イーディス・ウォートンや『配達されない三通の手紙』のこと

 イーディス・ウォートンについては、昨年末まで、「『エイジ・オブ・イノセンス』で女性として初めてピューリッツァー賞を受けた作家」といった教科書的な知識しか持ち合わせていなかったのだが、小森収『はじめて話すけど…… 小森収インタビュー集』(創元推理文庫2023←『はじめて話すけど…』フリースタイル2002)の文庫版ボーナス・トラックとして収められた北村薫氏へのインタビューで、以下の様なやり取りがなされているのを目にしたことが、まずはウォートンの短篇「ローマ熱」(Roman Fever, 1934)を読んでみる切っ掛けとなったのだった。

北村 イーディス・ウォートンの「ローマ熱」の話をしてもいいですか? 直接聞くと恐れ多いから(古市*1の方を向いて)いかがでしたか?
古市 えっ、私ですか?……面白かったです。北村先生がお見えになる前に、小森さんとお話ししてたんですけど、この結末は、本当に全部起きたのかという……手紙をもらったところまでは、本当にあったと言えるんだけど、その先というのは……
北村 深読みだなあ(笑)。そこまで行くと、話崩れちゃうんじゃない? そう取れば取れるんだけど、話として恐ろしいのは、事実のときじゃないか。そうでないと、バーバラが活きてこないから。恐ろしいほど周到に張り巡らされた準備、伏線。タイプというか、イメージとしては、(ふたりの女は)竹下景子松坂慶子が話しているようなね。松坂慶子は派手でモテモテだったんだろう。竹下景子は地味でね。竹下景子より、もうちょっとくすんだ感じかな。
小森 それって。もしかして「配達されない三通の手紙」ですか?
北村 それは気づかなかった。
小森 「ローマ熱」は、北村さんも『20世紀アメリカ短篇選』でお読みになったんですか。
北村 私、イギリス短篇選の方は、全作読んだんですよ。それでエリザベス・テイラーの「蠅取紙」をアンソロジーに採ったんです。だけど、アメリカの方は棚に置いたまま読んでなかったの。全部は読めないから、なら、イギリス読もうかなって(笑)。で、小谷野敦さんが、ネットに書いた書評を本にしたんですね。それが面白くて面白くて。で、ウォートンの『幽霊』のところで『20世紀アメリカ短篇選』に言及し、「「ローマ熱」傑作」と書いた。それで読んだんですよ。それが、すなわち、アンソロジーの効用というものだと思うんです。アンソロジーに入っていなければ読まないような作品を、誰かがアンソロジーに入れてくれていた。入れておいてくれると、誰かがそれを読んで「傑作」と言ってくれる。そうして、その作品に出会うことが出来る、イーディス・ウォートンって、私、全然意識していなくて。「ローマ熱」という短編については、なにか言うとネタばれになっちゃうんで、言えないんだけど……ふたりの女の設定についても言いにくい。なにを言ってもネタばれになっちゃうという感じはあるんだけど。最後まで行くと、緻密に伏線が張り巡らされていて、結末に到るまでの準備と最後の驚きを考え合わせると、これは、……『短編ミステリの二百年』に入っていても、おかしくない(笑)。
小森 (笑)もっと、早くに教えてくださいよ。
北村 あっ。採る価値あると思います?
小森 あると思いますよ。ウォートンは創元推理文庫の『怪奇小説傑作選』にも入っていたし……。たぶん、採って、入れてたら「裏漉(うらご)ししてなめらかに仕上げた連城三紀彦みたい」とか書いた気がします。(pp.363-65)

 小森氏によると、同書に「ローマ熱」を収録することも考えたそうだが、「ページ数の関係もあるが、平石貴樹柴田元幸の両氏が、近年それぞれアンソロジーに選び、かつ新訳を発表なさっていること」(「あとがき」p.376)を理由に見送ったという。なお北村氏の言及している『小谷野敦のカスタマーレビュー』(アルファベータブックス2012)は、わたしは出たばかりのころに購って通読し、実家に置いているのだけれど、「ローマ熱」への言及はまったく憶えていなかった。
 ともかく、上のくだりを一読したあと無性に「ローマ熱」が読みたくなり、その数日後には大津栄一郎編訳『20世紀アメリカ短篇選【上】』(岩波文庫1999)を110円で入手、昨年の12月21日に、めでたく「ローマ熱」(岩波文庫版の冒頭に収められている)を味読することがかなったのだった。
「読み巧者」の二人が太鼓判を押す作品であるから、面白くないはずがない。北村氏の云うとおり、「なにを言ってもネタばれにな」る作品で、内容は詳らかにしえないが、あっと愕く結末と伏線の回収とに一読三歎したものであった。
 さてそうなると今度は、昨年刊行されたウォートンの代表作『エイジ・オブ・イノセンス』の新訳、河島弘美訳『無垢の時代』(岩波文庫)がにわかに気になってくるのも無理からぬ話で、こちらは今年に入ってから、1週間ほどかけて読了した。
 『無垢の時代』は単純化すると、青年弁護士ニューランド・アーチャーが(物語はこのニューランドの視点から描かれる)、婚約者メイ・ウェランドと、ニューランドの幼馴染みにしてメイのいとこでもあるエレン・オレンスカ伯爵夫人との間で「揺れ惑う」姿を描きつつ、作品の舞台である1870年代の米ニューヨークの上流社会を、そこに生きる人々や慣習、掟をつぶさに観察して「一つの世界」として描き出した重厚な作品である。
 この作品自体は、以前から多少気にはなっており、たとえば柚木麻子氏が、

