「酒池肉林」の話

 「酒池肉林」は、日本でも古来親しまれてきた故事である。たとえば『太平記』第三十巻「殷の紂王(ちゅうおう)の事、并太公望の事」には、四字成語の形としては出て来ないが、

 (紂王は)また、沙丘に、廻り一千里の苑台を造りて、酒を湛へて池とし、肉を懸けて林とす。その中に、若く清らなる男三百人、みめ貌勝れたる女三百人を裸になして、相逐うて婚婬をなさしむ。酒の池には、龍頭鷁首(りょうどうげきしゅ)の船を浮かべて、長夜の酔ひをなし、肉の林には、北里の舞、新婬の楽を奏して、不退の娯しみを尽くす。天上の娯楽快楽(けらく)も、これには及ばじとぞ見えたりける。(兵藤裕己校注『太平記(五)』岩波文庫2016:45)

とあるし、曲亭馬琴南総里見八犬伝』にも、

…定包(さだかね)ます\/こゝろ傲り、夜をもて日を続(つぐ)遊興に、士卒の怨をかへりみず、或は玉梓と輦(てぐるま)を共にして、後園(おくには)の花に戯れ、或は夥(あまた)の美女を聚(つどへ)て、高楼に月を翫び、きのふは酒池に牛飲し、けふは肉林に飽餐す。(小池藤五郎校訂『南総里見八犬伝(一)』岩波文庫1990:82)

というくだりが有る。要は度を越えた奢侈を象徴するものとして「酒池」あるいは「肉林」が登場するという訣である*1
 小林祥次郎『日本語のなかの中国故事―知っておきたい二百四十章』(勉誠出版2017)は、劈頭に「酒池肉林」を挙げ、「『酒池肉林』という熟語は贅沢を尽くした酒宴を言うのだが、それにワイセツな気分を感じるのはわたくしだけだろうか。『肉』に女の肉体を想像するからだ」(p.3)と述べる。「ワイセツな気分を感じ」てしまうのは確かにその通りで、たとえば円満字二郎『四字熟語ときあかし辞典』(研究社2018)を見てみると、「酒池肉林」は「重要度☆☆☆実用性☆☆☆格調☆☆☆」と、(なぜか「格調」をも含めて)全ての項目で最高の三ツ星を獲得しているのだが、その本文に、「(故事のもとになった)『史記』の原文の続きにも、全裸の男女を走り回らせたという記述があり、淫らなイメージで使われることが多い。/転じて、“快楽に溺れるすさんだ生活”を指しても用いられる」(p.241)とある。また、武部良明『四字漢語辞典』(角川ソフィア文庫2020←『四字漢語の用法』角川書店1990)も同様に、「日本では、肉を女体の意味とし、みだらな宴会の場合にも用いる。史記にも、前記(「酒池肉林」のもとになった記述―引用者)に続けて、「男女ヲ倮(はだか)ニシテ其ノ間ニ相逐(お)ハシメ、長夜ノ飲ヲ為ス」とあるから、実際はみだらであったことになる」(p.302)とする。冒頭で引いた『太平記』の記述も、そういったイメージを補強するものとしてあるだろう。
 しかし、「酒池肉林」自体にはそのような淫靡な意味合いはない。奥平卓・和田武司『四字熟語集』(岩波ジュニア新書1987)も「『肉林』とあると、なんとはなしに女性のはだかを想像してしまうが、原文にはその意味はない」(pp.100-01)と書いているし*2、竹田晃『四字熟語・成句辞典』(講談社学術文庫2013←1990)は「酒池肉林」をごく簡潔に、

酒を池にたたえ、肉を木々に懸けるような、ぜいたくの限りを尽くした酒宴。豪奢な宴会。(p.249)

と説いていて、本来的な語義としては、この程度の記述にとどめておくのが無難なところだろう。
 ここで、司馬遷史記』の原文を見てみよう。いわゆる「標点本」正史の『史記 一・紀[一]』(中華書局1959.9第1版*3)から殷本紀の一部を引用すると、次のようである。

 帝紂資辨捷疾,聞見甚敏;材力過人,手格猛獸;知足以距諫,言足以飾非;矜人臣以能,高天下以聲,以爲皆出己之下。好酒淫樂,嬖於婦人。愛妲己妲己之言是從。於是使師涓作新淫聲,北里之舞,靡靡之樂。厚賦税以實鹿臺之錢,而盈鉅橋之粟。益收狗馬奇物,充仞宮室。益廣沙丘苑臺,多取野獸蜚鳥置其中。慢於鬼神。大冣樂戲於沙丘,以酒爲池,縣肉爲林,使男女倮相逐其閒,爲長夜之飲。(p.105)

