鶴岡征雄『私の出会った作家たち―民主主義文学運動の中で』(本の泉社2014)の主要登場人物のひとりに、戸石泰一(といし・たいいち)がいる。作家にして日本民主主義文学同盟(現・日本民主主義文学会)の幹事、そしてまた都立高校の教員でもあった。
同書の第九章「無頼派・太宰治の弟子、戸石泰一の晩年」はこの人物に割かれているし、鶴岡氏が吉行淳之介のもとをたずねてゆくきっかけは戸石の発言によるものだし、戸石歿後、彼の作品「ドッチデモ・イイ」の掲載誌を鶴岡氏が探しあぐねて島尾敏雄にコピーを送ってもらう、という挿話なども出て来るし、同書の特に後半部で事毎に顔を出す(名前が出て来る)のが戸石だ。
前掲の章題が示すように、戸石は、「太宰の弟子」であった。文中に略歴が記されているので一部を引いておく。
戸石泰一は一九(大正8)年一月二八日、仙台市生まれ*1、東京(帝国―引用者)大学国文科を半年繰上げで卒業後、戦争にとられて、南方にやられた。「ポツダム中尉」(ポツダム宣言受諾を機に一階級昇進)となって復員、四八年二月、仙台第一高等学校の教師に就くが、その四ヵ月後、師・太宰治が山崎富栄と玉川上水に入水、六月一九日に遺体が発見された。戸石は急遽、上京して三鷹の太宰宅に泊まり込んだ。北海道夕張の炭鉱夫になっていた太宰の弟子・小山清も上京してきた。混乱する太宰宅でふたりは出会い親しくなった。
七月、八雲書店から刊行中の『太宰治全集』の仕事を委嘱され、学校は退職した。ところが、八雲書店が左前になり給料も滞りがちの最中、妊娠中の妻・八千代が長女・千鶴の手を引いて仙台から上京してきた。友人宅に居候の身となっていた戸石は、戦後の住宅難の中、三鷹町下連雀三一二番地に部屋を借りるのだが、これがとんでもない物件だった。(略)吹けば飛ぶような“鳩小屋”で次女の万里が生まれた。名付け親は阿川弘之。赤貧洗うが如きのありさまだった。
それから五年、書きさえすれば“アタル”と信じていた小説はさっぱり評判にならなかった。一家の貧苦を見かねた亀井勝一郎のおもいやりで教職に就いた。作家・戸石泰一は小説「天才登場」を最後に、“かたぎ”(本人の弁)になった。都立豊島高等学校定時制の時間講師に転じたのである。
そして、東京都高等学校教職員組合(略称・都高教)副委員長を一〇年務めた後、病気となって労働運動から身を引いた。
一八年ぶりの小説、それが、「そのころ」(『民主文学』71年4月号)である。作家にカムバックするなり、つぎつぎと作品を書き出した。それが『青い波がくずれる』となって、新たな門出を祝う出版記念会となったのである。(略)
しかし、この一八年間に友人たちは、すでに作家として功成り名を遂げていた。東大の同期、阿川弘之は志賀直哉に師事、師の推挽で作家デビュー、一家を成していた。千谷道雄は『秀十郎夜話』(文藝春秋社、58年刊)で読売文学賞受賞、古山(高麗雄―引用者)は仙台・第二師団歩兵第四連隊に入営した折からの戦友だが、七〇年、小説「プレオー8の夜明け」で芥川賞を受賞していた。(pp.160-63)
上引にもあるように戸石は、かの古山高麗雄とは「戦友」の関係にあって、戸石の葬儀で古山は葬儀委員長を務めたようだ(鶴岡著p.175)。玉居子精宏氏はその著書で、古山と戸石との関係について次のように述べている。
古山には第四聯隊で得た唯一の友人がいた。太宰治の弟子だという戸石泰一である。彼は一九四二年に東京帝国大学文学部国文科を卒業している。阿川弘之とは遊び仲間の文学青年である。
古山は戸石には本音をある程度話せた。休日には彼とともにその実家に行った。家には戸石の妻(入隊前に結婚した)と母がいた。古山は戸石の妻に頼み、ラブレーの『ガルガンチュワ物語』の購入を頼み(ママ)、次の外出日に受け取って兵営内に持ち込んだ。兵舎では消灯八時半、起床六時半であったが、勉強熱心な者、幹候試験を受ける者は夜、兵営内の一室で学習が許されていた。古山はそこで文学書を読んでいた。
文学書を外で調達して持ち込むなど、見つかれば制裁を受けると覚悟していた。床下に隠したが、もし露見したら戸石のことは話さず、自分で購入したと言うつもりであった。