 アーチャーとエレンは、ほぼプラトニックに愛を育む。人目を避けた、メトロポリタン美術館の「セスノーラ古代遺物」室でのデートはとりわけロマンチックだ。二人を引き裂く上流社会、それを象徴するメイが、完全な悪として描かれないのが、この作品の素敵なところ。古臭く、人間性を無視した、無意味なルールではあるけれど、いずれ時代に取り残され消えてしまうことが決定しているそれらは、どこか甘くて切ない香りをまとっている。(『名作なんか、こわくない』PHP文芸文庫2021←PHP研究所2017:249)

などと書いているのを読んだり、また青山南氏が、

 気分のいいときは、たいていの本も、とても素晴らしくみえる。とくに、恋しいだれかとしばし至福の時をすごして、心のなかがぽかぽかしていたら、どんな本でも素晴らしくみえるだろう。
 その一例。つぎの文章中の「彼」は「エレン・オレンスカ」なる女性にぞっこんで、ちょっと楽しい時を彼女と過ごしてきた。帰宅すると、注文していた本がどっさりとどいている。
「次々に本が手から落ちていく。突然、そのなかに『生命の家』という題名に惹かれて注文した小さな詩集が見つかって、うれしくなった。彼はそれを取りあげ、たちまちこれまで本で味わったことのない雰囲気に飛びこんだことがわかった。ひどく暖かくて、ゆたかで、それでいて、言いようがないほどやさしいので、人間のもっとも基本的な情熱が、新しい、心に取りついて離れない美しさを与えられている。一晩中彼は、この魅力的なページのなかに、エレン・オレンスカの顔をした女性の幻を追い求めた」(イーディス・ウォートン『エイジ・オブ・イノセンス』大社淑子訳、新潮文庫*2
 だまされてはいけない。「ひどく暖かくて、ゆたかで、それでいて、言いようがないほどやさしいので、人間のもっとも基本的な情熱が、新しい、心に取りついて離れない美しさを与えられている」という感想は、『生命の家』という詩集の感想ではないぞ。そのときの彼自身の幸福感の表明だ。
 彼自身が、これまで本で味わったことのない、ひどく暖かい、ゆたかな、それでいて言いようがないほどやさしい、人間の基本的な情熱を、新しい、心に取りついて離れない美しいものにしている、そんな状態にあるので、『生命の家』がそう見える。
『生命の家』も、多少は、そういう雰囲気のただよう詩集ではあるのだろう。でも、『生命の家』にがぜん生命をあたえているのは、幸福感でいっぱいの「彼」という読者である。(『本は眺めたり触ったりが楽しい』ちくま文庫2024←『眺めたり触ったり』早川書房1997:109-11)

と引用しているのに触れたりして、その都度、いつか読みたいとおもっていたのだった。
 ちなみに新訳の岩波文庫版では、上掲の引用部はp.213に出て来る(第1部第15章)。手から次々に落ちた本のなかには、「ハーバート・スペンサーの新著」や「アルフォンス・ドーデの素晴らしい作品集」、「最近興味深い書評が出た『ミドルマーチ』」なども含まれている。そしてこの引用部の直前は、「けれどもこのとき、本好きの人間独特の官能的とさえ言える喜びとともにページをめくりながらも、活字の内容はいっこうに頭に入って来ず」となっており、これに続けて「本は次々と手から落ちた」とある。ヒントとなりうる「活字の内容はいっこうに頭に入って来ず」の箇所を青山氏が意図的に引用しなかったのかどうかまでは解らないが、いずれにせよ、この小説は思わず引用したくなる衝動に駆られる箇所が鏤められた作品でもあって、たとえば、

――そんなウェランド夫人の表情から平静さがいきなり失われる様子が目に見えるようだった。夫人の顔には、娘のメイに似た若々しい美しさの名残がまだとどまっていた。メイもいつかは母親と同じように、頑固な無垢を維持したまま中年の表情へと固まっていく運命なのだろうか、とニューランドは自問した。
 ああ、だめだ、そんな種類の無垢――想像に対して精神を閉ざし、経験に対して心を閉ざすことを命じるような類の無垢など、メイには持ってほしくない!(第1部第16章p.222)

