『小出楢重随筆集』のことなど

 かつてわたしは、植村達男『本のある風景』(勁草出版サービスセンター1978)を2冊持っていた。その後――といってももう十五年ほど前の話になるが――、初刷の方は知人に差し上げた。いま手許にあるのは1982年刊の第2刷で、ビニールカバーの下に抹茶色の帯が巻かれている。たしか天神橋筋の天牛書店で購った。初刷はどこかの古書市で入手したもので、そちらは帯が橙色だったと記憶する。
 110ページ強のごく薄い本ではあるが、この「本の本」は、まさに滋味掬すべき随筆集だ。一篇一篇がほどよい短さなのもよい。巻頭には栗栖継エスペラントの仲間のために」、野呂邦暢「『本のある風景』に寄せて」という二つの序文が収められ、野呂が寄せた序文の一節は、帯文にも引用されている*1
 同書で、特に何度も言及されるのが小出楢重だ。前半部の「『枯木のある風景』」「待つ話」「小出楢重の随筆」、野呂が序文で「とりわけ味わいが深い」(p.4)と評した「金木犀の香り」――とそれから、末尾の「小出楢重谷崎潤一郎のことなど」のあわせて五篇に、楢重は登場する。そもそもこの本は、カバー挿画が楢重の手掛けた谷崎潤一郎『蓼喰ふ蟲』の挿絵の一枚だし、モノクロの口絵も楢重の「枯木のある風景」なのである。
 ところで谷崎の『蓼喰ふ蟲』に楢重が描いた挿絵は、岩波文庫版(1970年改版)『蓼喰う虫』ですべて(83葉)見ることができる。
 これらの挿絵ならびに『蓼喰ふ蟲』自体については、楢重の孫である小出龍太郎氏が、興味深い推論を披露している。それによると「定説では、『蓼喰ふ虫』の登場人物は谷崎家をもとに想定されたといわれている」が、「物語の大きな部分、あるいは全体が、小出家と関連しているのではないか」(「『蓼喰ふ虫』と小出家」『小出楢重谷崎潤一郎―小説「蓼喰ふ虫」の真相』春風社2006:72-73)。そして、『蓼喰ふ蟲』に出て来る主人公一家の息子、「小学校の四年へ行っている弘」(「その二」岩波文庫p.18)は、楢重の長男・泰弘をモデルにしているのではないか、という。これが正しいとするなら、たとえば松本清張のように、『蓼喰ふ蟲』を「私小説」と断じた上で評価を下すのは根拠を失うことにもなる。
 そして小出氏によれば、挿絵を担当した楢重は、作品の展開に見合った挿絵をそのつど描いたのではなく、

むしろ逆に、楢重がこの小説の裏の主題(男女の対立)を谷崎にあらかじめ仄めかしていたとは考えられないだろうか。楢重は自分が語った話が書かれていると気づいていたのではないか。本作品には「双頭の蛇」や「一人の裸体に男女(夫婦)二人の頭部」といった、まさに二元性を意味する挿絵が描かれている。こんな奥深い問題を、打ち合わせもなしに、さらりと描いて見せるなどという芸当ができただろうか。(p.94)

という。そのほかこれらの挿絵には面白い問題が色々とあって、『小出楢重谷崎潤一郎』所収の明里千章氏論文「『蓼喰ふ虫』挿絵の方法」によると、たとえば自作絵画を下敷きにした挿絵がみられたり、洲本の街を描いた挿絵(「その十」岩波文庫p.87)では草津旅行時に自身が撮影した写真をもとにしていたりするのだそうだ(明里氏が指摘するように、作中の登場人物と被写体の女性とが同じポーズをとっているのも――偶然ではあろうが――興味深い)。
 植村氏の随筆集に話を戻すが、これを読んでいると、無性に楢重の随筆が読みたくなってくる。
 その「金木犀の香り」には、楢重歿後に刊行された随筆集『大切な雰囲気』(昭森社1936)を鎌倉の古書肆に見出したおりの興奮について記しているが、わたしもこれを某古書肆の店頭で見かけたことがある。しかし、かなり値が張ることもあって、ちょっと手が出(せ)なかった*2
 けれども表題の「大切な雰囲気」を含めて、楢重のおもだった随筆は、芳賀徹編『小出楢重随筆集』(岩波文庫1987)で読むことができるので、とりあえずはこの一冊で十分満足している。こちらも同じく、十年以上前に天神橋の天牛書店で購ったものだ。
 編者の芳賀氏が、「近代日本の画家が書いた文章としては、互いに水と油そのままに性質が違うにしても、東(東京)の日本画鏑木清方と西(大阪)の洋画家小出楢重の作をもっておそらく最上とする」(「解説」p.370)云々と評するように、楢重を名文家だと認める者は多い。
 たとえば森銑三も、

