『味な旅 舌の旅』所引の『懐風藻』

 宇能鴻一郎『味な旅 舌の旅』(中公文庫1980)が、エセー「男の中の男は料理が上手」と、著者と近藤サト氏との対談(「酒と女と歌を愛さぬ者は、生涯馬鹿で終わる」)とを附して、2月に新装復刊された。昨夏に出た宇能氏のオリジナル短篇集『姫君を喰う話』(新潮文庫)が話題となったことを受けてのものらしい。
 『味な旅 舌の旅』の単行本は日本交通社から刊行されており(1968年)、KK・ロングセラーズで『美味めぐり』と改題のうえ一部改編されて復刊(1977年*1)、その三年後に中公文庫に収まっており、わたしはこの旧版の文庫を持っていた。
 いわゆる食味エセーではあるが、それだけに止まらない魅力がある。新版の帯に「日本美食紀行」とあるように、あるいはその表紙裏の内容紹介に「日本各地の美味・珍味を堪能しつつ列島を縦断。(略)貪婪な食欲と精緻な舌で味わいつくす、滋味豊かな味覚風土記」とあるように、北は小樽から南は奄美まで、そこここへと出向いてありとあらゆる物を喰らう。その土地土地で出会った人たちとの淡い交流の記録なども読んで面白く、所々に差し挟まれる和歌もうるさくなくて心地よい。一篇一篇、それこそ「味わう」ように読んだ。ことに「食味」を描写した箇所でいうと、たとえば次のような記述などに唸らされたものだった。

 ほんとうに美味しいものを、いい条件で、ゆっくりと、或るていどの量を食べたときの陶酔感は、たしかに酒の酔いに似ている。新しい、上質の牡蠣というものは、ごく上品に、ほんのりとそれらしい味がするだけで、まことに淡白な、物足らぬほどあっさりとしたものだ。舌でそっと、口腔に押しつけるだけで柔らかくつぶれ、半煮えの滋味ゆたかな汁液をたっぷりとほとばしらせる感覚には言いがたい酔いがともなう。歯を使うのが勿体なくて、というよりはこのかよわい、豊かな、柔らかさそのものの、もっとも女性的で無抵抗な、それでいてたとえようもなく充実した生きものに、歯を立てるのが残酷な感じがして、ぼくは最初の数箇は、舌だけで咀嚼して呑みこんだ。もちろん、口に入れるやたちまちのうちに、雪のように溶けて、何の苦労もないのである。(「松島・雪の牡蠣船」旧版p.27、新版p.29)

 このメダカ大の魚が有名な鰍(かじか)で、これを二、三匹ずつ串にさし、天日で乾してから、煮ふくめて酒の肴にするのである。(略)
 竹串の先に、飴いろの小さい魚が二匹ついた、わびしい、しかも風流な、まことに日本的な食物である。そんなに小さくとも尾を反らし、目をむいて、ちゃんと魚の形をしていて、口中でわずかに抵抗してから、あえなく溶けさせる。太陽と、川と、かすかな生き物の味が舌に残る。老夫婦の入っている川の水の冷たさと、早春の風の寒さと、竹串を割るひび割れた手と、一匹一匹丹念に刺してゆく老いた指先の震えまでが、そのつつましい、ひなびた味わいから感じとれるのである。(「腹づつみ四国の奇漁」旧版p.183、新版pp.204-05)

 宇能氏と食物といえば、山本容朗が次のように書いていたのをおもい出す。

 やはり、そのころ(宇能氏が『耽溺』を刊行した頃―引用者)だったと思う。私は、書評紙で、この人の人物コラムを書き、雑誌の用事で、インタビューにいったことがあった。
 時間は、昼めし時少し前で、起きたばかりのウノコウさんは、食事寸前であった。
「一緒にやりませんか」
 というので、ご馳走になったのだが、それは、ご飯、味噌汁、焼き魚、野菜の煮物、漬け物といった純日本風で、とにかく見事な味であった。私は、一番の朝めしと問われたら、まず、この日のウノコウさんの家と答えるだろう。
 その上、この家の主人は、ラーメンが食いたくなると、飛行機で、札幌でも、博多でも食べにいく人物なのである。(「宇能鴻一郎」『作家の人名簿』*2徳間文庫1987←文化出版局1982:144-45)

 こんな人物がものしたエセーなのであるから、面白くならないわけがない。
 さて、『味な旅 舌の旅』に次の様な一節がある。

 (天智―引用者)天皇の在世中は、多くの帰化人をむかえて、都は中国風の新しい文物と、華やかな風俗で賑わったにちがいないと思われる。「懐風藻」序文をひくと、
「ここに三階平煥(豪華宮殿)、四海殷昌(世間平和)、流紘(天子)無為、巌廊(朝廷)暇多し。しばしば文学の士を招き、時に置醴の遊(宴会)を開く……」(「さざなみの志賀の鴨鍋」、旧版p.129)

 ここに引かれている「流紘(りゅうこう)」は、新版でも同様に「流紘」となっている(p.144)。しかし、これはおそらく「旒纊」の誤りであろう。
 本邦最古の漢詩集『懐風藻』は、「宝永二年刊本を底本とした」(「凡例」)江口孝夫全訳注『懐風藻』(講談社学術文庫2000)しか今手許にないが*3、当該箇所は「旒纊無為」となっていて、語釈には、

○旒纊無為 天子は何の手段も講じないですむ、天下がよく治まっていること。旒は冠の前後に垂らした玉、纊は冠に垂らし耳にあてる綿で、天子が用いた。直接に見、聞くことを防いだもの。(p.31)

