最後に、八木が野口の「かくてありけり」の感想を述べた書簡から一部を引いておく(1978年3月2日の日付がある)。

 ただいま三月二日ちょうど午前一時です。これが貴兄のお作「かくてありけり」を讀み終った時間です。
ある興奮でどういう感想を述べたらいいのか頭が混乱しています。(略)
一体これが「小説」というものなのか?たしかに「小説」にはちがいない。しかしここには「小説」を越えた何かがある。その「何か」とは何なのか?
小説には「芸」というものがある。たしかにここには「芸」がある。しかしここには「芸」を越えた何かがある(以上、2カ所の「越えた何か」に傍点―引用者、以下同)。その「何か」とは何なのか?
ここにはたしかに「人間」が描かれている(「描かれて」に傍点)。しかしここには「描かれている」という以上の何かがある。その「何か」とは何なのか?
この三つの「何か」について、いまのぼくは明確な答を出すことができない。
しかしお作を讀み終ったただいまの時間のぼくの頭はこの三つの「何か」でほとんど充満している、といってもいい。小説というものを讀んで、こんな感じになったことは何年ぶりだろう、いや何十年ぶりだろう。
「おもしろく讀んだ」などとは口が裂けても言えない。かといっておもしろくなかったのか?全くその反対だ。
「おもしろくて、おもしろくて……」いや、ここでも「おもしろさ」を越えた何か(「越えた何か」に傍点)がある。
その「何か」とは何なのか?(前掲p.123)

*1:連城は、「わが人生最高の10冊」の第8位に瀬戸内寂聴『美は乱調にあり』を挙げており(『女王(下)』講談社文庫2017:322-23)、このような作品に刺戟を受けて、実在の人物をモデルとした「恋愛小説」をものしたのかもしれない。

*2:和田は樋口一葉研究でも知られるが、野口はいわゆる文学史、文壇史的な研究で知られ、『徳田秋聲傳』『感触的昭和文壇史』などの著作がある。「かくてありけり」にも、文芸雑誌創刊の意義を文学史的な観点から位置づける記述が随処にある(文芸文庫版p.118、p.167など)。