青春の日記の公刊相次ぐ

 昨年10~12月、著名人が十代後半に誌した日記の公刊が相次いだ。心の赴くままぱらぱら捲っていると、それぞれに、十代ならではの煩悶や鬱屈、そして抑えがたい向学心や旺盛な好奇心が垣間見られて面白い。
 たとえば田辺聖子は戦時下にあって、事あるごとに「勉強!」と書きつけ、自らを鼓舞している(以下『田辺聖子 十八歳の日の記録』文藝春秋2021.12刊から)。

 勉強! 勉強! 灯は燦然と彼方に在って輝いている。私はその灯をめがけて勉強する。たとえ戦争であったにしても私は私の行くべき道をしっかりと知っている。(1945.4.10,p.23)

 勉強! 勉強!
 青年の時代の美しさは勉強にある。旺盛な智識欲に燃える所にある。知りたい、憶えたい、究めたい、という純粋な美しい欲望が無限にひろがり、果しなく膨らんでゆくその楽しさを何にたとえよう。(1945.4.27,p.45)

 田辺は同年6月23日にも「勉強したい」(p.79)と記し、また7月9日には、「今、私はあらゆるものを吸収したくて体がフクレ上がっている」(p.90)とも書いている。
 さらに翌1946年5月2日には、「私の若い日、それは泣きたくなるほど尊いと思う」(p.134)と記し、陶淵明(陶潜)の「盛年不重來、一日難再晨」(雜詩十二首の其一)を引いたうえで、「(若い日を)無意義にあらしめたくない」と結んでいる。ちなみに偶ま今月、訳し下しの林田愼之助訳注『陶淵明全詩文集』(ちくま学芸文庫2022)というのが出ており(これはまったくのノーマークであった)、当該の詩はpp.311-12に収める。
 また餘談だが、1945年5月14日の條には、「私は二、三日前から略々察していたが、全く夢の様であって、とても本当のことと思えない」(p.54)とあって、「略々」に「ほぼほぼ」とルビが附されている。しかし、「ほぼほぼ」はあくまで現代の俗語。したがってこれは、編集サイドの単純なミスだろう。「略々」の訓みは「ほぼ」でよいはずだ。
 さて一方、1953年元日の「新年の所感」で「今を楽しく」過ごさなければ、と記したのは立川談志である(以下『談志の日記1953 17歳の青春』dZERO2021.11刊から)。

 今を楽しくくらさなければうそだと思う。これはけしてアプレゲールの精神ではない。しかしそれではいけないのであるからやんなっちまう。(p.7)

 以降談志は、若さゆえの切迫感からか、「する事がありすぎる」と何度も日記に記すことになる。

 すこし本を読まねばいけないと思うし、する事がありすぎる。(1953.3.24,p.57)

 する事が有りすぎて困る。(4.21,p.73)

 する事がありすぎる。(4.24,p.75)

 そのほか、青年期らしく?異性を意識した記述も処々に見られるし、下記のように意外なロマンチストの一面も覗かせる。

 (青春は)もっと明るくロマンチックな悲しいものであると思ひ、シャクにさわる。(5.23,p.91)

 しかし青春の貴重な時間を犠牲にしている、という感覚は、強烈な自負心と綯交ぜになり、やや屈折した感情も生む。

 目白では女学生、上野竹台高校では男女高校生がバレーをしていた。うらやましい。自分はこう云う時代を去ったのかと思うと淋しい。べんとうを持って一人で歩いている姿があわれっぽく見えた。馬鹿にするな。高座へ出れば一人前だ。(5.25,p.92)

 満19歳当時の北杜夫は、思索には読書こそが必要だという信念を懐いていた。斎藤国夫編『憂行日記』(新潮社2021.10刊)から引く。

 人は本を読まずに生きていける。
 読まずとも考えればよい。然し実際問題として、本を読まない生活に思索が行われるか。今の時分には否としか云えない。本を読まないだけでその生活はヌカっていると断じて誤りであろうか。(1946.10.15,p.172)

 次のように自己を律する言葉も。

 自分は何と云うなまけものになったか。8月になってから勉強の時間もとらず、自由な気持で本を読む積りだったが寝ている時間の方が多いみたいだ。(同年8.4,p.152)

 さて、そうして日記に目を通していて、特に興味ふかく感じるのは各人の映画の鑑賞記録である。テレビも本放送を開始する前の話で、映画が「娯楽の王様」であったことを十分に窺わしめるわけだが、たとえば北杜夫は『命ある限り』(日記では「生命あるかぎり」。1946.8.21)等、田辺聖子は『噫無情』(1947.1.4〔実際の鑑賞日は1月2日〕)、『アリゾナ』(同年1.19)、『どん底』(同年1.20)、『にんじん』(同年2.5)等々といった作品を観ているのだけれど、談志の観た作品の数は他を圧倒する。1953年6月12日の條には、

