実録怪談の名手・鈴木鼓村

 「怪を語れば怪至る」の典型としてしばしば言及される怪談のひとつに、「田中河内介(たなかかわちのすけ)」というものがある。これは、大正期の或る怪談会で、幕末の勤王派・田中河内介の最期について語ろうとした者が、同じ言葉をくり返したあげく結末を語り畢えることのないまま死んで了った――という「実話」をさす。
 朝里樹『日本現代怪異事典』(笠間書院2018)は「田中河内介の最期」を立項し(pp.229-30)、その挿話の梗概について述べたあと、

 この話は池田彌三郎著『日本の幽霊』に載り、池田氏の父親が実際に体験した話であったという。また同書によれば徳川夢声が書いた『同行二人』という著作にはまた別の形でこの話が載っているとのことだが、それは確認できず*1。(p.230)

と説く。朝里樹『日本現代怪異事典 副読本』(笠間書院2019)pp.53-54にもこの話への簡単な言及があるし、朝里樹『つい、見たくなる怪異な世界』(三笠書房王様文庫2021)は、出典を明記しない形でこの話を紹介している(「なぜか最後まで話せない――「「田中河内介の最期」」pp.89-93)。
 東雅夫編『文豪怪談傑作選特別篇 文藝怪談実話』(ちくま文庫2008)は「史上最恐の怪談実話!?―田中河内介異聞」という独立した章を設け、徳川夢声「田中河内介」「続、田中河内介」、池田彌三郎「異説田中河内介」、長田幹彦「亡父の姿」、鈴木鼓村「怪談が生む怪談」を収める。
 夢声によると、これは「谷中(向島)の百花園」で起こった出来事だったというが、池田彌三郎(の父親)によれば、実際には「京橋の橋向こう」の画博堂での出来事であったという。東編著から孫引きすると、

 父の主張によると、京橋の橋向こうにあった書画屋の画博堂という家での話で、怪談百物語といった程の、こった趣向ではなかったが、やはり同好者が怪談を持ち寄って、かわりがわり話し合った時の出来ごとで、画博堂の入り口には、盆提灯を飾りつけるくらいのことはしたのだそうだ。
 ――夢声さんがその場に居合わせたというわけではないんだろう。私の方のは、現に私がこの耳でじかに聞いていたんだし、(語り手が)死んだところまでこの目で見たんだからね。話がそれからそれへと、しまいに都合よく向島へ行ってしまったのさ。――父はこう主張してやまなかった。(『文藝怪談実話』pp.152-53)

 これは池田の父親の証言の方が正しい。その場に居合わせていた鈴木鼓村(1875-1931)もそう書いているからだ。
 鼓村がこの出来事について記した「怪談が生む怪談」は、雨田光平編『鼓村襍記』(古賀書店1944)に収められている。まずはその冒頭近く――、

 大正三年七月十二日、この日は、東京の盆の草市である。東京は新で盆をやるので、盆とはいへど梅雨あがりの、朝よりどんよりおほひかぶさつた憂欝な天氣だつた。家にゐてもべつとり脂肪汗がにじむやうで、街全體がけだるく疲れてゐた。その日はかねてから計畫のあつた通り、日本橋區東中通り(今は電車通り具足町の角)美術店松井畫博堂の四階で化物の繪の展覽會が開會された(同月廿六日で終つてゐる)。(略)そして初日の怪談會にはすべての方面に渡つて招待状を發送したものだつた。(p.327)

 そこに集った者たちはというと、以下の通り。

 さてその晩になると夕方から續々と大變な人が集まつて來て、皆は一驚しながら、こんなに集まつちや怪談も凄くなからうと口々にいひあつた。集合した顔ぶれは無慮六十何名といふ盛會でまづ第一に美術家岩村透男爵、黒田清輝畫伯、岡田三郎助畫伯同じく八千代夫人、辻永、長谷川時雨女史、柳川春葉、泉鏡花市川左團次市川猿之助松本幸四郎河合武雄喜多村緑郎吉井勇、長田秀雄、幹彦兄弟、谷崎潤一郎岡本綺堂等の人々と云ふ連中だ。
 劈頭をうけたまはつて高座に姿を現したのは文壇の名物男阪本紅蓮洞(ママ)氏で、滑稽をまじへた化物談一席、續いて日本カフエーの元祖でプランタンの主人洋畫家松山省三氏の郷里廣島のすごい話、次に私の鈴鹿峠の話*2等があつていつか會場はしんみりした氣分に引入れられてゐた。(pp.328-29)

 こういった錚々たる面々が立ち会うなかで催された怪談会の最中、事件は起こった。
 朝里氏の『日本現代怪異事典』によれば、「さまざまな理由により座の人々がいなくなる中、男は延々と本題に入らない話を繰り返していたが、偶然周りに誰もいなくなったそのとき、小机にうつぶせになったまま死んでしまっていた」(p.230)という。再話体の「なぜか最後まで話せない――「「田中河内介の最期」」もこれとほぼ同じ描写となっている。
 しかし鼓村の記述に拠ると、当時の状況はかなり異なる。次の如くである。