 「酒池肉林」でお馴染みの紂王について、まずは「資辨捷疾,聞見甚敏;材力過人,手格猛獸」(資辨捷疾、聞見甚だ敏し。材力人に過ぎ、猛獸を手格す)と云っているから、その卓抜した能力は認めていることになる。しかるに、「知足以距諫,言足以飾非;矜人臣以能,高天下以聲,以爲皆出己之下」(知は以て諫を距するに足り、言は以て非を飾るに足る。人臣に矜るに能を以てし、天下に高しとするに聲を以てし、以爲らく皆己の下に出でたりと)と、驕慢な性質をも併せ持っていたとする。「好酒淫樂,嬖於婦人」以下に至ってはもう散々な書きぶりで、そのくだりに、「以酒爲池,縣肉爲林,使男女倮相逐其閒,爲長夜之飲」*4が出て来る。
 なお、「以酒爲池」につく注釈には『史記正義』からの引用が見られ、

括地志云:酒池在衛州衛縣二十三里。太公六韜云紂爲酒池,廻船糟丘而牛飲者三千餘人爲輩。(p.106)

とあるのだが、『六韜』のこの記述(「廻船糟丘而牛飲者三千餘人爲輩」)などを踏まえているのが、以下の宮崎市定の言である。

 我々が習う中国歴史の最初に出て来る話は殷の紂王の奢侈であります。紂王は奢侈のために国を滅ぼしましたが、何をしたかと云うと、いわゆる酒池肉林、酒で池を造り、肉の林を構え、あるいは酒糟で岡を築いたとも謂います。そこに招待されて牛のように飲み馬のように食う者が三千人。そういう話が最初に歴史に出て来ます。即ち古代における奢侈の代表は紂王でありますが、そういう行為を今日から見て一体どこが奢侈であったかと云うと、結局分量が多すぎるというだけであります。(略)単に酒池肉林でいわゆる長夜の飲をなしたのであって、当時の奢侈は何でも分量を貴んだものです。(宮崎市定「中国における奢侈の変遷」,礪波護編『中国文明論集』岩波文庫1995*5所収:13-14)

 ついでながら、宮崎は「長夜之飲」について、『史記』殷本紀のほか王充『論衡』語増第二十五を引いているのだが、さらに次のように補足している。

 この長夜の飲とは、普通に朝に達するまで飲みつづける事と解するが、また別に、
〔宋の陸游の『老学庵筆記』巻四〕古のいわゆる長夜の飲、或いは以て旦(あした)に達すとなすは、非なり。薛許昌(せっきょしょう)の宮詞に云う、画燭(がしょく)は蘭を焼きて煖(あたたか)く復た迷い、殿帷(でんい)は深密にして銀泥を下す。門を開き侵晨の散を作(なさ)んと欲するも、己に是れ明朝にして日は西に向うと。此れいわゆる長夜之飲なり。
 とあって、これに従えば明日の日暮まで飲み続けることである。(p.37)

 一昨年に亡くなった井波律子氏には、『酒池肉林―中国の贅沢三昧』(講談社現代新書1993)という著作があるが*6、そこでは紂王の「悪行」はあくまで話の緒としての役割を果たすに過ぎず、当該書は、文学作品等に現れた桁外れの奢侈や蕩尽を通史的に眺めようとするもの。したがって紂王説話については、『史記』の記述をなぞるに止まる。
 では、紂王の贅沢三昧は果して事実であったのか――と云うと、答えは、否である。
 まず、さきに引いた小林著も「歴史は勝者の記録で、負けた者はどんどん悪者にされてゆくものだ。ましてこういう話には尾鰭がついてくる。紂の悪名は雪達磨式に増えてきたのだろう。『論語』(子張)には、孔子の弟子の子貢が『紂の不善はそれほどひどくはないのだ。』と言ったとある」(p.4)と書いているし*7、井波氏も『完訳 論語』(岩波書店2016)において、子張第十九の子貢の当該発言(紂之不善、不如是之甚也)に対する注で、「さすが聡明きわまりない子貢らしく、この章の発言も明晰そのものであり、伝説や伝承にしばしば見られる極端化現象を鋭く突いている」(p.575)と書き、紂王の挿話を「極端化現象」の一例と見なしている。
 ここまで「紂王」「紂」などと書いてきたが、これは実は諡号である。冨谷至『四字熟語の中国史』(岩波新書2012)には、

 周に滅ぼされた殷の最後の王は、三十代の王帝辛(ていしん)である。――殷の王の名称は、甲・乙・丙・丁の十干の名をもってつけられている。それは、太陽が十個あり、王族の各々をその十個の太陽の末裔と考えることを前提とし、そこから王族組織、祖先の祭祀の日、そして王の名称などは、すべてこの十干に起因する。
 帝辛はまた紂という諡(おくりな)をもっている。諡とは、人名のいくつかのカテゴリーの一つ、死後に生前の行いを評価してつける名称で、「紂」は「残義損善――義を残(そこ)ないて、善を損(やぶ)る」人物への諡号とされる。(p.101)

