向田邦子「大根の月」のことなど

 実家にVHSの録画機器が導入されたのはわたしが小学4年生の頃で、1991年のことだった。当時TVCMに出演していた鈴木保奈美の顔写真の販促用シールが貼ってあって(なぜかその色が褪せるまで家族の誰もがそれを剝がさずにいた)、たしか「マラソン美録」を謳い文句にした製品だったと記憶する。その録画機器が我が家にやってきてまだ間もないころに、TBS系「花王 愛の劇場」枠の昼ドラ「アイとサムの街」(角野栄子原作)の録画予約に失敗して、まったく別の大人向けのドラマが録れてしまっていたことがある。
 残念だとは感じながらも、せっかく録れたものを上書き消去するのも勿体ない――と思ったか思わなかったか、一応そのドラマを見始めたのだったが、なにしろ小学生の時分のことであるから、意味内容はよくのみ込めずにいた。それでも最後まで集中して見られたので、多分それなりに面白く感じたのだろうとおもう。しかし、それから時を経るうちに、そのドラマのタイトルから結末から何からすっかり忘れてしまっていたのだが、ただ一つの場面だけ――萬田久子(当時は名前を知らず、これはあとから知ったのである)が庖丁でハムを切っていると、脇から息子がつまみ食いをしようと手を伸ばしてきて、その指を過って切り落としてしまうという衝撃的なシーン――だけが、長らく脳裏にこびりついて離れずにいたのだった。
 それから十年が経った大学2年生のある日、偶々手に取った向田邦子『思い出トランプ』(新潮文庫)に収められた短篇「大根の月」のタイトルに、いつかどこかで目にしたという感覚があった。それで早速読みはじめたところ、主人公の英子が、ハムをつまみ食いしようとした息子・健太の人差し指を庖丁で2センチばかり切り落とす場面に出くわして、忘却の彼方にあった例のドラマのことを唐突におもい出した。そして、それがまさに「大根の月」のドラマ化作品にほかならないことを確信したのである。
 さてその当時、「大根の月」以外の『思い出トランプ』収録短篇も併せて読んでみるにはみたのだが、評判ほどには面白いとおもえず、またある理由から、その後、しばらく向田作品を意識的に遠ざけていた時期もあった(なんと勿体ない)。
 だがここ十年、しだいに向田作品に対して親しみをおぼえるようになり、改めて読み直す機会を得ている。『思い出トランプ』も、職場の大先輩の話に触発されたのを契機として、先日4度目の通読を了えた。4度目ともなると、その面白みがわかってきたばかりか、やや大袈裟かもしれないが、日本語小説の書き手としてこれほどの短篇の名手はそうそう他にはあるまい、とまで考えるようになった。描写に無駄も一分の隙もないのである。とはいえ、精密機械のごとく細部まで計算され尽くした精巧さというのではなく、和田芳恵の晩年の短篇群のような、とでもいおうか、熟練の畏るべき職人藝としての巧さをそこに感じるのである。
 『思い出トランプ』所収の短篇が逸品ぞろいであることはもはや贅言を弄するまでもないだろうが、最近でもたとえば、『本に出会ってしまった。――私の世界を変えた一冊』(Pヴァイン2024)で大平一枝氏が、冒頭の「かわうそ」について、

 わずか一六ページの短編は、しかし一本の映画のような展開と深みがあり、過去と現在が交錯しながら思わぬ方向に進む。奇をてらわず、かわうそのような女も、煙草を落とした男もどこにもいそうだ。そう膝を打ちたくなるのは、それだけ人間の機微が繊細にリアリティを持って描かれているせいだろう。
 誰も死んだり、派手で得意なキャラクターは出てきたりはしないのに、最後の一行まで読者を引きつけて離さない。読後の余韻も独特で、しばらく放心した。(「代表作を、あえて」pp.91-92)

と評しており、またこの作品集全体については、以下のごとく述べている。

『思い出トランプ』は私に、もっと努力せよ、あなたの表現力はその程度かとけしかけてくる。一行一行、練りこんでこれしかないというオリジナルの言葉で構築したか。どこかで見た、借りてきた言葉を使っていないか。本当に空は青いのか、その人は明るいのか。哀しみのなかにわずかな希望もなかったか。予定調和で終わらせていないか、手を抜いていないかと、小説の神様が次々厳しく問いただしてくるのだ。
 小説とノンフィクション。フィールドも才のレベルも全く違うが、長く残る作品を紡ぐという矜持において、私は向田作品から学ぶことがとてつもなく大きい。(同p.95)