 (語り手の「萬朝報社の営業部にゐる石河(光治)」が卒倒すると―引用者)一座は怖がつて總立ちになつて思ひ思ひに歸つて行つた。殘つた二三の人が石河氏を一間に運び込んで休ませ萬朝報社に電話で聞き合せ、やうやく翌朝京橋南町の同氏邸へ車で畫博堂主人が送つて行つた。石河氏は謹直な人で平常餘りよそで泊つたこともない人だけにその夜は家では心配して妻子が夜明してゐるところへ、ものもいへない同氏が運び込まれてきた。驚いた妻女が同氏を抱へると言葉もでない樣子だつた。石河氏は早速高輪病院に入院したが田中河内介の名を呼びつゞけて同月廿六日お化の畫の展覽會の終つた日に死んでしまつた。(p.341)

 つまり、石河が卒倒したときにはまだ多くの者が残っていたようだし、石河が死んだのもその場ではなく、入院してから二週間後、ということになっている。
 こういった事実関係の齟齬については、東雅夫氏も著作で次の如く述べている。

 男(石河)がその場で昏倒して息を引き取った……とするものから、帰宅後に体調が急変して亡くなったらしい、とするものまで、様々である。もっとも、当夜の模様を伝える短い新聞記事を参照するかぎり、会場で変死者が出たという類の報道はないので、その場で息を引き取って云々の信憑性は低いといわざるをえない。(『なぜ怪談は百年ごとに流行るのか』学研新書2011:27)

 鼓村の証言が正しいことは、吉田悠軌『怪談現場 東京23区』(イカロス出版2016)が引く当時の新聞記事(萬朝報)からも明らかである。吉田氏はさらに、この怪談会が向島・谷中辺で行われたという誤解が広まったことについても、次の如く述べている。

 ちなみに、事件の舞台が谷中の「百花園」だといわれることも多いが、これは事実ではない。なぜ、そんな誤解が出回っているのかといえば、理由は二つ。その一つは、徳川夢声がエッセイ『田中河内介』で「谷中の百花園での出来事」との伝聞情報を書いてしまっていること。これを参考にした人々が、また誤情報を拡散させていってしまったのである。もう一つは、5年後の1919(大正8)年7月19日、百花園で行われた怪談会が原因だ。これも画博堂と同じく泉鏡花らが参加しており、「田中河内介の話」をしようとした石河光治の死について語られた会でもあった。当時の現場にいた者達の証言なのだから、かなりのインパクトがあったはずだ。「話してはいけない怪談」の恐怖をまざまざと感じた参加者が、その記憶を徳川夢声に報告。それを受けた夢声がそもそもの現場を百花園と取り違えた……というのが、誤解が発生するに至った経緯だろう。(p.143)

 東編著『文藝怪談実話』の巻末「解説 文人と怪談と」には、大正八年(1919)7月22、23日付「都新聞」の記事が引かれている。当該記事には、同月19日に向島百花園で行われた怪談会(つまり「誤解」のもとになった怪談会)の様子が紹介され、5年前に起こった怪異譚についてどう語られたか、ということが記されている。一部を孫引きすると、次の如くである。

 相変わらず(石河の話は―引用者。以下同)「田中河内の助(ママ)が切腹しました」という一言(いちごん)より先へ一言も進まない。堪らなくなって一人立ち二人立ち、今は喜多村(緑郎。初代)・泉(鏡花)・鹿塩(秋菊。鹿塩亀吉。すみや書店主人)・鈴木(鼓村)の四人だけが残った。其の鈴木鼓村君さえこっそり抜け出して了った。(『文藝怪談実話』p.393)

 ここでは鼓村が名指しされ、その瞬間を直接には目撃しなかったことがほのめかされるが、真相はどうであったろうか。
 なお「怪談が生む怪談」は、『文藝怪談実話』だけではなく、東雅夫編著『文豪たちの怪談ライブ』(ちくま文庫2019)にも収録されている*3が(pp.218-33)、そこで東氏は、鼓村について次のように述べている。

 鼓村は、明治後期から大正にかけて頻繁に開催された百物語怪談会にも、一種の名物男として頻繁に顔を出していた。すでに紹介した「不思議譚」や向島の化物会、吉原の怪談会、そしてこの画報堂での怪談会と、名だたる怪談会の中心には、常に鼓村の姿があった。鏡花らの『怪談会』が鼓村の話で幕を開けているのは、決して偶然ではないのである。(pp.240-41)