 書斎のカーテンを決めるときにニューランドは、カーテンレールの上を左右に動くタイプにしたいと強く希望した。客間のように金色に塗った蛇腹に釘で留められ、何層ものレースの上に固定されているものとは異なり、これなら夜には閉められる。それで今はそのカーテンを開き、窓枠を押し上げて、氷のように冷たい夜の空気の中に身を乗り出した。テーブルのそばのランプの元に座っているメイを見なくてすむという事実、他の家々、屋根、煙突などを眺めて、自分の生活とは別の生活があり、ニューヨークの外には別の都市が、そして自分の世界の向こうには全世界があると感じられる事実――それだけで頭がすっきりして呼吸が楽になった。(第2部第30章p.449)

等々、印象に残る一節が多々あった。
 最終章の第2部第34章では、執筆当時のウォートンとほぼ同じ年齢となったニューランドが、書斎の椅子に腰掛けて来し方を振り返っている。意外といえば意外な「その後」がそこで明かされるが、それはこの作品ではこれ以上にないハッピーエンドだともおもえる。訳者の河島氏によれば、ウォートンは「試行錯誤の末に」この結末を択んだ(p.575)のだそうで、ラストの余韻もまた良い。
 さて今夏にも、ウォートンの新訳が出た。宮澤優樹=訳『イーサン・フロム』(白水Uブックス)である。こちらも先日、何日かかけて読み了えた。これは一転して、貧しい男の半生についての話だけれども、「ローマ熱」のようなミステリ的興味を充足する作品に仕上がっている。男――イーサン・フロムはなぜ、事故に遭って片足が不自由にならなければならなかったのか。イーサンの家のドアの向こうで語り手の「私」が聞いた「ぼそぼそとした、不満げな女性の声」はいったい誰のものであったか。また、イーサンはなぜ「生物化学」の話題に興味を示したのか。そういったひとつひとつの「謎」が、物語の進行とともに解きほごされていくのである。
 余談にわたるが、文庫化を心待ちにしていたE・M・フォースター/中野康司訳『小説の諸相』(中公文庫2024←『E・M・フォースター著作集8 小説の諸相』みすず書房1994)が、トルストイの『戦争と平和』について説いたくだりで、「特定の場所に愛着をもつ小説家はたくさんい」るけれども、「空間感覚をもつ小説家はきわめてまれで」、「この才能は、トルストイの偉大な才能のなかでもとりわけ偉大なもの」だ(p.67)と論じているのだが、――まだ3作品しか読んでいないけれど――イーディス・ウォートンも、「空間感覚をもつ小説家」と評してよいのではないか、などと考えてみたりもしている。
 ところで、さきの北村氏のインタビュー中に登場する野村芳太郎『配達されない三通の手紙』(1979,松竹)は、こちらも触発されて、今年の1月30日に観たのだった。当時の日記には次の如く感想を記した。

 エラリー・クイーン『災厄の町』のライツヴィルを山口県萩市に置換え翻案したもの也。評価が低いのでさまで期待せずにみたが、思ったよりも良かった。エラリイ役にあたるボブ(蟇目良)は独りで探偵をこなすのではなく恵子(神崎愛)との素人探偵のコンビで(このあたり、ヒッチコック的だ)、ラストでも検事(渡瀬恒彦)がある重要な推理を披露する。〔原作にある〕法廷劇を端折ったのは、前年の「事件」との類似を避けるためでもあるか。紀子(栗原小巻)と智子(松坂慶子)の存在感がつよく、長女ローラ役にあたる麗子(小川真由美)の存在感は薄い。(原文ママ

 「評価が低いので」というのは、おそらく飯城勇三ほか『エラリー・クイーン パーフェクトガイド』(ぶんか社文庫2005)における記述などが念頭にあったものかとおもわれるが(自分で書いておきながら、そのあたりの記憶が曖昧だ)、しかし最近のガイド本、飯城勇三エラリー・クイーン完全ガイド』(星海社新書2021)には、「一九七九年に日本で『配達されない三通の手紙』という題で映画化され、二〇一六年にはカナダで舞台化されています。おそらく、監督や脚本家は、この(『災厄の町』の―引用者)魅力的な人々が織りなす魅力的な“ミステリアス・ラブ”を生身の人間に演じさせたいと考えたのでしょう」「映画版の『配達されない三通の手紙』の脚本は――予定稿ではなく、映画との違いがいくつもありますが――《シナリオ》誌の一九七九年十二月号に掲載されているので、読み比べてみたらどうでしょうか?」(p.113)とあるだけで、映画の評価にまでは踏み込んでいない。
 野村芳太郎・著 小林淳/ワイズ出版編集部・編 野村芳樹・監修『映画の匠 野村芳太郎』(ワイズ出版2020)は、