 湯川豊氏も、『思い出トランプ』所収の「花の名前」(向田は、この作品と「かわうそ」「犬小屋」との計3篇で、1980年上期の直木賞を受賞している)を「まことにうまい短篇」として取りあげて、

しかし、常子の今が結論ではない。この後に、波乱があるかもしれない、というところで短篇が結ばれている、と思うこともできる。そのゆるやかさが、この一篇の「うまさ」としてある。(『一度は読んでおきたい現代の名短篇』小学館新書2018,p.103)

と記している。ちなみに湯川氏は、ここでいう小説の「うまさ」というのは「たんに、「技巧」がある、ということではな」く、「(人間と世界への眼差しの深浅から生れる)語りや場面描写などすべてを内に孕んで展開する」文章表現としての「うまさ」のことだ、といい、

 向田邦子は脚本家として出発したのだったが、小説を書きだすとすぐに、小説がうまい、といわれてきた。その「うまさ」には、こう表現するほかはない、という思いがこもっていた。人間に対する苦い認識と、それを乗り越えて慰めの物語をつくろうとするやさしさ、この二つが同居している思いがこもっていた。(同p.99)

と書く。湯川氏がここまで「うまさ」の中身について縷々述べなければならなかったのは、向田が小説を書き始めた頃に、「うますぎる」という表現で批判されたことがあるという事情もあったからだろう。そのことについては、高橋行徳氏が以下のごとく記している。

 しかし向田にとって、最もこたえたのは恫喝ではない。彼女の創作自体を突いた非難だった。向田の短編の多くは、日常の一瞬を切り取って、人間の闇を垣間見せる作品である。そのため綿密な構成を施し、巧みな表現を用いている。これは高い評価にもなるが、逆にその鮮やかな筆さばきが鼻につき、うますぎるとか小味であるという批判を浴びることにもなった。
 (向田が直木賞を受賞した後に「脅迫まがいの電話をかけて」きた―引用者)匿名の電話男は、向田の斬新な文学手法を一顧だにせず、それをもっぱら弱点として攻撃した。そして最後に、お前さんは短編は書けても、長編は決して書けないから、と言い放った。向田はこの嫌がらせの言葉がよほど悔しかったのだろう。後日、大山勝美に、「短編なんか(書けても)と言う批判に対して絶対長編を書いて見せる」と断言した。(高橋行徳『向田邦子『あ・うん』―「青りんご」まで―』鳥影社2024:27-28)

 一方で高橋氏は、向田の短篇作品の「卓越した技法こそが、長編を書く際の妨げになっている」(p.29)とみて、その理由をいくつか列挙しているのだが、詳しくは同書に就かれたい。
 さて、「大根の月」である。わたしが『思い出トランプ』を読む切っ掛けとなった作品であることはさきに述べたとおりだが、この作品も、書き出しからして実に巧くて、読み手を捉えて離さない。

 あのことがあって、かれこれ一年になるというのに、英子は指という字が怖かった。(「大根の月」『思い出トランプ』新潮文庫改版2014,p.134)

 冒頭の「あのこと」というのは、拙文をお読みの方なら察しがつくだろうから触れることはせずにおいて、つづいて末尾の一文を引いておく。

 空を見上げて、昼の月が出ていたら戻ろうと思い、見上げようとして、もし出ていなかったらと不安になって、汗ばむのもかまわず歩き続けた。(同p.149)

 この文章の動作主は英子なのだが、「昼の月が出ていたら戻ろうと思」った場所とは「家庭であり家族」のこと。半沢幹一氏は、「英子のどのような今後が想像されるか」という問いを立てたあと、次のようにいう。

この時点で、戻りたいという英子の気持に嘘はなかったと思われますが、「歩き続けた」のはもちろん一人でであり、それはその日だけのことではなく、それ以降のことも含まれていると読み取ることができそうです。つまり、気持はともかく、現実には元の家庭に戻ることなく、一人で生きてゆくのではないかということです。(略)
 英子にとって、家庭にある「一番大切なもの」と「一番おぞましいもの」とを秤にかけたとき、もはや後者に対する拒否感のほうがまさっていたということになります。そうして、家庭を捨てて女一人生きてゆく不安と迷い、にもかかわらずその自由をあえて選ぼうとする覚悟と勇気。「大根の月」の末尾文は、その両方を鮮やかに描き出しています。(『向田邦子の末尾文トランプ』新典社新書2020:37)