一方の戸石は、自著の『消燈ラッパと兵隊』(KKベストセラーズ)によれば、岩波文庫の『好色五人女』を持ち込んだところ、年少の少尉に見つかって殴られた。
戸石が見ると、古山は上級の者から目をつけられやすい存在にほかならなかった。植民地育ちだから東北の言葉を話さず、高等学校に学んだ「エンテリ」であり、始終哀しそうな顔をして、周囲になじまないからである。(玉居子精宏『戦争小説家 古山高麗雄伝』平凡社2015:51)
同年(一九七八年―引用者)『季刊藝術』第四七号(一九七八年一〇月)で(古山の)「点鬼簿」の連載が終わった。発行の一〇日後、歩兵第四聯隊に入隊したときからの親友、戸石泰一が死んだ。
軍隊で唯一心を開いた相手であり、『芸術生活』への転職の契機をつくった人である。『芸術生活』で遠山一行に出会い、『季刊藝術』へ、そして作家へ――戸石は古山が小説家になる道筋の起点をつくった存在とも言える。
二年前、仙台の兵営が取り壊される折にはともに出かけた。あと一〇年は生きようと話し合ったが、持病の心臓の発作から入院していて、一度見舞ったあとは面会謝絶になっていた。死の日、古山は青山の仕事場で小説の構想を練っていたが、訃報に接して狼狽した。
戸石は教職員組合の活動に取り組むなど、政治的には革新の立場だろう。保守と目された古山だが、そうしたイズムで人を分けることの無意味さは日頃語るところであり、だから左派の『民主文学』にも追悼文を寄稿した。古山の人間関係はあくまで個人同士のものであった。(玉居子著pp.180-81)
これらを読むと、古山にとって戸石がいかに大きな存在であったかということがわかろうというものだ。
しかるに一方で、小説家としての戸石は不遇であった。晩年にはようやく初めての小説集『青い波がくずれる』を上梓したものの*2、さほど耳目を集めたわけではなかったらしい。
ところが昨秋、その『青い波がくずれる』が突如として新装復刊された。戸石泰一『青い波がくずれる―田中英光/小山清/太宰治』(2020本の泉社)がそれである。これはありがたいことだった。それまでに戸石の文章は、鶴岡著に引用されたものと、それから、「東北文学」(1948.8)初出の太宰の追悼文「仙台・三鷹・葬儀(抄)」(河出書房新社編集部編『太宰よ! 45人の追悼文集―さよならの言葉にかえて』河出文庫2018所収)*3だけしか読んだことがなかったから。
復刊なった『青い波がくずれる』の奥付をみてみると、「新装改訂版第1刷」という扱いになっている。また、解説の「戸石泰一さんのこと」を鶴岡征雄氏が執筆している。
『青い波がくずれる』は、「青い波がくずれる――田中英光について」「そのころ――小山清とのこと」「別離――わたしの太宰治」の三篇を収めていて、副題からもわかるように、これらはそれぞれの作家のポルトレになっており、また、戸石自身が生前の彼らとどう関わったかを描いた私小説にもなっている。惜しむらくは、刊行を急いだ所為か、誤記が目につくこと。たとえば「古田晁」が2箇所とも「古田晃」となっていたり、『ろまん燈籠』が『うまん燈籠』となっていたり(p.212)する。あとは推して知るべし。
もっとも、いずれも読んで面白いことにかわりはなく、とりわけ興味深く読んだものを挙げるとすれば、「そのころ――小山清とのこと」であろうか。たとえば、次のような一節がある。
つきあってみると、小山君は、ただ篤実なだけの人ではなかった。オヤと思うことも、いろいろあった。
たとえば、小山君の将棋は、急戦模様の棒銀一本槍であった。はじめて将棋をさしたとき、小学生のように単純に、棒銀で突込んでくるので「やはり小山君はマジメなんだな」などとたかをくくっていたところ、アッという間に寄せ切られてしまった。二番目は、用心して堅固な矢倉に組んだつもりだったが、矢次早の攻撃で、これももろくくずされた。せっかちな急戦法にみえて、同時に強靱なのだ。その性急さも強靱さも、私が小山君の人柄と勝手に考えていたものとは、全くちがったものだった。
ある夏の日は、井の頭公園のプールに行ったこともある。小山君の方からわざわざさそいに来たのである。小山君は、正式(?)の褌をしめ、黒筋のはいった水泳帽も用意してきた。私は、途中で吉祥寺の洋品店の店頭にぶらさがっていた、安物の簡便褌を買った。