「原作ものを、大作仕立てで映画化し、高名な俳優たちを綺羅星のように並べたてて、一見壮麗な作品めかすけれど、その実、真の迫力に乏しい、という昨今の日本映画が陥りがちな落とし穴に、野村芳太郎監督と脚本の新藤兼人のコンビも、どうやらはまってしまったようだ。」(「キネマ旬報」一九七九年十二月上旬号/評者:寺脇研

という当時の評価を紹介しており(p.74)、やはり封切り時から芳しくない評価もみられたようだ。
 なお原作『災厄の町』も、わたしは越前敏弥=訳『〔新訳版〕災厄の町』(ハヤカワ文庫2014)で初めて読み通したので、そんなに昔の話ではない。この新訳版には、飯城勇三氏の解説が附いており、そこで飯城氏は「内容は、驚くほど原作に忠実――なのに、驚くほど原作からかけ離れた感じを受け」る(p.509)と前置きしたうえで、まずは難点から指摘しているものの(詳細は同書に就かれたい)、

 とはいえ、ライツヴィルものを日本に置き換えるという難題に挑戦した製作者も、クイーンの綱渡りのような危ういプロットを映像化するという難題に挑戦した監督と脚本家も、複雑で深くて二面性のある作中人物を演じるという難題に挑戦した俳優も――ハードルの高さを考慮するなら――そこそこの成果は収めたと言っていいのではないでしょうか。原作を読んでいるみなさんならば、かなり楽しめると思います。映画のパンフレットにも「日本アカデミー賞コンビ、野村芳太郎新藤兼人(脚本)は、昨年『事件』を撮り終えたとき、『第2弾はエラリイものがいいんじゃないか?』と話し合ったのは、この映画の誕生のきっかけとなった」とあるので、少なくとも監督と脚本家は、クイーン・ファンだと思われますから。(pp.509-10)

と評している。但し、当初から「エラリイもの」と決まっていた訣ではないようで、野村自身の証言によると、

 今年(一九七九年)の春、撮影を考えた企画「白い闇」「闇の声の声」*3「鉢植を買う女」の三本が、シナリオが思うようにいかず、迷った末、思いきって女性ミステリー映画の『ナイル殺人事件』(一九七八/監督:ジョン・ギラーミンアメリカ])が今年の春にヒットしたので狙う気になり、相談してアガサ・クリスティの「情婦」をやろうとしたのだが*4、どうしても原作の映画化権が取れず(著作権が曖昧のため)、エラリイ・クイーンさん*5なら昨年から面識もあり、話も早いことから、企画部全員で探して、この「災厄の町」が出てきた。(『映画の匠 野村芳太郎』pp.212-13)

ということで、曲折があったらしい。そう語る野村による『配達されない三通の手紙』の評価は次の如くである。

 作品の新聞批評は悪く、褒める人は少数(周りでも)である。しかし、私は逆に、それほど悪くない、と思い始めた。むしろ、時間がなく、シナリオの段階で計算の不足分が弱さとなって出た作品である。(同上,p.214)

 「遅れてきたコマキスト」を自称するくらいだから、本当は映画ももっと早くに観ておかねばならなかったはず(?)だが、とまれ、北村氏のインタビューを切っ掛けとして、様々の作品に触れることができたのは良かったとおもう。

*1:「文庫版の担当編集者である古市怜子さん」とのこと。

*2:上引の柚木麻子氏も、この大社(おおこそ)淑子訳で『エイジ・オブ・イノセンス』に親しんでいるらしい。

*3:ママ。ほかの2本、つまり「白い闇」「鉢植を買う女」は松本清張作品であろうが(「白い闇」は、石井ふく子プロデューサーによる吉永小百合草刈正雄主演のドラマが一昨年の秋にAXNで放送され、録っていたのを昨年見た)、「闇の声の声」というのが何か分からない。国内ミステリというくくりから考えて、遠藤周作『闇の呼ぶ声』の誤記かとも思ったが不明。

*4:正確にはアガサ・クリスティの「検察側の証人」とあるべきところだろうが、「情婦」とあるからには、クリスティの原作の結末をさらにもう一度ひっくり返した、ビリー・ワイルダーの映画版を指しているのに違いない。しかしこれは、いずれにしても法廷劇であることが前提となる作品(チャールズ・ロートンの名演技が忘れがたく、この映画をわたしはこれまでに3度観ている)だから、上に引いた「法廷劇を端折ったのは、前年の「事件」との類似を避けるためでもあるか」というわたしの見立ては謬説ということになりそうだ。

*5:というか、当時存命だったフレデリック・ダネイ氏のほう。