『文天祥』『劉裕』文庫化のこと

 かつて人物往来社から刊行されていた宮崎市定監修「中国人物叢書」(第一期、全十二巻)の著者名およびタイトルは、それぞれ下記のとおりである(第一回配本は④の宮崎著)。

①永田英正『項羽』/②狩野直禎『諸葛孔明』/③吉川忠夫『劉裕』/④宮崎市定『隋の煬帝』/⑤藤善眞澄『安禄山』/⑥礪波護『馮道』/⑦梅原郁『文天祥』/⑧勝藤猛『忽必烈汗』/⑨谷口規矩雄『朱元璋』/⑩寺田隆信『永楽帝』/⑪堀川哲男『林則徐』/⑫近藤秀樹『曾国藩

 偶然なのか、タイミングを合せたのかどうかは定かでないが、このうちの二冊――③吉川忠夫『劉裕』と⑦梅原郁『文天祥』とが、この5月に文庫化された。
 吉川著(1966年5月刊)は再文庫化で、かつて(1989年8月)中公文庫に入ったことがあるが、長らく品切れとなっており、今回は法蔵館文庫に収まった。一方、梅原著(1966年6月刊)は初の文庫化で、ちくま学芸文庫に入った。わたしは、両著ともこのたびの文庫版で初めて読むことを得た。
 ④宮崎著、⑤藤善著、⑥礪波著、⑩寺田著、⑪堀川著も中公文庫に入ったことがあって(うち⑤、⑪は現物未確認)、また①永田著や②狩野著はPHP文庫に入ったことがあるようだが(両著とも現物は未確認)、この叢書が法蔵館文庫、ちくま学芸文庫に収録されたのはいずれも初めてのことではないか。(※⑧勝藤著も『フビライ汗』と改題されて中公文庫に入った由。重力の二時氏にご教示賜りました。コメント欄ご参看
 この叢書が刊行されるに至ったに就ては、そもそも次のような背景ならびに経緯があるという。

 宮崎市定監修と銘うたれた「中国人物叢書」第一期全十二巻が、人物往来社によって企画され、著者(宮崎市定のこと―引用者)に相談をもちかけられたのは、著者が定年退職される直前のことであった。その当時、吉川弘文館から刊行されて好評を博し、すでに百冊をこえる大叢書となっていた日本史の「人物叢書」に範をとる「中国人物叢書」は、同じ人物往来社で企画された時代史概説のシリーズ「東洋の歴史」全十三巻(著者を筆頭とする四人が監修)と対にして、同時進行で編集が行なわれたのである。
 こと中国史に関しては、どの時代の概説でも見事に書ける、と自他ともに許されていた著者は、こういった規模の大きい企画の際には、ほかの執筆予定のメンバー諸氏の希望を優先的に考慮し、残された巻を引受けられるのが常であった。「東洋の歴史」で、第九巻『清帝国の繁栄』と第十一巻『中国のめざめ』との二巻分を書き下ろされることになったのも、その結果なのであった。
 そして「中国人物叢書」で『隋の煬帝』を担当されることになったのも、多分にそのような配慮が働いた結果なのであるが、この場合には、著者は殊のほか乗り気であった。(礪波護「解説」、宮崎市定『隋の煬帝』中公文庫1987←人物往来社1965:267-68)

 また寺田隆信氏によると、「この『叢書』は一期と二期をあわせ全二四冊で構成されているが、宮崎市定先生の退官を記念したいとの、秘めた意図をもって企画されたと記憶している。こうした受業生の下心を何もかもお見とおしのうえで、知らぬ顔で監修を引きうけていただいた先生は、昨年五月に道山に帰られ、間もなく三回忌を迎えようとしている。往時を回顧し、あらためて追慕の念がつのるのを禁じえない」(「文庫版あとがき」『永楽帝』中公文庫1997*1:279)という。
 このたび初めて文庫化された『文天祥』は、著者の梅原郁氏の「三回忌にあわせるかのように(略)再刊され」た(小島毅「解説 状元宰相の実像を描いた物語―梅原郁のメッセージ」)ものである。「叢書」に収められた他の作品と同様、主役(梅原著であれば文天祥)のみならず、賈似道(かじどう)、呂文煥(りょぶんかん)、忽必烈(フビライ)、劉整、伯顔(バヤン)、張弘範、等といった同時代の人物群像を活写しており、加之、読みものとしての面白さが追求されている。たとえば「江西に帰った文天祥の上にいかなる出来事が起るであろうか。章を改めて彼の周辺を眺めてみたい」(p.52)など、恰も章回小説を思わせるような書きぶりである。とりわけ読みどころとなるのは、船を手にいれた文天祥一行が元側の追手から遁れる「虎口を逃れて」(p.178)の節以降で、一篇のドラマをみているかのような臨場感に充ちている(結果が判っているにも拘わらずハラハラさせられる)。
 『文天祥』の主要登場人物のひとりである賈似道に就ては、宮崎市定南宋末の宰相賈似道」(礪波護編『中国史の名君と宰相』中公文庫2011)を併せて読むと参考になる*2。初出は『東洋史研究』第六巻第三号(1941年5月)だそうで、悪名高いこの南宋末の宰相の知られざる一面を描く。改めて宮崎のこの一文を読み直してみると、その表現などから、梅原氏がそれを参照したフシが窺えて面白かった。その例を二、三引いてみよう(引用は原文ママ)。