井の頭プールの水は、湧き水をひいているとかでひどく冷たかったが、小山君はあざやかな抜き手をみせてくれた。入ると心臓がギュッとちぢむような思いがして、私はすぐあがった。ところが、心臓が丈夫でないはずの小山君の方がいつまでも悠々と泳いでいる。私もちょっとした水泳自慢で、小山君のさそいにもすぐ応じて、スタイルのいいところを見せてやろうなどと思っていたのだが、これには、すっかり気押されてしまった。小山君にも、そんな私を、ちょっと尻目にみながら、泳いでいるというふうなところがみえた。(略)
「僕はいまの人が忘れて顧みないような本をくりかえし読むのが好きだ」(『落穂拾ひ』)と小山君自身が書いているが、古本屋の均一本の山の中から、本を選びだすのがうまかった。ゴミの中に埋れているときは、何ということもないただの雑本が、小山君がとりあげて手の中にすると、オヤと思う本に変っているという工合である。『落穂拾ひ』には、こうして『聖フランシスコの小さな花』と『キリストのまねび』という本を二冊五十円で買ったと書いてあるが、それが時には、アガサ・クリスチイの探偵小説になり、ワイルドの『獄中記』になり、山川弥千枝の『薔薇は生きている』になり、あるいは、ジャック・ティボーの自伝「ヴァイオリンは語る」になった。(「そのころ――小山清とのこと」『青い波がくずれる』本の泉社2020:147-49)
ちなみに「『落穂拾ひ』には~」のくだりについてだが、小山の文章は、正確には次のようである。手近な文庫本から引く。
僕はまた彼女の店の顧客(おとくい)でもある。主として均一本(きんいちぼん)の。僕はまだ彼女の店で一度に五拾円以上の買物をしたことはない。僕が初めて、彼女と近づきになったのも、均一本の中に「聖フランシスの小さき花」と「キリストのまねび」を見つけたときだ。彼女は「小さき花」の奥附がとれているのを見て、拾円値引をしてくれて、二冊で五拾円にしてくれた。僕はいまの人が忘れて顧みないような本をくりかえし読むのが好きだ。(小山清「落穂拾い」『栞子さんの本棚―ビブリア古書堂セレクトブック』*4角川文庫2013所収:51)
なお、こちらもついでながら、ではあるが(小山の「釣果」のひとつとして紹介するわけだが)、小山は随筆「私について」のなかで、古本屋の「均一本の中にアランの「幸福論」があるのを見つけ、三十円奮発して買って帰った」(小山清『風の便り』夏葉社2021所収:59)と書いているし、戸石が言及したワイルドの『獄中記』*5に触れてもいる(同p.61)。
さて戸石の「そのころ」についてもうひとつ、というよりも、この作品で特に読みどころとなるのが、ささいなきっかけから生じた小山との不和を描くくだりである。一部を引く。
太宰の最初の「文学碑」が、山梨県南都留郡河口村の御坂峠にたてられ、建碑式が行われたのは、昭和二十八年の十月三十一日のことだ。
早朝三鷹を発って(そのころ、甲府行きの電車には三鷹始発というのがあったように思う)まず、大月に向ったが、その日の行事で、小山君は、太宰の“弟子”の一人としてあいさつをし、私は、用事で行けない亀井(勝一郎―引用者)さんの祝辞を、代読するという役まわりになっていた。その何日か前、亀井さんによばれて、このことをたのまれた時には、何でもなかったのだが、そのうちに、だんだん、小山君に“差をつけられている”という思いに、とらわれだした。
亀井さんの「祝辞」は、小山君がもってきてくれることになっていた。車中で、小山君がそれを私にわたそうとしたとき、私は、いきなり「それも、小山さんが読んでよ、それが順序なんですよ」という論理もなにも通らない、めちゃくちゃなことを、ぶっつけてしまった。
私は、頭に浮かぶさまざまな思いで、ひとり興奮し、きれぎれの断片を脈絡もなく、相手に投げつけてしまうことがある。たぶん「太宰の“弟子”の序列の順序で、小山君があいさつをする代表に選ばれたのなら、亀井氏の代読も、亀井氏に親しい順番で、小山君にやってもらいたい。そうではなくて、小山君があいさつ、私が代読というのは、二人の間に序列をつけることではないか。私は承服しがたい」というようなことが、言いたかったのではなかったかと思う。