とある。
 また、たとえば小島憲之『萬葉以前―上代びとの表現―』(岩波書店1986)も、『懐風藻』の序文の一部を引いているのだが、やはり当該箇所は「旒纊無為」となっており、これについて小島氏は、

(『懐風藻』序文は)文選語をよく使用する。天子の見聞を防ぐ玉垂れと耳玉の意をもつ「旒纊(りうくわう)」の如き語も、『文選』巻三十八任彦昇「為蕭揚州士表」の「陛下は、道旒纊に隠れ、信(まこと)に符璽に充(かな)ふ」(李善注『大戴礼』を引用)などによって、天子や朝廷などの意に応用したものであろう。(「近江朝前後の文学 その一」pp.65-66)

と述べている。
 『懐風藻』といえば、ごく最近読んだ多田智満子『魂の形について』(ちくま学芸文庫2021←白水uブックス1996)も、次の様な形で紹介していた。

 ところで蝶という外来語、あるいはそれのやまとことばは、どういうわけか万葉集にも古事記にもひとつも出てこない。懐風藻には蝶を歌いこんだ詩があるときいたが、これは詩型と共に中国直輸入の語彙を用いた試みだったのであろう*4。お隣の琉球や、さらに日本人の先祖の一部がそこから来たと考えられている南太平洋沿海の諸民族が、それぞれ蝶に注目し敬意を払っているのにひきくらべて、わが大和民族の蝶類に対するこの無関心ぶりはいささか異様ですらある。
 わずかに、記紀に語られた少名毘古名神(すくなひこな)神の姿が(蝶ではなく蛾〈ひむし〉であるが)蝶類への関心を垣間見させてくれる唯一の例であろう。古事記によれば少名毘古名は「波の穂より天の羅摩(かがみ)の船に乗りて、鵝(ひむし)の皮を内剝(うつは)ぎにして衣服(みけし)にして帰(よ)り来る神」であった。(p.35)

 『懐風藻』の「蝶を歌いこんだ詩」というのは、紀麻呂「春日 応詔」の「階梅闘素蝶」(階梅素蝶を闘はし)や紀古麻呂(麻呂の弟)「望雪」の「柳絮未飛蝶先舞」(柳絮未だ飛ばぬに蝶先づ舞ひ)などの句をさすのであろう。しかし後者の「蝶先づ舞ひ」というのは、蝶そのものではなく、雪を譬えてこの様に表現しているのである。
 古麻呂の「望雪」詩は、小島憲之編『王朝漢詩選』(岩波文庫1987)にも収められており、その語釈で小島氏は、「柳絮未飛蝶先舞」の句はこれに続く「梅芳猶遲花早臨」(梅芳猶し遅きに花早く臨む)の句とともに「六朝詩によくみられる雪の見立て」(p.33)だと説いている。
 ちなみに、本邦ではかつて蝶を詩句の題材とすることが殆どなかったという事実については、三中信宏『読書とは何か―知を捕らえる15の技術』(河出新書2022)も、植木朝子『虫たちの日本中世史:「梁塵秘抄」からの風景』(ミネルヴァ書房2021)を紹介する形で、次の様に言及している。

 著者(植木氏)はこの一見矛盾する虫との関係(気持ち悪いと忌避しながらも、一方で惹かれるという関係―引用者)が歴史的に見てどのように成立したのかのルーツを平安時代の文化に探ろうとした。興味深いことに昆虫に対する好悪の感情が現代とは正反対である事例がある。たとえば、チョウについて著者は次のように指摘する。

 花園に飛び交う蝶は、現代人の感覚からすれば、美しく優雅であって、賞美の対象としてなんら違和感のないものと思われるが、『万葉集』には蝶は詠まれず、中古・中世の和歌においても、生物としての蝶が正面から取り上げられ、愛でられることはほとんどなかった。(植木2021,p.146)

 現代とはまったく逆の受け取られ方をされた理由として、著者はチョウのもつはかなさのイメージは死を連想させる不吉さを帯びていたからと言う(同,p.157)。(p.246)

 多田氏も前掲書で、さきの引用部に続けて、「蛾の皮をそっくり剝いで身に着けた神は、蛾の皮を衣服とするというよりはいっそ蛾の形をした霊魂と見るべきであろう」(p.36)などと述べている*5
 蝶や蛾にはかつて、「死」のイメージが纏わっていたのかも知れない。

*1:旧版の中公文庫には「昭和五十三年七月(刊)」とあるが、新版には「一九七七年七月」とあり、後者が正しそうだ。「あまカラ選書」の一冊という位置づけだったらしい。

*2:北海道新聞」に連載された「文壇さんぽ道」がもとになっている。文庫版はさらに加筆。

*3:懐風藻』といえば昨秋、辰巳正明『懐風藻全注釈 新訂増補版』(花鳥社)が出たが、気になりながらもまだ見ることを得ていない。

*4:これを承ける形で、多田氏は、「特に平安期に至って蝶は日本語としてよくやまとことばになじみ、華やかな文学的形象として頻々と用いられるようになるが、しかしやはり中国直伝の荘子の夢の胡蝶をふまえた文脈のものが多い」(p.36)とも述べている。

*5:もっとも、多田氏もことわっているように「鵝」=「鷦鷯(みそさざい)」との解釈もあるが、最終的には、「やはり蛾としておく方がよいというような気がする」と判断している。