 度宗即位の翌咸淳元年、賈似道は太師を加え魏国公に封ぜられ、同三年平章軍国重事に任ぜられ、私第を西湖の葛嶺に賜わり五日一朝の殊遇を与えられた。此に於いて南宋政府には二重体系が成立し、賈似道は葛嶺の私第に於いて、館客廖瑩中(りょうえいちゅう)と計って庶政を裁決し、臨安朝廷の百僚は成を仰いで盲判を押し、両所の連絡には堂吏翁応龍(おうおうりゅう)が当った。(宮崎p.90)

 彼(賈似道)は三日に一度、のちには五日に一度、舟を仕立てて宮城に伺候(しこう)するだけで、あとは国政の一切を葛嶺の邸宅でとりしきった。重要な法令はすべて賈似道と腹心の廖瑩中(りょうえいちゅう)、翁応竜(おうおうりゅう)の三人によってお膳立てがされ、政府高官はそれにめくら判を捺(お)すにすぎなかった。(梅原p.76)

 次の例は、襄陽・樊城陥落のくだりに出て来る一文である。

襄陽なき宋の防禦は、セダンを突破されたるマジノ線であった。(宮崎p.95)

とまれセダンの城砦はおちた。パリは指呼(しこ)の間にあった。(梅原p.117)

 このような譬えは、宮崎の文章が書かれた1941年時点では(この前年の出来事なので)たしかに生々しい描写であったに違いないが、梅原著の出た1966年はどうであったか。当時の中年層には、ある種の懐かしさをもって受け取られていたのだろうか。
 その一方で、次の如く見解を異にする部分も有る。

 先に忽必烈の侵入に際して、賈似道が割地と歳幣を約して和を請い、忽必烈を欺きて撤兵せしめたる後、その約を果さなかったという旧来の説は真実でない。鄂州の軍中にて和睦の下交渉が行われたのは事実であるが、之は寧ろ賈似道が蒙古の意向を探らんと誘いの手をかけたと見る可きで、忽必烈もこの提議を真に受けず、遂に和議は流産の儘、物分れとなったのである。忽必烈は開平に帰りて自立して大元皇帝の位につき、東方蒙古帝国を建設し、略々曩日(のうじつ)の金宋対立の形勢が再現すると、幕下の親宋論者郝経(かくけい)を宋に派遣し、新に宋に対し若干の要求を提出して、その反応を見んとした。賈似道は恐らく人心の動揺を慮り、且は国情を探知せられんことを恐れ、郝経を真州に拘留して都に入らしめなかった。(宮崎p.92)

 開慶元年(一二五九)の鄂州(がくしゅう)の役(えき)で、総司令官賈似道は、忽必烈と密約を結び、毎年多額の金品を贈与することを条件として兵をひいてもらった。蒙古撃退の功績を華々しく喧伝(けんでん)するために、彼はこのことをひた隠しに隠した。これが図にあたって、衆望をあつめ、宰相の位についた彼としては、いま郝経が真相をばらし、約束の履行を迫ると困った立場にたたされる。だから郝経を幽閉したのだと言うのが最も一般的な種明かしである。一方、鄂州で忽必烈と賈似道が密約を結んだ確証はどこにもない、彼は郝経が南宋に来て人心を攪乱させ、また南宋の内情を蒙古に伝えるのを惧(おそ)れたにすぎないという反論もある。いずれにしても、公式の使節が理由もなしに幽閉されては、忽必烈としても黙ってはいられない。(梅原p.96)