脈絡がなくても何でも、これで、私がこれまで小山君に対してためていた感情を、この上もなく露骨にさらけだしてしまった、ということだけは、はっきりした。
小山君も、困惑と同時に、憤りの表情を強くにじませていた。(戸石著pp.164-65)
このあたりのことについては、鶴岡著の第九章第二節「ライバル小山清との確執」でも述べられるところである。
戸石は、こういったプライドと自己嫌悪との間を揺れ動く屈折した感情を描くのが巧く、「別離――わたしの太宰治」でもそれは活かされているようにおもう。
ところでわたしは、戸石の「別離」と、鶴岡氏の解説とを読んで初めて、太宰に戸石をモデルにした「未帰還の友に」という作品があるという事実を知り、『太宰治全集8』(ちくま文庫1989)で読んでみた。
「別離」には、この作品を戸石が「ザラザラした粗悪な紙に印刷した、うすっぺらな雑誌」(p.222)で読み、自分をモデルにしていることにすぐに気が付いて「こんな思いで、私を待っていてくれたのだ」(p.224)と心を動かされ、太宰に手紙を書く場面がある。しかし、待ちに待った太宰からの返信は「それだけで嬉しくないことはなかった」ものの、「どこかもの足りないものがある、どこかなにか、そっけない隙間があるようにも思われてならなかった」(p.225)。その太宰からの葉書全文も、作中に併せて引用されているが、これと同じものが、(若干の字句の異同はあるけれども)太宰治/亀井勝一郎=編『愛と苦悩の手紙』(角川文庫1998改訂初版)に収録されている(p.287)。また『愛と苦悩の手紙』には、太宰の戸石あての葉書が、これを含めて三通収められているが、太宰治/小山清編『太宰治の手紙―返事は必ず要りません』(河出文庫2018←河出新書1954)には戸石あての手紙(葉書)は一通も収められていない。
太宰の手紙といえば、「そのころ」にこんなことも書かれている。これも印象に残ったことなので、最後に引いておこう。
太宰に関することでは、私には、もう一つの“前科”があった。
太宰全集(八雲版)の一巻として、書簡集を出すについて、井伏(鱒二―引用者)氏宛のものを、原稿用紙に書き写すことになったときのことである。まだ、三鷹の小屋に友人が同居していたころだ、友人は〈それぐらいの仕事〉はぜひやらせろと言い、自分一人でそれを仕上げてくれた。私は、それをそのまま、井伏さんのところに届けて、みてもらった。
ところが、それにはいくつもの誤りがあった。仮名遣いの誤記、漢字を勝手に略字体にしていることのほかに、致命的なのは――、「いろいろ」というような場合、「いろ\/と書いていることであった。太宰は、全くといってよいほど「\/」という書き方をしないのだ。
「君は、太宰のこんなことも、知らなかったのかね」
と、井伏さんは言われた。きめつけるような言い方ではないだけに骨身にしみた。
(戸石著p.160)
*1:ちなみに、戸石の母シヅの長兄は吉野作造だという(同p.164)。
*2:鶴岡著の第九章は、その出版記念祝賀会と励ます会とを兼ねたパーティーの描写で幕を開ける。励ます会の発起人は、阿川弘之、井伏鱒二、伊馬春部、小田嶽夫、窪田精、霜多正次、檀一雄、丹羽文雄、藤原審爾、古山高麗雄と、錚々たる顔ぶれだ(鶴岡著p.159)。
*3:巻末に、土井虎賀寿(青山光二『われらが風狂の師』のモデルとしてむしろ有名)とともに戸石の「著作権継承者の連絡先が判明し」なかったと書かれている。
*4:「落穂拾い」は、三上延氏の「ビブリア古書堂の事件手帖」シリーズ本編の第二話に、ピーター・ディキンスン『生ける屍』などと共に登場する。新潮文庫版『落穂拾ひ・聖アンデルセン』のうちの一篇としての扱いだ。私が初めて「落穂拾い」を読んだのは、今から16年ほど前のこと、当時出たばかりの講談社文芸文庫版『日日の麵麭・風貌―小山清作品集』によってであった。
*5:本屋店頭で一、二度手に取って見ただけだが、昨秋、詳細な註を附した新訳版が出た。