 タイトルの「大根の月」というのは「昼の月」、つまり昼間に出ている月の象徴でもあるのだが、これは新婚間もない頃に夫と「昼の月」を眺めた際の会話を通じて、英子にとっての幸福のシンボルとなっている*1。半沢氏によれば、「この二人の会話がやりとりとして示されるのは、ここだけ」で、「他にも、二人のやりとりと思われる場面はいくつか出て来るのですが、会話文として示されるのは秀一のほうだけ」だ(『向田邦子の会話文トランプ』新典社新書2023:115)という。
 また半沢氏は、昼間の月の一種の「非日常性」という側面に着目して、

英子は、この決断(家庭に戻るか戻らないかという決断―引用者)を先延ばししているだけであって、そのかぎりでは、(夫である―同)秀一との関係も、もし続けるとしたら、昼の月のように非日常の形であることを示しています。(『向田邦子の思い込みトランプ』新典社新書2016:75-76)

とも説いている。ところで、その「昼の月」は、「天候や月齢によっては見えにくい時もありますが、晴天であれば、満月以外なら見えるのです(厳密には、真昼時限定ならば四分の一以上が欠けている月のようです)」(同前p.69)とあるように、円=満月の形をしていないことがミソで、実は半月なのである(「大根の月」すなわち輪切りの大根も、作中には円ではなく半円形のもの=「切り損なった薄切りの大根」として登場する)。
 そしてその半月と、秀一が持っている「ラグビーボールの格好をした財布」との相似性を、向田が暗示しようとしていることにも半沢氏は着目し、「大根の月」が「『思い出トランプ』の他の作品とは異なり、登場人物の外見描写がきわめて少ない」性格をもつことを指摘している(『向田邦子の比喩トランプ』新典社新書2011:58-59)。
 この「昼の月」が半月であること、作中の夫婦二人がその月を数寄屋橋のビルの上に見たこと――などの手がかりから、それが七日前後の上弦の月であって、時刻は大体午後2時半ごろ――だったと推測するのが、馬上駿兵氏である。

 月は一時間に一五度ずつくらい昇り(沈み)ます。ですから、午後一時半頃には三〇度ほどの高さ、午後二時半頃には四五度ほどの高さにあることになって、恐らく先ほど書いたとおり、二時半前後の時刻になると、ちょうど「ビルの上に」「半月形の月が浮かんでい」る見当になるでしょう。
 さらにもう一時間経って午後三時半頃になると、六〇度ほどの高さまで昇ります。感覚的なところにはなりますけれども、ここまで昇ってしまうと、「ビルの上に」という表現とは、若干そぐわなくなるような気がします。二時半ぴったりの時刻とまでは言えないとしても、その前後三〇分ずつ程度の範囲で考えることは、あながち根拠のないことではないのです。(『重箱の隅から読む名場面』新典社新書2018:18)

 加えて馬上氏は、英子が末尾で見上げようと逡巡した空に月は浮かんでいたか――という問題に対しても、可能性としては非常に低かったことに言及している(同前p.26)。ただ、本旨と関わらないところで若干不思議な点は、馬上著に引用されている「大根の月」の末尾文が、

空を見上げて、昼の月が出ていたら戻ろうと思い、見上げようとして、もし出ていなかったらと不安になって、汗ばむのもかまわず歩き続けた。(同前p.23)