 私は画家中の随筆家として、第一に小出楢重を取る。その文は、文人の文を学ばずして自ら一家を成し、奔放でそれで要を得ており、大阪人らしいユーモアに充ちていて、徹頭徹尾愉快である。小出氏の如きは獲(え)がたい随筆家だったと思う。(「素人の手に成った書物」/森銑三柴田宵曲『書物』岩波文庫1997所収←白揚社1944〔1948新版〕:134)

と書いているし、岩波文庫が刊行された直後には、阿部昭が次の如く記している。

――以下は、今度岩波文庫の一冊に加えられた小出楢重の随筆の話である。昭和の六十年間、楢重の文章はつとに隠れた熱心なファンを持っていたようで、私などはせいぜいこの十年ほどの新参にすぎないが、それでも楢重に名随筆あることを知る人は意外に少ないようなので、機会をとらえては吹聴の文を綴ってきた。それがようやく現物が手軽に読めるようになったのだから、あとはもう「皆さん大いに読まれるがいいでしょう」と言えば済む。ついでに、教科書などにもどしどし採り入れたらいいと思う。(略)
 文章というものが、いかに書いた人間の体臭までも生々しく伝える、妖しいまでに柔軟自在な生きものであるか、かつまた書いた時の筆写の気分如何で微苦笑、渋面、憂鬱、かんしゃく等々の百面相を帯びるものであるか、さらにはまたそれを読む人間の心のしこりをときほぐすものであるか、――したたかな日本語の好見本で全ページが埋まっている。随筆漫筆なればこそだ、書いた当人が楽しんで書いたればこそだ、それも「私などは上等のものも勿論好きだが、あらゆる下等のものに対してより多くの親しみを感じる事が出来る」(『下手もの漫談』)と言い切ってはばからぬ、自由な精神の持主なればこそである。(「陽気な怪談」『挽歌と記録』講談社1988:179-82,初出『図書』昭和六十二(1987)年十二月号)

 さらに阿部は、「大阪のことはどんな文学者に尋ねるよりも、まず小出楢重に訊け、というくらいに私は思っている」(p.184)とまで言い切っている。ちなみに上引の「下手もの漫談」は、岩波文庫のpp.172-85に収める。
 さて『本のある風景』には、先述のとおり「小出楢重の随筆」というそのものずばりの文章が収められてあるのだが、そこには、「私が、楢重の随筆に初めて接し、これが縁で深入りしてしまうことになった」作品(p.19)として、「雑念」が挙げられている。この「雑念」も、岩波文庫は採っている(pp.53-56)。
 また植村氏の「小出楢重谷崎潤一郎のことなど」は、楢重の『大切な雰囲気』に寄せられた谷崎の序文を全文引用したうえで、宇野浩二『枯木のある風景』にも説き及んでいる。
 宇野の『枯木のある風景』は、昨年このブログでも触れたことがある(「宇野浩二のこと―生誕130年」)が、植村氏もいうように、登場人物の古泉圭造は楢重をモデルとしており、また島木新吉は鍋井克之をモデルにしている。さらに作中の「浪華洋画研究所」は、楢重や鍋井らが大正十三(1924)年に創設した「信濃橋洋画研究所」のことであろうし、八田弥作や入井市造といったほかの登場人物も、津田青楓、黒田重太郎、国枝金三あたりの実在の画家をもとにしているのかも知れない。
 『枯木のある風景』がやや特異なのは(あくまでこの作品が発表された当時において、であるが)、古泉の人となりやその画風・芸術観、夭折の「真相」が、周囲の島木、八田、入井の回想や語り、思考の過程のなかから次第に泛び上がって来る、ということで、広義のミステリ小説のような味わいがある。実際に宇野は、楢重には一、二度しか会ったことがないらしく、鍋井の話を聞いて、『枯木のある風景』の構想を練ったらしい*3
 このことについて小田光雄氏は、以下の如く書いている。