 この後段で東氏は、鼓村の怪談「色あせた女性」を紹介しているが、これも『鼓村襍記』に収める(pp.309-11)。また上引にみえる「鏡花らの『怪談会』」というのは『怪談会』(柏舎書楼1909)なる稀覯書をさし、これは「怪談百物語」(「新小説」1911.12月号)とともに、東雅夫編『文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会』(ちくま文庫2007)に収められたが、さらに近年、「怪談会」座談会(「新小説」1924.4,5月号)等とともに影印版で東雅夫編『泉鏡花〈怪談会〉全集』(春陽堂書店2020)に収められた*4。この労作についてもいずれ紹介したい。
 さて鼓村は、本業は筝曲家、また画家であり、その著作としては『耳の趣味』(佐久良書房1913)が比較的よく知られている。同書はたとえば、鶴ヶ谷真一『紙背に微光あり―読書の喜び』(平凡社2011)の「鐘をめぐる人々」(pp.37-46)末尾にも引かれているが、この『耳の趣味』を増補したものこそが、『鼓村襍記』なのである*5。ついでに云うと、『鼓村襍記』は『耳の趣味』に附された柳田國男の序文のほか、蒲原有明の序「鼓村のおもかげ」をあらたに附す。
 旧版『耳の趣味』は「音」「日本音楽」に関わる随筆がほとんどを占め、なかには「箏(こと)の空音」(pp.295-300)という怪談めいた話が見えはするものの、鼓村の怪談趣味を窺わしめる要素は少い。しかし『鼓村襍記』になると、「怪談が生む怪談」をはじめ、「亡靈からの手紙」「闇に老人の聲」「色あせた女性」「マスネの亡靈」「銃器を磨く亡靈」「日本的淸田大人」「鰊漁場の慘話」「鈴鹿山秋の白露」といった怪談の類が増補されている。これは編者の雨田光平の意向によるもので、跋文で雨田は次の如く述べている。

 鼓村の化物話は有名なもので逸散を憂へてゐた所筺底から名古屋新聞に連載した切拔を發見してホツト安心しました。これには鈴木律子(左知子)さんの記憶が大へん役立つた。話術の迫力で知らず\/引入れられてゆく面白み、まけ惜しみの強い岩村筐男など眞面目な顔をしてフム、フムと感心して聞いたものです。就中實際に經驗した銃器を磨く亡靈、日本的淸田大人、怪談が生む怪談など仲々捨て難い凉味があるので故人を偲ぶよすがにそのまゝ掲げる事にしました。(p.357)

 これによれば、増補された怪談の類は、詳細は不明であるものの、「名古屋新聞」が初出であるらしいことが知られる。
 「亡靈からの手紙」(目次でのタイトル。本文は誤植?のゆえか「亡靈から手紙」)の冒頭で鼓村は、

 怪異に出逢はない人は、怪談といふと、あゝまた眉唾物かと輕蔑する然し――幾度か怪異に出逢つた私は、決して眉唾物だなどと、輕蔑する事が出來ないで、數年來、この方面の材料を蒐集し、研究してゐる譯、…(p.305)

と、怪談研究にのめり込んだのは「數年來」のことだと述べている。この「數年來」がいつ頃をさすのかは判然しないが、この後に語られるのが「大正四年十一月」の出来事であることから推して、鼓村が怪談を蒐集し始めたのは明治末年から大正初年にかけてのことであろうと考えられる。
 また「色あせた女性」については、さきに一寸触れたように、『文豪たちの怪談ライブ』で東氏が紹介しているが、この文章については徳永康元もエセーで言及している。

 この本をはじめて私の手にとらせたのは、たしかフリッツ・ルンプという名前だったと思う。
 『皷*6村襍記』の巻末近く、「色あせた女性」という怪談の一篇がある。皷村という人は怪談の上手でもあったらしい。小山内薫、フリッツ・ルンプ、それに皷村の三人が、吉原で飲んだ帰りに市電に乗り、うとうとしていると、小山内が突然、皷村をゆりおこし、いつもつきまとっている女の亡霊がそこにいる、というのである。嘘か本当かわからない話だが、皷村は大真面目に書いている。(略)
 『皷村襍記』は、ルンプのほか、岩村透、黒田清輝、岡田三郎助らの美術家たち、泉鏡花長谷川時雨谷崎潤一郎吉井勇ら作家たち、市川左団次などの役者たち、そのほか多くの人々によって彩られているが、この本が古賀書店から刊行されたのは昭和十九年二月で、戦争末期によくこれだけの本が出せたと思う。
*7徳永康元「『皷村襍記』」『ブダペストの古本屋』ちくま文庫2009:214-15←恒文社1982)

 ちなみにルンプは、『鼓村襍記』の蒲原有明による序文でも簡潔に紹介されている(pp.22-23)。

*1:後述する夢声の「田中河内介」等は、『世にも不思議な話』(実業之日本社1969)に収められているようだが、引用者未見。

*2:「私の鈴鹿峠の話」は「鈴鹿山秋の白露」(『鼓村襍記』pp.348-52)という怪異譚をさすか。

*3:同書にも、上引の「都新聞」の記事が紹介されている(pp.234-37)。

*4:鼓村による怪談は、「二面の箏」「雪の透く袖」「狸問答」の三話である。

*5:但し『鼓村襍記』は、『耳の趣味』の掉尾を飾った「寒念佛」の後半部に数行分の脱落があったりする。

*6:ブダペストの古本屋』では「鼓村」を尽く「皷村」に作る。元本も同じ。

*7:初出は1981.3「図書新聞」。