となっていることで、馬上氏は「見上げようとしても」の「も」に「作者の周到な意図がある」と解釈している(同前p.28)。さきに引いたとおり、新潮文庫(改版)には、この「も」がない。半沢氏の一連の著作に引かれている末尾文にも、やはり(新潮文庫旧版からの引用もあるはずだが)「も」がない。「も」がある別のテクストも存在する、ということなのであろうか。
 それはともかく、「昼の月」といえば、津川廣行『低い月、高い月―月の文学、物理の月』(藤原書店2023)、その「第二章 月光の装い」に「三 正午に月は見えるか」という節があって、参考になる。津川氏はそこで、フィリップ・スーポーの「ボンソワール」という詩、あるいはフランス語の「真昼に月を見せる(montrer la lune en plein midi)」=「単純な人をだまして信用させる」という言い回しに導かれるようにして、「正午に月は見えるか」という問いを立てて、大阪での観測を敢行(2018,20~21年)する。ここでいう「正午」とは、「天文学的意味での正午すなわち南中時からの、正午の時報のずれは、最大でも一八分」と自身で述べるように、正確には一一時四二分から一二時一二分までの間をさすのだが、最終的には「正午の月の観察のチャンスがあるのは、ほぼ、上弦の直前か、下弦の直後のあたりである」(p.113)、「上弦のパターンでは春に、下弦のパターンでは秋に見やすくなる」(p.115)等と結論している。そしてスーポーが生れ育ったパリで「正午の月」を見ることができたか、というところにまで話が及ぶのだが、結論に言及することは差し控えたい。
 各月各日の月の出入り、そして月齢を確認するには、やはり『理科年表』(丸善)冒頭の暦部を見るに如くはないだろうが(その出入りや南中時刻は飽くまで「東京都港区麻布台2丁目18番地1」、いわゆる日本経緯度原点のものだが)、実際に肉眼で月を確認できるかどうかは、津川氏もいうように、もちろんまずは当日晴れていることを前提として、先述のとおり季節や月の形、場所にもよるのだし、「月は、低いほど地平線の雲や霞やスモッグの影響を受けてしまう」(津川著p.116)ことがあったり、「眩しい太陽から離れているほど見やすい」(同前)ことがあったりと、月の出入りの方角や高さなど様々な事情に左右されるだろうから、英子が見上げようとした空には、やはり「昼の月」は浮かんでいなかった可能性がかぎりなく高い。
 ときに向田は、(名脚本家であるのは云うまでもなく)短篇の名手であるとともに、あたかも「お手本」のような「エッセイ」を書く作家でもあった。
 ここであえて「エッセイ」を際立たせたのは、向田の場合、書いているものは「随筆」ではなく「エッセイ」でなければならない、という気がするからだ。さてその「随筆」と「エッセイ」とはどう違うか――ということについては、かつて向井敏が次のように述べたことがある。

 この十数年のあいだにすっかり様子が変って、随筆という語はしだいに間遠になり、今では、従来随筆と言いならわされてきた文章だけでなくて、小説と学術論文と実用記事以外のほとんどの文章をエッセイと呼ぶのがふつうになっている。(略)「随筆家」にいたっては死に絶えたも同然で、すべて「エッセイスト」にとって代られた。(略)
(昭和三十年代以降―引用者)随筆がエッセイにとって代られた、というよりエッセイにとりこまれたということには、当然それなりの理由がある。近代の随筆、ことに大正末期から昭和十年代にかけて活況を呈した随筆文学は、私小説のくずし書きといった形の身辺雑記ふうのものが大勢を占め、今日のエッセイのように、学問的な、また社会的な諸問題をも語るためには器が小さすぎたというのが、おそらくその最大の理由であったろう。
 逆に、エッセイにとっても、随筆をとりこむことは好都合だった。いちいち発言の裏付けを要求される形式張った評論などと違って、随筆という文章形態はもっと気楽な性格のものだから、それをうまく利用すれば、大胆な学問的仮説や斬新な社会学的考察をだれはばかることなく語り出せるからである。(「随筆かエッセイか」『傑作の条件』文春文庫1992←文藝春秋1989:98-99)

 向井はこのように、「随筆」が(現代語としては)いわば廃語のようになった――という書きぶりだが、しかし比較的近年でも、「随筆集」と銘打った文集がしばしば刊行されているのである。もっとも、「エッセイ」がなぜ便利な呼称になったかという説明としては面白いが。
 一方、最近の酒井順子『日本エッセイ小史―人はなぜエッセイを書くのか』(講談社2023)は、伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』を日本のエッセイの嚆矢的存在とみたうえで、以下のように述べている。