 これ(『枯木のある風景』)は大阪出身の小出楢重をモデルにした小説であり、小出と宇野の共通の友人の洋画家鍋井克之から、小出の晩年の話を聞き、彼の画集や随筆集などを参考資料とし、小説に仕立てたものだ。宇野が参照したのはいずれも未見であるが、小出の『楢重随筆』(中央美術社、昭和二年)、『めでたき風景』(創元社、昭和五年)、『小出楢重画集』(春風会、昭和七年)などだったと思われる。(「宇野浩二小出楢重、森谷均」*4『古本屋散策』論創社2019所収:292)

 また、水上勉の『宇野浩二伝』によると、

(宇野は)『二つの道』の後記でも、「楽屋を打ち明けると、『枯木のある風景』をかいた画家は小出楢重で、その親友は鍋井克之であるが、まつたく空想の作品である」と書く。(中公文庫版〔1979〕下巻p.180)

と、「まつたく空想の作品」などと宇野一流の?表現で煙に巻いているようだが、肝心なところは確かにそうだとしても、ディテール、たとえば、島木が古泉から聞いたとする「骨人」「胃のサボタアジュ」という話の内容は、楢重の随筆「骨人」(『小出楢重随筆集』所収pp.74-78)、「胃腑漫談」(同pp.43-48)の梗概になっていたりするので、全体としては、細かな事実を積み上げていったところに生れた空想、と云い得るかもしれない。
 一方で楢重は、宇野について、

 挿絵を試みようかという心になった因縁が宇野氏にありながら、そして最近再び話が宇野氏との間に持ち上ったのだが、それだのに氏のものをまだ描く機会がないのも妙な因縁である。(「挿絵の雑談」『小出楢重随筆集』所収p.365)

と述べており、両者は結局すれ違ったままで終るのだが、もしも楢重が宇野の作品の挿絵を担当することがあったとするなら、果してどのような作品が生れたであろうか、と夢想する。
 楢重歿後に発表された宇野の『枯木のある風景』は、一時期精神に異常をきたしていた宇野のカムバックを世間に印象づけた作品で、その作風を一変させたという点でも劃期をなしたことで知られる。
 当時改造社の編集者だった徳広巌城、すなわち上林暁は、六年かけて宇野からこの『枯木のある風景』の原稿をようやく取りつけている。上林がいなければ、名作『枯木のある風景』はあるいは生れえなかったのかも知れない。
 上林の労苦と宇野の懊悩とは、『宇野浩二全集』の月報のために書かれて『宇野浩二回想』にも収められた、「『枯木のある風景』まで」を読むとよくわかるが、これはつい最近出たオリジナル文庫の上林曉/山本善行編『文と本と旅と―上林曉精選随筆集』(中公文庫2022)の末尾に収められ(「『枯木のある風景』の出来るまで」)、手軽に読むことができるようになった。
 その一節を引いて結びとしよう。

 私は今に、六年かかって「枯木のある風景」を取ったことを、記者時代の手柄話にしている。宇野氏にしても、六年間自分を見捨てないで足を運んだ私の労を徳として、私に渡してくれたのであったろう。(中公文庫版pp.337-38)

*1:帯文はさらにもう一つ、小島直記『出世を急がぬ男たち』に収める『本のある風景』評の一節も引用している。

*2:ちなみにこの本は1975年に昭森社から覆刻刊行されているが、その覆刻版の方は見たことがない。

*3:附言すれば、『枯木のある風景』の初版本(1934年白水社刊)の装釘も鍋井が担っている。

*4:2010年5月発表。