 梅原氏は、宮崎が「真実でない」と一蹴した「旧来の説」をむしろ「最も一般的な種明かしである」として紹介し、宮崎の説を、あくまで「反論」として紹介するにとどめているようにみえる。
 『文天祥』は本文の末尾に、天祥が自身の信念をうたいあげたことで名高い「正気(せいき)の歌」の全文をかかげてその解釈を示し、「おわりに」の「日本人と文天祥」という節では、江戸初期の儒学者・浅見絅斎が、『靖献遺言(せいけんいげん)』で「正気の歌」を注釈つきで載せていることにも触れている(pp.283-84)。
 『靖献遺言』は、「忠臣義士の遺文ならびに評論」「尊王思想」といったその内容の性格ゆえに戦後はほとんど顧みられなくなっていたが、近年、近藤啓吾訳注『靖献遺言』(講談社学術文庫2018)が刊行され、手に取りやすくなったのはありがたいことである。この「巻の五」が文天祥に充てられていて、「正気の歌」は、『文天祥』所収のものとは若干文言を違える形でpp.213-22に収められている。なお『靖献遺言』にみえる天祥の伝は、近藤氏によれば、「依拠するものは頗る複雑にて、『続通鑑綱目』『宋史』本伝『歴史綱鑑補』の当該記事を取捨補合して文を成しているが、やはりその核心となっているのは、『続通鑑綱目』であるといってよい」(p.203)という。
 さて一方、吉川忠夫『劉裕』は「江南の英雄 宋の武帝」の副題をもち、こちらもやはり読みものとしての面白さを重視している。ただし掉尾をかざる「沈約(しんやく)独語」は、吉川氏自身、「主に『宋書』巻末の沈約自序(しんやくじじょ)と『宋書』各巻の史臣論(ししんろん)にもとづいて書いたが、材料はそれだけにとどまらず、沈約になぞらえた私の劉裕論と考えていただけばよい」(p.229)と述べるように、同書の総括となっており、また、劉裕がなぜ権力を掌握するに至ったか、そして皇帝の座についたあと彼の心境がいかに変化したかと云うことにまで説き及んだ人物評論にもなっている。
 餘談にわたるが、当初、この法蔵館文庫版『劉裕』を書店で見かけたとき、時代も近いうえにカバー絵の構図も似ていることから、昨秋文庫化された森三樹三郎『梁の武帝―仏教王朝の悲劇』(法蔵館文庫)の姉妹篇であるかの如くに思っていたが(沈約の評語も本文中にさしはさまれる)、森著は1956年に平楽寺書店から「サーラ叢書」として刊行されたものであって、「中国人物叢書」と直接のつながりはなさそうである。なお船山徹氏の文庫版解説によれば、「梁の武帝と仏教の関わりについての研究は今や極めて豊富である」(p.214)といい、こちらはこの七十年近くの間に研究がかなり進展したことが察しられるが、宋の武帝すなわち劉裕のほうは、どうもそうでなさそうである。二度目の文庫化にあたり、吉川氏の訂した箇所が「ごくごくわずかにとどまる」(p.245)という事実が、そのことを物語っている。
 ちなみに、中国の南北朝時代通史を扱った新書としてはおそらく初めての本、会田大輔『南北朝時代五胡十六国から隋の統一まで』(中公新書2021)では、pp.69-75に劉裕の人物像が描かれているが、巻末の参考文献一覧によれば、このあたりは主として吉川著を参照したようである。さらに蕭衍(梁の武帝)は会田著pp.175-84に登場するが、その一部は森著にもとづいているとおぼしい。
 とまれ、劉裕文天祥と――その生きぬいた時代はまったく異なるけれども、激動の時代の波に翻弄された二人の物語を読み較べてみると、色々と面白いのである。根っからの武人で「学がない」ことが一種のコンプレックスというか屈折した感情の淵源になっていたらしい劉裕と、状元として天才的な能力を有しながらも節を屈しなかったため悲劇に見舞われた文天祥と、その対蹠的な生涯の物語は、栄光と没落とがもたらす人間のさまざまな普遍的な感情を、いまに伝えているように思われる。

*1:ただし、このあとがきが書かれたのは1996年末のこと。

*2:宮崎の京大での卒業論文がまさに「南宋末の宰相賈似道」で、中公文庫所収の文章はそのダイジェスト版といった趣だろうか。