 しかしエッセイは、曖昧さを求める時代の産物でした。伊丹十三のエッセイは決して曖昧な内容ではありませんでしたが、彼のエッセイに衝撃を受けた側の若者達は、何とはなしのカッコよさに惚れたのであり、その曖昧さこそがエッセイの妙味。以降、欧米っぽさ、新しさ、軽さ、くだらなさ・・・・・・といった、大人の世界とは反対の価値観を持って書かれたものが「エッセイ」と言われるようになり、古風であったり、権威が感じられたり、啓蒙的であったりするものが「随筆」となったのではないか。
 日本で「エッセイ」という言葉が広まる背景にそのような事情が関係するのだとしたら、エッセイと随筆の違いを説明することは永遠に不可能となりましょう。「カッコいいっぽいのがエッセイで、そうでないものは随筆」とは、偉い人達が決して口にしたり書いたりできることではないのだから。(pp.26-27)

 すなわち、「随筆」「エッセイ」はその性格によっていわば棲み分けられるようになったという見解である。その酒井氏は、同書の「女性とエッセイ」で向田邦子『父の詫び状』をとりあげているのだが、酒井著を読んでいて、今さらながら「あっ」とおもったのは、向田と須賀敦子とが同年(昭和四=1929年)の生れである、という事実に気づかされたことだった。
 酒井氏は、「勢いに満ちた、そして時代の空気をたっぷりと孕んだ若者のエッセイ」と、向田や須賀の書き残したエッセイとを対置させ、後者は「氷雨も慈雨も、長年の間にたっぷりとしみこませた土壌を、満を持して掘った時に湧き出る透明な泉のような読み物」だと評したうえで、「水の味に流行りすたりは関係しないからこそ、時代が移り変わっても彼女達の作品は読み続けられているのではないか」(p.132)と結んでいる。
 酒井氏のこういった見方も参照しつつ書かれているのが仲俣暁生「物想うゆえに我あり――現代エッセイの名手たち」(『kotoba 55 エッセイを読む愉しみ』集英社2024)で、仲俣氏は、向田と須賀との共通項として「父親との紐帯と反発をモチーフにした書き手」「さまざまな主題の影につねに『父』の存在があった」等という点を挙げている(p.125)*2
 とまれ、向田の作品はやはり「随筆」ではなく「エッセイ」でなければならないと思う。たとえばちくま文庫のオリジナル選集だって向田和子編『向田邦子ベスト・エッセイ』(ちくま文庫2020)であるし*3、文春文庫の小池真理子選『精選女性随筆集 向田邦子』(2023*4←『精選女性随筆集 第十一巻 向田邦子文藝春秋2012)は、表題、カバ裏の内容紹介こそ「随筆」だが、小池真理子氏の巻頭文、高橋行徳氏の解説では「エッセイ」「エッセイスト」などとなっている。
 そういった向田のエッセイに大きな影響を受けた人も少なからずいて、たとえばクラフト・エヴィング商會吉田篤弘氏は『木挽町月光夜咄(こびきちょうげっこうよばなし)』(ちくま文庫2015←筑摩書房2011)の「黒いうわっぱり」で、

『父の詫び状』こそ最も愛読してきた一冊で、(略)もし、あの頃この本を読んでいなかったら、自分は文章を書く仕事などしていなかったと思う。
「あなたが最も影響を受けた作家は」
の質問に、迷うことなく「向田邦子さんです」と答えてきた。(p.22)

と書いている。
 ああ、こんな文章を書き(打ち)写していたら、また『父の詫び状』を読みかえしたくなってきた。

*1:一方で、英子は切り損なった「大根」に対してにはよい思い出がないから、このタイトル自体、あるいは、「大切」でもありまた「おぞまし」くもある、という両義性を帯びているのかもしれない。

*2:どうでもよいことだがこのp.125に、おそらく編集サイドのミスだろうが、『ヴェネツィアの宿』という誤記がある。

*3:ちくま文庫の「ベスト・エッセイ」はそういうフォーマットだから、このシリーズ(当該シリーズについては、既刊がまだ4冊だった6年前に、ちくま文庫の「ベスト・エッセイ」 - 黌門客というのを書いたことがある。そちらにも引用文中に向田邦子が出てくるが、そう云えば、向田と色川武大も同年の生れだった)に入るとそういうタイトルにならざるを得ないのだが、しかしその一方で、早川茉莉編『片山廣子随筆集 ともしい日の記念』(ちくま文庫2024)という書名の本も出ているのである。なお片山は70年近く前に物故した人物だが、「エッセイスト・クラブ賞」を受賞している。

*4:この文庫版は刊行中で、今月は偶然にも須賀敦子の巻が出ている。