とある。そして冨谷氏は、

 そのようなこと(「酒池肉林」の宴など―引用者)が現実に存在した、それを実際に行ったとは考えられず、これは荒唐無稽な作り話でしかない。(略)つまりそれは、暴君の理不尽な贅沢・奢侈であり、それゆえ国が滅んだということを言わんとしたに過ぎない。(p.105)

と断言する。加えて、『史記』大宛列伝で「酒池肉林」が「贅沢三昧を行うといった抽象的」な意味で使われていることを引き合いに、司馬遷自身もそのことを承知していたと述べ、さらに、「暴君紂王のイメージもやはり作られたものでしかないと言ってよいだろう」(p.107)と記す。
 冨谷氏の著作でさらに興味ふかいのは、なぜその奢侈を表す言が「酒の池」「肉の林」でなければならなかったのか、という必然性を問うたところで、詳細は同書に譲るが、

 つまり「酒池肉林」の酒と肉(牛肉)は、殷の時代から王朝の祭祀・儀礼の供物であり、それを無節度に飲み食いした、そこに殷の紂王の破滅の原因があった。そういった伝えは早く周の初期に現れ、儒教の倫理道徳という流れのもとで紂王の「酒池肉林」の話が次第に形成されていったのである。(p.114)

と結論している。
 別の観点、具体的には甲骨文や金文を解読することによって、「酒池肉林」はなかったと実証するのが、落合淳思氏である。落合氏は『甲骨文字に歴史をよむ』(ちくま新書2008)で、

 殷の滅亡と酒の関係は、実のところ周王朝成立後の主張であり、最も早いものは、西周金文の一つである大盂鼎に見られる。(p.209)

と説き、同書のコラムで 、「酒が原因で殷が滅びたというのは周王朝によるプロパガンダであり、それに何百年もかかって尾ひれがついて、最終的に『酒池肉林』という伝説が形成されたのであった」(p.212)と述べている。
 また落合氏は、『古代中国の虚像と実像』(講談社現代新書2009)の「第四章 紂王は酒池肉林をしなかった」で、『史記』が紂王を「慢於鬼神」(鬼神をあなどった)と評したことも否定し、むしろ先王への祭祀を熱心に行い、狩猟(遊興ではなく、政治的な意義があった)に打ち込むといった、『史記』の記述とはまるで異なる紂王の姿を描く。落合氏によると、「(祭祀と狩猟は)いずれも二日に一回以上の頻度であ」り、「とても『酒池肉林』をしている暇などはなかった」(p.43)という。
 なお落合氏は、『殷―中国史最古の王朝』(中公新書2015)でも、「酒池肉林」が史実ではなかったことに繰返し言及しており(pp.184-88)、さらには紂王の妃「妲己(だっき)」(上記『史記』の引用参看)までもがフィクションだったのだ、と説いている。最後にそれを紹介しておく。

 そのほか、殷本紀には帝辛の寵愛を受けた女性として「妲己」という名が記されているが、十干(己は十干の六番目)が使われるのは諡号であるから、生前の名に十干を用いることは殷の文化としてはあり得ない。逆に妲己諡号とすると、殷代には死去した女性に母某や妣某のような親族呼称が用いられたので、「妲」という固有の文字を使うことは考えられない。そもそも甲骨文字には「妲」の文字すら見られないので、妲己も後代に作られた架空の人物であることが確実である。(p.187)

*1:太平記』(岩波文庫の底本は西源院本)は「若く清らなる男三百人、みめ貌勝れたる女三百人を裸になして」と書いているが、その典拠はよく判らない。後に引用する司馬遷の『史記』には出て来ない。

*2:但し、続けて「もっとも、この宴会の全容を見るならば、この想像も、あながち見当はずれではない」と述べてはいる。

*3:手許のは1975.3第7次印刷。

*4:四字成語辞典の類で典拠を示したものに、「縣肉爲林」を「『懸』肉爲林」とするものがあるが、正確には「縣」である(管見の及ぶ限り、異本間での相違は無い)。因みに、尚学図書・言語研究所編『四字熟語の読本』(小学館1988、のち小学館ライブラリー1996)の引用は「縣肉爲林」となっているのだが、これを基にしているはずの『日本国語大辞典【第二版】』(小学館2001)はなぜか「懸肉爲林」。『日国』によると、「しゅちにくりん」には、「しし(肉)」の訛った「しゅちじじりん」という語形もあったのだそうで、「浄瑠璃・大友真鳥(1698頃)」からの引用がなされている。

*5:手許のは1999.1.14第4刷。また、「中国における奢侈の変遷」の原題は「羨不足論」(史学会五十年記念大会,1939.5)で、「史学雑誌」第五十一編第一号(1940.1)に収む。

*6:のち、講談社学術文庫(2003)。

*7:なお小林著は、『論衡』語増篇が「酒池牛飲」は事実でない、と指摘することにも言及しているが、宮崎がそのことに触れていないのはやや奇異である。