 観たい映画が有りすぎて困る。(p.102)

と書いているほどで、同年1月以降の主立った鑑賞作品を挙げてみると(表記は原文ママ)、『一等社員』『次郎長初旅』(1.12)、『ハワイの夜』(1.14)、『彼女の特ダネ』『学生社長』(1.19)、『夏子の冒險』(2.17)、『キリマンジェロの雪』(2.23)、『ライムライト』(2.24)、『まごころ』(3.13)、『百万弗の人魚』(4.18)、『雨にうたへば』(5.13)、『十代の性典』(5.18)、『地上最大のショウ』(5.28)、『シンデレラ姫』(6.11)、『三つの恋の物語』(6.17)、『青色革命』(6.18)、『續思春期』『都会の横顔』(7.8)、『ナイヤガラ』『情無用の街』(7.17)、『無法松の一生』(8.3)、『腰抜け二丁拳銃の息子』『西部の男』(8.5)、『春雪の門』(9.3)、『花咲ける騎士道』(9.24)、『貴女は若すぎる』(9.25)、『誘蛾燈』(10.8)、『終着駅』(10.20)、『禁じられた遊び』(10.26)、『MP』(『腰抜けM.P』)(11.4)、『地獄門』(11.6)……、といった具合。
 そのうち個々の感想をいくつか拾ってみると、次の如くである。

 若藏さんと武藏野館で「雨にうたへば」を見る。時間が気がかりであるが割にゆっくり見て来た。良かった。オコーナーが印象的であった。理屈は云うがミユッジック映画は始めである。仲々悪くない。これからせい\/゛映画を見よう。(5.13,p.85)

 「地上最大のショウ」を観る。豪華絢爛な映画。ストーリイもいやみがなく、二時間四十分を充分楽しませてくれた。映画はこれで良いのだ。何も理屈を云う事はない。(略)やはり映画はいゝ。現実とは大違ひ。少し派手に観よう。寿司を喰うよりよっぽど良い。(5.28,p.93)

 (「禁じられた遊び」に)近来にない感めいを受けた。何もかも実にすばらしい映画だ。涙がにじみ出た。あの主役の女の子は永久に忘れられないであろう。他の恋愛映画なんて見られなくなるだろう。
 しばらく終ってから頭を上げる事が出来なかった。もう一度見たい。しかし、いぢらしくて見られないであろう。(10.26,p.183)

 「禁じられた遊び」がまだ頭にこびりついて離れない。実に大きなショックだ。ストーリイジャあない。あの子供の有り方がなのだ。(10.28,p.184)

 なにも褒詞ばかりではない。

 石田さんの長男と東劇前で待合せ、映画「ライムライト」。チャップリンたいした事はない。観劇中非常に眠い。(2.24,p.40)

 談志ははるか後年に『談志映画噺』(朝日新書2008)を著しており、同書で「ずばり言おう、『一番良かったのは?』とくれば、『雨に唄えば』(’52)である」(p.42)と書き、また、初見時に「たいした事はない」という感想を懐いた『ライムライト』については、次のように振り返っている。

 戦後、チャップリンの映画が久しぶりに来るって話題になった。
 それが『ライムライト』(’52)。喜び勇んで東劇だったかへ見に行って、がっかりしちゃって。御落胆\/。面白くもなんともない。
 そしたらその後、花森安治がいみじくも書いてくれました、「あほらしき名画」と。「あれじゃあまるで新派大悲劇じゃないか。悲しくても、ロールパンのダンス*1をするチャップリンを見たいんだ」とね。あれ読んで、俺も間違ってなかったと。家元、花森安治に救われました。(p.115)

 若き日の和田誠も、『ライムライト』に同様の感想を懐いている。『だいありぃ 和田誠の日記1953~1956』(文藝春秋2021.10刊)の1954年11月4日の條では、「『ライム ライト』なんて愚作」(p.187)と断じた上で、

「ライム・ライト」みたいな中途半端な笑わせ方と泣かせ方――泣かせ方も新派調大悲劇なんてものは沢山だが、(同)

と書いている*2。「新派(調)大悲劇」という喩えがこちらにも出て来るが、当時はこの評言が流行ったのだろうか。
 ちなみに、談志が「良」の一言で済ませた(前掲10.20,p.179)『終着駅』について和田は、

 テアトルハイツ「終着駅」。話はそれほど面白いもんじゃない。だがうまく出来ている。(略)(モンゴメリー・)クリフトはうまい。前ほどきらいじゃなくなった。(1954.2.13,p.41)

と書いている。

*1:『黄金狂時代』(1925)の名シーンである。

*2:ただし脚注によると、和田はかなり後にこれを観なおして、評価を変えたようである。